第八十八話 それが記憶を失うとき篇
ミカは天井を見上げ、そこにある黒い人影の絵を人差し指で示した。
「あいつが、記憶を戻してくれたんです。俺が狼になれることとか、狼になった時の出来事とか、今まで知らなかったこと全部、あいつは知ってて……ん? 知らなかったはちょっと変すかね。覚えてないことと、知らないことは違うから」
「でも、君にとっては知らなかったのと同じ感覚だということだろう?」
「そう! だから俺は、ほんとにずっと人間のつもりだったんです!」
ミカは、吸血鬼に向かって強く頷く。
「人間のつもりだったってことは、ご両親は?」
「人間です。家族みんな。俺のことも、人間として育ててもらって、親には、『ミカは病気なんだよー』って言われてました。俺は人より体力あったし、風邪ひいたり熱出たりしたこともなかったから、変だなぁとは思ってたんすけど」
「何の病気かは訊かなかったの」
「訊いたことあるけど、重くて難しい病気だよーって、そんな話ばっかでしたから。それに難しいなら、詳しく聞いても俺にはよくわかんねえだろうなって思ってたし」
「では、君が狼男であることは、君のお父さんお母さんだけが知っていたのか」
「いや、俺が生まれた修道院の人たちも知ってます。その他にも……」
ミカは少しためらうように下を向くと、視線だけをチラと上げて、エリザベスの方を見た。エリザベスは、ミカが過去について案外あっけらかんと話すのを心配そうにしながら聞いていたが、突然ミカにチラ見されて、はてと首を傾げる。
「主には、あと二人います」
「その二人とは、やはり君の能力を知りながら、君や他の村人に隠していた人たちかい?」
「はい。一人は、大学の博士です」
「博士?」
吸血鬼は一瞬目をぱちくりとさせ、ふいに恐ろしい考えが頭をよぎって顔をこわばらせた。
「博士は、俺の『病気』を治すために母さんと神父が探してきた都会の偉い人です。俺は月に一回、その人に連れていかれて、研究所で。いろいろ、なんつーか、いろんな実験を」
ガタッ!
ミカの言葉を途中まで聞いた吸血鬼が、食器が揺れるのも気にせず勢いよく席を立った。エリザベスが拳でドンとテーブルを叩く。
「黙っで話を聞ぎなざい」
「無理だ、気色の悪い」
「駄目よ、黙りなざい。何も言わず、まずミカの話を聞ぐの」
「僕らのようなものを専門にする研究者に、碌な奴はいないんだぞ」
「ぞうでずわ、確かに、あなたが正じいがもね。だっで、わだぐじもぞのような奴らに、ごのような体にざれまじだわ」
「……君は望んでされたんだろう」
吸血鬼は力が抜けたように膝を折って、椅子に座り直した。吸血鬼が思い出したのは、モンスターや怪異を専門に研究し、知の探究のために人体や人道を侵した研究者たちのことだ。エリザべスの体に様々な生物の皮膚を移植したり、または移植する皮膚を集めてきたり、不老のためだと言って不死と防腐の加工をエリザベスに施したりしたのも、そのような連中の仕業だった。
エリザベスは何も、そういう奴らのことをかばいたいわけではない。ただ、ミカの話を最後まで聞かずに、彼の過去に文句を言うことをやめろと言っているだけだ。ミカの目の前でそれを直截的に言えば、逆にミカに気を遣わせることになる。だから、このような間接的な物言いになってしまったが、吸血鬼にはエリザベスの真意が無事に伝わった。
「すまない、博士と聞くといい印象がない」
「! も゛う゛!」
「わかったから。ミカ、それで、博士って?」
エリザベスと吸血鬼から改めて視線を向けられたミカは、少し躊躇うように目をそらす。
「えー……吸血鬼さんも、博士みたいな人に実験されたことあるってこと?」
「私はないが」
「ぞんなごど気にしないで。わだぐじたちはどんな話だっで聞くつもりでず。でも、もちろん、ミカが話ぜる範囲でいいんでずのよ」
「……じゃあ――月に一回のペースで博士のところに行くって言ったっすよね。でももし、そこでどんなことをされるのかちゃんと覚えていたら、毎月大人しく博士についていったりなんかしなかったと思います」
「ということは、実験中の記憶はなかったんだね」
「はい。実験のこと、博士は『治療』って言ってて、『治療の内容を覚えていないのは、治療中は麻酔で眠らせているからだ』って言われてたんです。たぶん、博士は母さんにも同じ説明をした。でも、あの黒い幽霊に見せてもらった記憶では、全然そういうことじゃなかった」
エリザベスは、天井画の黒い人影を見やった。吸血鬼はミカの様子をじっと見ながら聞いている。かれの表情は、まるで感情を一時的に失ったかのようだ。
「ここで話は変わるんすけど、俺は生まれたとき、狼の姿だったんです。狼の赤ちゃんみたいな見た目で、母さんの腹から出てきたんです。生まれた瞬間のことなんか覚えてないのが普通だと思うけど、幽霊は何でか、そんな細かいところまで記憶を戻してくれて、おかげで、わかったことがあるんです。なんだと思います?」
「……わからない」
「たぶんね、俺、流産しかけだったんすよ。だけど、母さんの腹ン中で死にかけたとき体が狼に変身して、復活して、助かった」
吸血鬼は暗い表情になって、一つ納得したようにうなずいた。
「君がこの前、風呂で溺れていた時も、君の体はひとりでに狼に変化した。その後、君は意識を取り戻したが、記憶の一部がなくなっていた」
「じゃあ決まりっすね。たぶん俺、死にかけると自動で狼に変身するんですよ。で、狼になると命が助かって、その代わりに記憶が消えるんです」
それ以上のことは、誰も口に出さなかった。誰もが、かつてミカに施された「実験」の惨さについて、明言することを避けたからだ。
すなわち、ミカは博士の「実験」を受けるたびに、死ぬような目に遭い、狼の姿になって蘇生していたために、記憶を失っていた可能性があると……。
ミカは博士の実験の話をした後、生まれたときの話をする前に「話は変わるんすけど」と言った。ミカなりに工夫をしたものだ。この二つの話の間で、話題は一つも変わっちゃいない。全部、「博士」とやらの悪行を語る道程だ。
必然的に途切れた会話だったが、束の間の後にエリザベスが、この耐え難い空気を切り替えるようにフィラーを挟んで、再開させた。
「そう……、ミカ。確か、もう一人いらっしゃっだのでじょう? あなだを狼男だど知っでいだもう一人どは、どなだでいらっじゃいまずの?」
エリザベスは胸に手を当てて尋ねる。正常心を保とうとしているのだろうか。吸血鬼はミカの話を促さなかった。彼にはまだ、「博士」の悪行について、思うことがあるのだろう。
「ぞの方は、ミカにどってどういう人物なのでず?」
「あー、いや、もう一人は、心配しなくても大丈夫な人っすよ」
ミカはエリザべスを見返して笑う。
「俺の、実の姉さんです。とっても優しくて、強い。このスカーフの、本当の持ち主です」
ミカは、首元に巻いた赤いスカーフを優しく指で摘まんで言った。エリザベスの全身から、安心したように力が抜ける。
「お姉様のお話なら、聞いだごどがございまずわね」
「はい、俺の、大好きな姉さんだったっすよ」
そう言うと、ミカは一口スープをすくって飲みこんだ。話に夢中になっていたせいで、既に冷め切ってしまっている。ミカの喉を、冷たい液体がすっと下まで通っていった。
「あの、黒い、ウィジャボードの幽霊」
ミカが、潤したはずの口で途切れ途切れにそう言った。話を聞きたいのか聞きたくないのかわからない態度の吸血鬼も、緩慢に顔を上げる。エリザベスは気づかわしげにミカの肩に手を置いたが、ミカはその手をそっと外して、大丈夫だと首を横に振った。
「あいつは、俺が姉さんにしたことを思い出させるために、俺の記憶を戻したんです。いや、姉さんにだけじゃなくて、村のみんなにも迷惑かけてんすけど、でも、やっぱり、姉さんは別格っすよ。一番酷いっすよ。……ほんと、誰にも見られなくてよかったっす。姉さんが俺のせいで、真っ赤になってるところ」




