夫婦、口付ける
王太子殿下とその妃、両名の婚姻式は粛々と神殿で行われる。その後、盛大な披露宴は当然両殿下の親族と、年のいった有爵者たちが集まる。
ミカルたちが招待された夜会はその後だ。
日没前にベッター夫妻を乗せた馬車がホテルの前へ到着した。
ホテル・シャルメイアは他国の要人、式典等で滞在する貴賓が主に利用している王家御用達。
自国の男爵夫妻などが必要とする場所ではない。本来は。
案内された部屋は上品で、これでもかと贅を尽くした『特上級』であった。ハウロは、馬車から二人分の小さなトランクを運んだベルマンにチップを渡し、部屋の奥に飛び込みかねない気が逸る妻をゆっくりと追った。
凄い凄いと頬を紅潮させて部屋を見渡すミカルに愛おしさを募らせながら、ハウロは続きの部屋の境を跨ぐ。
そこは寝室で、鎮座するベッドは当然夫婦に配慮されたキングサイズ。
淡い照明は落ち着いた睡眠を誘発するが、場合によっては何とも淫靡な空間となる事だろう。
「まあ。さすが『特上級のお部屋』ね……」
固まるハウロの後ろから顔を覗かせたミカルは、未だかつて寝そべったこともない上流寝具に目を丸くした。
今日、ハウロの気分は上がったり下がったり。とにかく不安定だった。ミカルと小旅行気分で出掛け、彼女のはしゃぐ様子を見るのは最高に気分が上がるのだが――。
「……ここまで気を配れるならなんで……最初から」
夜会前後の一泊にしては上等すぎる。そんな手配をした人物にハウロはあまりいい印象を抱いていない。
「だからこそ、だと思います」
そう言いつつも関係なくミカルは意気揚々とベッドに近づいた。
ベッター男爵宛てに夜会の招待状が送られてきたのとは別の便、王城から直通の厳重配送で二人にそれぞれ別の人物からの手紙も寄せられていた。
当主のハウロには、レドニス王太子。「活躍目覚ましい男爵殿。我々の盟友でもある奥方と共に是非夜会に参加してほしい。当日はホテルシャルメイアなどに宿泊するといいだろう。」
ミカルには、アンジェラ王太子妃から。「こちらの不手際であなたには多大なご迷惑と不名誉を与えてしまいました。そこで、夜会の前に安らかな時間を提供できるよう特上級の部屋を用意しました。勿論お代はこちら持ちです。失った時間には代えがたいですがこれを謝罪とさせて下さい。」
そんな建前と本音の手紙。両殿下のサインと、何と国王陛下の押印まで添えて。
要は、公表できない何らかの不手際によって被害を被ったミカルに、含みの無い誠意と謝罪を秘密裡に見せたかった。
そしてミカルはそれを受け取らなければならなかった。
当のミカルには突如降って湧いたような幸運でしかなかったのだが。
「旦那様、すごいわ。シーツが信じられないくらいスベスベ。天蓋も付いていて正に王族のベッドって感じね」
「……こういうのが好きか?」
「ふふ。旅行気分だからこそ特別感があるの。私はいつもの……旦那様が近くに感じられるあのベッドが好きだわ」
楽しそうにはしゃぐ様子が一転し、少し物悲しく頬を染めて微笑む妻に夫は、別で就寝するようになってからもう大分経つのだと苦しくなった。
「お、俺も……いや、と、とにかく向こうの部屋に戻るぞ! くそ、目に毒すぎるこの部屋は……」
「はい」
踊り出しそうな足取りのミカルは始終楽しそうで、もう何の遺恨もないのだとハウロは安心したのだった。
「実は一度しかお会いした事はないの」。ミカルはそう言っていたが、例え候補でも元婚約者という枠組みにいた王太子。夫としては妻を10年も蔑ろにした憤りと嫉妬があった事は確か。そんな感傷すらも当人との楽しい時間に癒されてしまうハウロなのだが。
なんとルームサービスすらも王太子が手配していたようで、それでも二人は。
「無理をして厚意に甘える必要はないと思うの」
「ああ、そうだな。身の丈に合わない贅沢はな……」
そう話し合いつつも、夜会では腹を満たさず早目に退場しようと決め、安価とは言えない最低額の軽食コースを頼む事に。
ただ高いだけではない食事に二人は満足した。
これから参加する夜会は、王太子夫妻と親交の深い若者、それに連なる貴族、同年代の有力者たちが主な参加者である。
二人は食事後まったりとくつろぎながらそんな話をした。
「良からぬ奴らが集まるんだろうな……披露宴の顔ぶれよりはマシか。何を言われるのか分からないぞ、本当に覚悟しておけ……」
「はい」
静かに凪いだ妻の微笑みを見るとハウロも落ち着いてくる。
それと今更だが、ハウロはミカルの返事の仕方が好きだ。基本丁寧だが時に砕けて話す妻が、返事だけは「はい」と言う。それが無性にハウロの琴線に触れる。
(……好きだな)
内心では極端に照れる事も否定する事ももう無く、本心がするっと漏れる。
「でも旦那様、私は別の心配もしているの。今のあなたは何というか、先入観があっても悪いようには見えないもの」
最近など少し弾んで甘やかさすら混じっているような声なのだ。未だ彼女からは明確な言葉を貰ってはいないが、態度が、声が、目が。もうハウロにはそうとしか見えない。女に騙され深い傷を負った心でさえ。
(自惚れるのも……しょうがないだろ、これは……)
ミカルもミカルで、以前いつものハウロが好きと自覚しておきながら、今のように陰の差す余裕のある夫に意識を持って行かれる事が多くなった。
エスコートやホテルの従業員への態度が落ち着いていて、ミカルよりもずっと大人に見えて。
(領主の顔、余所行きの大人な男性、いつもの可愛い旦那様……みんな、ちゃんとこの人で……)
二人にとって非日常であるこの格式高い客室の真ん中で、ミカルは夫に寄り添った。ゆっくりと顔を見合わせ。
そういう、雰囲気だった――。
その後会場へ着いた二人は大扉をくぐった。お互い、唇に残る感触と熱にふわふわしつつ。
王城の大ホールには若人達、その親が集っている。彼ら彼女らは今一番社交界で噂されている夫婦の入場に、一斉に視線を向けた。
さて、何を言ってやろうかとほくそ笑む一部の人間たち。
しかして、若い領主が美しい妻をエスコートする姿は様になっており、妻は甘い視線と微笑みを夫に向けなにやら囁き合っている。そんな想像とは違う様子に本人たちを知らぬ者は噂と実態の乖離に首を傾げ、知る者は唖然と、憮然とした表情を晒してしまう。
王太子夫妻のお目見えまで会場は自由な空気が流れていた。だが。
「旦那様。あの一角に行きましょう」
「ああ」
二人は敢えて自発的に他者と接触する事を避けた。ミカルはテーブルが並ぶ人気のない場所を目で指し、ハウロは返事をしながらも案の定妻に茫然と見惚れる少なくない視線を体で遮る。
「間違ってお酒を飲まないようにしてね?」
ハウロは匂いだけでもほろ酔ってしまう程の下戸である。ミカルも当然そんな夫に配慮して今宵は酒類を手に取らないと決めている。
厭らしい視線など気にもしていないミカルにやきもきしながらも、ハウロはその忠告に素直に頷いた。
「発泡飲料も用意されてるみたいだしな」
給仕にその旨を伝え、主役たちと飲み物が場に揃うまで二人は周りを窺う。
夜会用にシックに着飾った若者たち、吊り下がった上品なシャンデリアと発泡するグラスの光、落ち着いたワインレッドの絨毯はまるで僅かな波紋すらもない水面のよう。
全てが煌めいているようで、その実黒い渦が渦巻いているような錯覚に陥りそうになって。
「……旦那様」
「…………」
三人の令息たちがミカルの元へ歩いてくるのを、来たか、とハウロはうんざりしつつ気を張った。どう見ても若くハウロの知り合いではなかったからだ。
「あ、アーティラ嬢、久方ぶりです」
一人が代表して、おずおずと挨拶をする。
「お久しぶりです。今はベッターですのでどうぞよしなに。こちら私の夫です」
ミカルはいつものように、ハウロの腕にそっと手を添え寄り添い見上げた。高めのヒールを履いているため多少二人の差が縮まって、ミカルは少し嬉しかった。
「……ハウロ・ベッターだ。妻が世話になったそうで」
赤ら顔のハウロが実は少し照れている事を知るのはミカルだけだった。
(妻、って言ってくれたわ)
それは小さな感動だった。まったく口に出せなかった今朝までからは想像もできない進歩である。そしてミカルの同期生の彼らが、ハウロにあからさまな態度を見せず会釈した事も。
その感動でミカルの頬も紅潮していた事が周りの凝り固まった空気を多少緩ませた。令息たちも。
「その、息災ですか。急に王都から離れて結婚するって聞いて……」
彼らは、当時ミカルを「美しいがつまらない令嬢」と評し囁き合っていた男たちの一部である。
若気の至りだった。十代の思春期特有の、気になる女性への辛辣な振る舞いを今の彼らは大いに恥じているのだ。そして、その淑やかで面白味のなかった女性が今や人妻となって、艶やかに夫に愛らしい笑顔を見せている。
その恋をする女の顔が、十分に彼らへの答えとなった。
(そら見ろ……次々来るぞ)
ハウロは無表情の裏で悪態をついた。当時訳ありだったミカルが異性とは一線を引いて接していたのを、彼女の本質だと勘違いして嗤った男たち。彼らが先鋒の様子を見て次々寄ってくるのだ。
これにはミカルも笑顔のまま内心戸惑った。
同期生ではあるが直接挨拶に来る程に親しくもなく、向こうから遠巻きにされていた自覚もあったから。
「旦那様……なんだか、ごめんなさい」
「だから言っただろ……」
呆れたような呟きの夫だったが、しっかりと自分に寄り添う妻が自覚を持った様子に安堵した。最初の三名はともかく、後に続く男たちは明らかにミカルに取り入ろうと下心を見せてきたのだから。
「何か困った事とかない?」
「悩みがあるなら相談にのるよ?」
そんな文句を説く同期生にミカルは、「自衛しろ」と言っていたハウロを思い出して世間知らずの自分を恥じた。
そして当初の予定通り、隙を見せないようにその夫を見上げた。
「悩みですか。特にありませんが、旦那様は私が何か悩みがあるように見えますか」
「いや……」
ハウロは、何も問題ない、という事を周りに認めさせるのが妻の目的であると理解はしていた、が。彼の頭を過ったのは、所謂、夜の事。
それに乗じて先程初めて口付けをした鮮明な記憶も蘇って。
誤魔化せない程の赤面を片手で覆ったハウロに釣られ赤くなったミカル。今、彼ら夫婦の悩みと言えばそういう事だった。
ミカルは墓穴を掘ったのだが、それが良いように働いたのだ。
その以心伝心の伝染の原因を周りは色々な想像をかきたて頭に描く。二人の実状など知らない彼ら彼女らは、予想に反して仲睦まじい様子である夫婦の悩みを三者三様に解釈して、見る目を変えた。
寄ってきた令息たちも例外ではなく、打ちひしがれ去って行った。
ミカルは自分が予想していた展開にならずに僅かに拍子抜けしている。
あると思っていた同じ候補だった令嬢たちからの、憐れむような視線や嘲笑は一切無く、どこか居心地悪く顔を逸らしているばかりだったから。
「殿下が手回ししたんだろ。そもそもあんな噂が立つ事が王家としても不名誉だしな」
「確かにそうね……。まるで女性を弄んで捨てたかのような噂だもの」
この時、こっそりと囁き合う夫婦を見据える粘着質な視線があった事に、夫だけは気付いていた。