兄、歪みの境地
ラウノ・ビルノーツは幼い頃から、病弱であるというだけで両親から甘やかされ愛された弟を忌むべき存在として認知していた。
彼の中の常識が覆ったのは、両親が話していたのをこっそり聞いた時。
「面倒だ。どうせ教育など無意味になる。叔父の領地に押し付けるつもりだ」
「どうしてあんな子に生まれてしまったのかしら。私もあなたも病気なんてないのに」
両親の末息子への認識をラウノが理解した時、彼の中に渦巻いたのは異常な程の愉悦だった。
厳しく教育を施され常に叱咤を受け愛を与えられない自分と比べ、甘やかされていると思っていた弟が実はただ放置されていただけだと知り、暗い喜びを少年は覚えてしまった。
ラウノはそこで、弟を憐れみ自分と同じ両親の被害者であるとは認識できなかった。弟は忌むべきものであると既に脳に刻まれてしまっている。
以前はただ不機嫌にハウロに当たり散らすだけであった。しかしこの時から、弟を嘲笑で見下しとことんまで扱き下ろし始める日々に差し代わる。時には友人という名の取り巻きを連れ。
「子供の癖に酔っ払いみたいだな。そんなだから父上も母上もお前を産まなければ良かったと嘆いているんだ」
蹲り、ごめんなさいと繰り返す弟に嫌悪感ばかりが募るラウノ。友人たちは同調して笑う者や――密かに眉をひそめて、しかし黙って見る事しか出来ない者ばかり。
「生きてるだけで家族を不幸にするお前如きが幸せになれるわけがない」
ラウノは吐き捨てるように呟いた。
ラウノが21の時。
両親が病に侵された。
最初は軽い症状だと甘く見ていた当時の公爵夫妻は、その後進行を抑えるだけの現状に絶望し、お互いに罵り合う日々が続く。
「息子がああなのはお前の血のせいだった」「病気を持つあなたの子を孕んだ私は不幸だ」
そんな哀れで滑稽な両親を冷めた目で見る次期当主。まさか因果が巡ったとは思わないラウノは、現ビルノーツの血は自分だけが正常なのだと嗤った。
――だというのに。
(お前如きが何故そんなに幸せそうに……)
夜会にて、入場してきた男爵夫妻の柔らかい雰囲気に、ラウノの期待は大きく裏切られた。
(あのような……若く美しい妻を)
ラウノは弟の結婚を聞いた時、相手の噂を知り笑っていたのに。
「かけ捨て令嬢か。無駄に金を使い捨てられた者同士似合いじゃないか」
妻――弟の元婚約者だった女――の冷めた目の前でそんな風に馬鹿にしたのは記憶に新しい。
過去、ハウロから贈られた手紙を見せ笑いの種にする女を同士と認め、ラウノは弟からその女を寝取り妻にしようと画策した。
女の方も乗り気で事が上手く運ぶように、他国の姫であった彼女は簡単に婚約者の悪評をでっち上げた。
余談だが、暴力を振るったというハウロが姫の自国から罰を与えられなかったのは、彼らも真実を知って黙認していたからだ。姫の素行に口を出さないが、いい顔もしなかっただけである。
そうやって昔から、ハウロを陥れ笑う事でしか繋がりを得られない二人の仲が続くわけもなく。基本的にこの公爵夫妻の仲はすでに冷え切ってしまっている。
一人の悪口で盛り上がる時だけ意気投合する二人が夫婦になれば必然であると、当時若い彼らには考えも及ばなかった。
だから、嗤って下に見ていた弟夫婦の初々しくも自然な距離に、ラウノは激しい怒りと屈辱を覚えた。
よりにもよって、その馬鹿にした『かけ捨て令嬢』がラウノの美的感覚全てに一致するような『柔らかで利発そうな美人』であったのが、彼の神経をより逆撫でした。
結い上げた後頭部から白いうなじ、なだらかな背筋への曲線美。ストールで隠れてはいるがくびれた腰と張りのある臀部。若い潤いのある肌。
憎き男の妻である女、その瑞々しさにラウノは釘づけになった。
ラウノ自ら社交の場でどうしようもないと吹聴した弟の素行が、今この場では何の意味も成さない。
過去、酒浸りという悪評の信憑性を高める為に、弟に目立たない色の酒をひっかけ匂いをつけた事も。それによってハウロが軽く酔ってしまい千鳥足になってしまった事も。妻を引き連れ悲劇のヒロインを演じさせた事も。
何もかもが今、この場では。
あんなにも全身で愛を放つ女を傍に置く男が、どうしようもない悪辣で不幸な人間な訳がないのだ。
「行くぞ」
ラウノは、無表情で不快感を表す妻を仕方なく引き連れ弟夫婦の元へゆっくりと歩み寄った。
「……は、美貌の公爵様も歳を重ねればそこらの有象無象と一緒ね。結局は若い女に目の色変えるんだから」
鼻で笑った公爵夫人は数年ぶりのエスコートに全く心を動かされなかった。
「あなたの愛人と似たような顔してるじゃない。ああいうのが好みだったのね。知ってたけど」
「一緒にするな。あれもお前もただ過激な性格が表に滲み出ているだけだ」
「……気色悪い男だわ。少しは見られるようになったあいつの方がまだマシだったわね」
夫の冷たい憤怒の視線を無視した夫人は、しかしラウノのように相手をどうこうしようなどという思惑は微塵もなかった。ただ、もうどうでも良かったのだ。
この夫がこれからあの若い弟嫁をどう扱うのかも、夫人は知る由もないし興味もない。美しく優秀な公爵へ嫁ぎ幸せになる、という夢が水泡に帰してから彼女はすっかり擦れていた。
この妻は、ラウノよりは多少利口である。これ以上藪をつついて蛇を出すのは精神的にも面倒が増えるだけだと分かっていたのだ。
かと言って彼女はかつての病弱な婚約者も好きではない。むしろ自分はこの兄弟に振り回された被害者であるとすら思っている。行動を起こす気はもうないが、兄も弟も自分より幸せになるのは気に入らないと、心で呪詛を吐くくらいには嫌いであった。
「あの愛人も見事に不幸になっちゃって。あなたいつか後ろから刺されるんじゃない?」
かつては激しく嫉妬を抱いた夫の愛人すらも、今の彼女にはどうでもよかった。
ラウノは妻の発言を受けて、視線で密かに自らの愛人を探した。まるで見比べるように。
かつて、婚約が白紙になったハウロを誘惑して足がかりにし、ラウノに色目を使ってきた令嬢。体を使い弟の弱みを手土産にしたその容赦のない手腕をラウノは気に入り、結婚前から愛人枠にいた女であるが。
彼女は少し離れた自身の夫と共に居た。ラウノをじっとりと愛憎込めて睨む鋭い表情にもう彼は目新しさも新鮮さも感じない。弟と同じ歳であるその愛人をラウノは昨今ずっと放置状態にしていた。
確かにこの妻、そして愛人。更にミカルは顔の造形は似たところがあった。だが。
(まるで違う……あの碌でもない男には過ぎた女だ。お前のような情けない逃げてばかりの人間に……)
ぎり、と奥歯を噛み締め、過去、弟に抱いていた最初の感情――嫉妬が湧き上がってくるのをラウノは忌々しくも認めた。
ラウノ本人すら気付いていない、彼の真に欲したものを弟が手に入れた故の嫉妬。ミカルから溢れる母性、無償の愛を、ラウノは渇望していたのだ。
その女に何を吹き込もうかとほくそ笑んでいたラウノ公爵だったが、ホールの変化に妻共々、足を止めざるを得なかった。
「王太子殿下、王太子妃殿下両名のご入場です」
ホール全体に歓声と拍手が広がって、ラウノは舌打ちをする。
(ミカル・アーティラ。王太子の元婚約者候補か……。王太子殿下の御目は腐っておられるな)
奇しくも忌むべき弟と同じ感想を抱いたラウノ。
(妃としては不十分でも……私ならば癒しとして妾に据えていたというのに)
だがその思考はやはり根本から違っていた。
大ホールは和やかな雰囲気に包まれる。
厳かな婚姻式、有力貴族が集まる腹の探り合いである披露宴。それとは裏腹に、この夜会はほとんどが両殿下へ純粋に直接祝いを伝えるために設けた場になった。槍玉に挙げると思っていたベッター夫妻があの調子であるから、皆はより存分に祝いの言葉を述べる事が出来たのである。
その空気の中、ラウノがハウロに接触するのはいささか注目を集めすぎる。下手をすれば両殿下に目をつけられる虞もあった。
ミカルの噂の元から火の無い煙を消したのは、紛れもなく王太子本人であるとラウノは知っていたからだ。
それに、とラウノは王太子の背後に控える側近の一人に目をやる。袂を別ったかつての友人がそこにはいた。毅然と真っ直ぐを見据える彼は、恐らくラウノを警戒している。
「もうあんな事はやめた方がいい」。そう、少年だったラウノに悔恨残る顔で苦言を呈した元友人。それ以来彼はラウノの取り巻きから離れていった。
(まあ、いい。機会はいくらでもある)
ラウノはじっとりとした深緑の目で弟夫婦を見据えていた。




