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記憶でした

「あ、上山葉子さんだよな!?」


 男の声。

 振り返るとテニスコートの入口に彼は立っていた。ほぼ新品なのがひと目でわかるパリッとしたフレッシャーズスーツ。それが逆三角形の体格をより際立たせている。膝に手をついて息を切らす男。その男は当時の葉子の記憶には存在していない。


「うちのこと知ってるの?」


 しかし葉子に警戒心なんてものはないらしい。むしろ人がいたという安心感が心を満たす。幼心なんてこんなものなのか。それとも葉子が腕白な子だからなのか。いずれにしても大人目線だと見知らぬ他人にこうも心を許しているというのは心配になる。


「そりゃね、俺は君のクラスの副担任だから」

「ふくたんにん?」

「二番目に頼れる先生ってところか……?」

「先生か! でも二番目……?」

「今年から先生になったからな。先生も君と同じ一年生だ」


 ニカッと快活に笑った教師。


「よかった。もう一生帰れないかと思った」


 ほっと息が漏れる。たかだか学校で迷ったくらいで帰れなくなるはずはない。しかし本気でそう思ったのだ。それほどまでに当時の彼女にとってのこの場所は未知の世界だったから。

 だから――


「もう大丈夫だ。さあ体育館へ行こうか」


 差し出されたその大きな手がこの上なく頼もしく感じられた。


「……ありがと」


 そして繋がれた手から伝わる温もりはすぐさま全身に伝播し、その熱のせいなのか鼓動が早くなる。本気で鬼ごっこをしたあとにも似ていて酸素不足を感じるが、いざ呼吸しようとすると息が詰まるようで息苦しい。それなのに不思議と不快感はなくむしろ足取りがふわふわと軽くなる。

 葉子は知らない感覚に戸惑いを覚える。

 いつもなら手なんて繋いで歩いていたら煩わしくて振りほどいてしまうのに、今はそんな気にはなれない。ただ大人しく先生に手を引かれる。

 本来葉子は誰かと並んで歩くなんてできる性分ではないのだ。その自覚は幼いながらも持っていた。それなのに――。


「自己紹介がまだだったよな。俺は安藤だ」

「安藤、先生……?」

「そうだ。よろしくな、葉子さん」

「……うん」


 今は手の温もりをいつまでも離したくない。

 当時の葉子がまだ名前を知らない感情だった。



 講堂に着いた時にはもう入学式は始まっていた。


「もう、心配したわ。あなたももう小学生になるんだから――」


 講堂の前でそわそわとスマホを見ていた葉子の母は、目いっぱい涙をためた目に娘の姿を入れるなり駆け寄ってきた。そして走り回ったせいで乱れた葉子の髪を櫛で整える。

 葉子の記憶曰く母の説教は長くなるらしい。


「ま、まあまあお母様。ひとまず入学式に……」

「そ、そうですね。娘を捜してくださって本当にありがとうございます。手のかかる子だとは思いますがこれからもどうかよろしくお願いします、先生」


「はい、任せてください」

「じゃあ行ってくるな、母ちゃん!」


 葉子はいつもより控えめに母に手を振った。安藤に引かれていない方の手を。


「お母さん葉子さんを捜してヒールで走り回ってたぞ。あとでお礼言っておけよ」

「……うん」


 既に式が始まっていたので葉子が座ったのはクラスの列の一番端。そして隣に安藤が座った。入学式の間、ずっと葉子は安藤の手を離さなかった。




 ザザッと視界にノイズが走り、記憶の世界が暗くなる。

 電気が消えたのかとも思ったがそうではないらしい。なぜならその直後、再び視界が明るくなった瞬間に広がっていた景色は入学式の講堂ではなかったから。

 それは校庭。人工芝に激しい雨が絶え間なく振りつけている。

 これは入学式とは別の記憶。文字通りの場面転換だったのだろう、記憶の世界の。




 暦上はとっくに秋なのだが夏の残した熱がいつまでも冷めていかない季節、この滝のように激しい雨が降り始めたのは終礼が終わって少し経った頃だった。ついさっきまで太陽が照りつけていたというのに一瞬の間にこの天気である。


「でも学校出る前でよかったよね」

「そうね。掃除当番じゃなかったらずぶ濡れだったわ」


 まなと今日香だ。俺が出会った頃の彼女たちよりもいくらか幼いのは、この記憶が小学二年生の時のものだからだろう。


「うちは全然それでもよかったけどな、楽しそうだし!」

「またおばさんに怒られるわよ」

「そ、それは嫌だな……」


 俺も小学生の時に土砂降りの中傘をささずに遊んで怒られたことがあったな、そう言えば。


「濡れちゃったら制服もクリーニング出さなきゃだもんね……」


 三人ともこの日は傘を持っていなかったらしい。予報では終日晴れだったからだ。


「でも夕立だからすぐ止むわよ」

「そうだなっ! ちょっと待ってよう!」


 クラスに残っているのは葉子、今日香、まなの三人のみ。掃除当番で下校が遅れたためだ。だからクラスメイトはほとんど下校済み。通常通り下校した多くの児童は雨に降られていることだろう。


「……あっ!」


 まなは唐突に立ち上がった。


「うおっ。急に大きな声出してどうしたんだ、まな」

「あ、ううん。なんでもないよ。ちょっと用事思い出しちゃって……もう帰らないと」

「こんな雨の中? そんなに急いでいるの?」

「う、うん……」


 きっとこれは歪物の気配を察知したんだな。マナの頭にアホ毛が立っているし。さすがに葉子の記憶を見ているだけの俺には感知できないが。


「じゃあうちも一緒に――」

「あ、ううん。わたし、今日反対方向なんだ」

「そう、それじゃあ気を付けて帰るのよ」

「じゃあな、まな!」

「うん、またね」


 まなは小さく手を振って教室を出て行った。土砂降りだが彼女なら問題ないだろう。歪みで傘も作れるだろうしな。というかどちらかというと歪物の修正の方が心配だが、過去のことを心配したって仕方ないことだ。この記憶から見た未来――すなわち現在で無事なんだからこの歪物との戦いでも大事には至っていないのだろうからな。


「うちらはどうする?」

「さっき言った通り雨が止むまで待った方がいいわ」

「えー、でも今帰ったらばしゃばしゃして楽しそうじゃない?」

「少しも楽しそうじゃないわよ……」

「むぅ、今日香がそう言うなら……」


 呆れたような今日香に葉子は不満そうに口を尖らせた。

 心配だな、この子。


「……そうなると暇だな」

「そうね、今日は宿題もないし」

「それはあってもやりたくないけどな」

「宿題やらないと安藤先生に怒られるわよ」

「……や、やらないとは言ってないだろ。それに今日はないって今日香が言ったんだぞ」

「葉子さんって安藤先生のどこがそんなに好きなの?」

「うーん、うち安藤先生のこと好きなのかな?」

「どうして疑問形なのよ。そんなこと私に訊かれたって分からないわ」

「なんか好きとかよく分からないから」


 記憶から伝わる葉子の安藤への感情は恋愛のそれで間違いないだろう。しかしその感情の意味に気づいていないのだ、この頃の葉子は。


「なあ今日香、好きってどんな感じなんだ?」

「それは……なんかこう……ふわふわっとしてきゅんきゅんってする感覚、らしいわ」

「らしい?」

「……私も恋なんてしたことないもの。本とかドラマでしか知らないわ」

「ふーん、よく分かんないな。ふわふわとかきゅんきゅんとか。こういうのはまながよく知ってそうだけどな」

「そうかしら。あの子もあまりそういうイメージはないけれど」

「そうか?」

「そうね」

「そうか」


 まなが恋愛。俺も今日香同様あまりイメージは結びつかないな。恋バナとかそれこそ漫画やドラマには興味がありそうだが。


「実際どうなの? 葉子さん自身は先生のことどんな感じなの?」

「えー……一緒にいるとドキドキはする、かな。走った後みたいな」

「走った後? それって疲れるってことかしら?」

「うーん、それとは少し違う。疲れるのは嫌な感じだけど先生といるのは嫌じゃないからな。ずっと一緒にいたいくらい」

「そうなの。やっぱりよく分からないわね」

「だな!」

「でもずっと一緒にいたいと思えるならそれは好きってことでいいんじゃないかしら。将来結婚したらおばあさんになるまでずっと一緒にいるのだから」

「ほお、なるほどお。つまりうちは安藤先生のことが好きってことだよな……」


 葉子は自信なさげに呟いた。一年以上も抱えてきた感情の正体だ。そう簡単には腑に落ちないのだろう。

 どちらにしたってどこかのタイミングでその感情が恋だと気づく時が来る。俺が初恋に気づいた時がどんな感じだったかはよく覚えていないが、気づいたらそれが恋なのだと確信していたしそんなものなのだろう。

 と、その時ガラッと教室の扉が開いた。


「お、なんだ君たちまだ残ってたのか」

 唐突な来訪者に今日香の呼吸が一瞬ひっと止まる。


「あ、安藤先生!?」


 しかしそんな今日香以上に動揺してるのは葉子だ。


「い、いいいまの聞いてたか!?」

「ん? 何も聞いてないが大事な話でもしてたのか? 急に入ってごめんな」


 まあ教室に急に入ったって謝ることなんて一切ないんだけどな、担任だし。ほんと良い奴だよ、安藤。


「聞いてないならいいけど……」


 葉子はもごもごと口ごもる。


「よ、葉子さんがいまだかつてないほど煮え切らない態度をとってるわ!?」


 未来でもこんなの見たことないぞ。激レア葉子だ。


「どうした、元気ないな。顔赤いし熱でもあるんじゃないか?」

「な、ないもん! うち風邪なんてひいたことないもん!」


 なんとかは風邪をひかないってやつだな。


「そうか。まあ体調悪かったら無理せず言うんだぞ。と、君たちどうしてこんな時間まで残ってるんだ?」

「掃除当番で出るの遅れたら雨が酷くなったので止むまで待ってます。傘を忘れてしまったので」

「あー、なるほど、そういうことか。だがこの雨は夜まで続くらしいぞ」

「本当ですか」

「嘘はつかないな」

「……なら葉子さんの言うように濡れながら帰るしかないかもしれないわね」

「そうだな。仕方ないよな!」


 今日香は憂鬱そうに窓の外に視線を向ける。葉子と安藤も同じように外を見る。誰もいない校庭には相変わらず雨が打ち付けられている。


「いやいや、こんな雨の中傘もささずに帰ったらそれこそ風邪をひいてしまうだろ。傘は学校のがあるからさして帰れな。ていうか君たち登下校は歩きだったよな」

「歩きです」

「うちも歩きだ!」

「よし。なら俺が家まで送っていく。もう暗いしな」


 小学生だもんな。この辺りの治安は良い方だが人通りが多いわけではないから、暗くなった時間に出歩くのは安全とは言えないだろう。その点安藤がついてれば安心だ。


「安藤先生と帰れるってことか!」

「ああ、そうだな」

「ありがとうございます」

「ああ。それじゃあ準備して昇降口に来い。俺も傘持ってすぐ行くから」


 安藤は手を振って教室を出て行った。




「それじゃあ、葉子さん、安藤先生、さようなら」

「また明日な、今日香」

「さようなら」


 立派な鉄門の前で今日香と手を振って別れる。

 実際に行ったことはないが今日香の家でかいな。高い柵に囲まれてるし門を通ってから家と言うより屋敷と呼ぶべきであろう建物までも結構歩きそうだ。さすがお嬢様だな。


「よし、じゃあ次は上山の家か」

「そうだな……」


 土砂降りの雨は止む気配を見せない。

 傘をさしていても靴の中はすっかりびしょ濡れだ。


「寒くないか?」

「大丈夫!」

「元気だな、上山は。元気なのはいいことだ」


 安藤はうんうんと嬉しそうに頷いている。


「それじゃあ行こう。うちはあっちだ!」


 安藤に先行して葉子は歩き出す。ぴしゃぴしゃと水溜りを蹴散らしながら。


「なあ安藤先生。先生って好きな人とかいるか?」

「なんだあ、急に」

「好きってどういう気持ちなのかなって」

「上山でもそういうこと考えるんだな」


 おい、失礼だぞ。安藤。


「いつもなら考えないけどな!」

「そうだよな!」


 はっはっはっと快活な笑い声がふたつ重なって住宅街にこだまする。


「でもそうだな。その人に笑顔でいて欲しいと思ったらそれが好きってことじゃないか。例えば上山は本田や花藤、お母さんやお父さんが悲しい顔をしてたら嫌だろう?」

「嫌だな。うちも悲しくなる」

「そうだろう。逆に笑顔だったらどうだ?」

「嬉しいな。すっごく」

「それが好きってことだ」

「でも今日香たちとは結婚したいと思わないぞ」

「結婚かあ……。そうだな、俺も結婚はしたことがないがそういうのは好きの延長線だ。同じ好きだけど他の人に対してよりもその人に対して特別に強く好きだって思うことがあるんだ」

「特別か……」

「そう、特別」

「……特別」


 安藤の言葉を繰り返した葉子の声は雨音に紛れ込んで誰にも届かなかっただろう。しかし葉子の心の中では劣化せずに何度も繰り返される。自らの抱いた感情がそう呼ぶのにふさわしいものなのか確かめるように。


「まあ急がなくたってそのうち分かるさ」


 安藤は葉子の頭にぽんと手を置く。

 固くてゴツゴツしてて大きな手。

 触れた途端急激に速くなる鼓動。

 何度も触れた温かい手。


「特別」


 まなに髪を結ってもらっても、両親に手を握ってもらった時も嬉しかったが、それらとは比にならないほどの多幸感。

 なるほど、特別。

 ずっと抱いてきた感情。その正体がぱっと照らされたように鮮明になる。理解というのとも少し違う、もっと深い部分での納得。名前のなかったその感情に名前がついた瞬間。



 そっか、やっぱりうち、安藤先生のこと好きなんだ。



 温かい感情の波。

 気づいた瞬間。毎日歩いている通学路が別世界のように色づいているような気がしてくる。


「それじゃあまた明日な、上山」


 マンションの前で別れてからオートロックの扉をくぐるまでの短い距離。何度も何度も振り返って安藤に手を振った。




 と、再びノイズが走り視界が暗転する。


『未成年者を自宅に連れ込み、わいせつな行為に及ぼうとした疑いで小学校教師の〇〇容疑者を逮捕しました。警察によると〇〇容疑者は「自宅に呼んだのは事実だが、やましい事は何一つしていない」などと供述し容疑を否認しているようです。〇〇容疑者は被害にあった女の子の担任教師で――』


 真っ暗な空間に青白い光が眩しく差し込む。それはテレビ画面だ。映っているのは平日夕方のニュース番組。


『どんな事情があっても大人としてありえないですよね』

『子供に手を出すとか気持ち悪い』

『子供は担任の先生なんて身近な立場の大人の言葉は無条件で信用してしまいますからね。言葉巧みに騙されたのでしょう。可哀想に』


 コメンテーターが事件の感想を口々に述べる。


「なあ母ちゃん、先生と生徒が仲良くしたらいけないのか?」

「そうねえ、仲良くするのはいいけど仲良くしすぎるのはダメなのよ。葉子も大きくなれば分かるわ」


 暗い世界。母親の声だけがどこからともなく返ってくる。


「うーん、特別な好きでも?」

「大人は子供のことを好きにならないものなの」

「そうなのか……」


 葉子は不満げに呟いた。


「あー、もちろん恋愛みたいな意味ではね」


 母の補足は葉子が欲しかったものではなかったが、彼女の言っていることは概ね正しいのだろう。

 プツンとテレビの電源が切れる。



 真っ暗な空間にじわじわと明かりが戻ってくる。



 ――ここは、学校の廊下か。



 白いコンクリートと木の調和したモダンな廊下。大きな窓から見える空は重たい鉛色。視点が妙に低いのは座っているせいだろう。体育座りで教室と廊下を隔てる引き戸に背を預けている。


「これ、明らかに臀部に触ってますよね」


 扉の隙間から聞こえるのは高圧的な女性の声。この声は竹田の母親だな。


「確かにこの瞬間には触れていたかもしれません。しかし先程も説明しました通りこれはやむを得ない状況であり――」

「やむを得ない状況なら女子児童に猥褻行為を行ってもいいと、安藤先生はそう考えてるってことですか」


 これは今日の保護者説明会の記憶だろうか。


「そうは考えておりません。この度は意図していなかったこととはいえ、私の軽率な行動によって上山葉子さんとそのご家族、並びに本校児童の保護者の皆様に不安な想いをさせてしまいました。その点については心よりお詫び申し上げます。その上で、私は上山さんに対して件のような猥褻行為は行っていない上、そのような行為が許されるとも考えておりません」

「だから、この写真があるのにやってないって言うのはおかしいでしょ! そもそもあなたの考えなんて聞いてませんし!」

 えらい感情的だな、竹田母。


「竹田さん、少しよろしいですか」

「え、はい……」


 割り込んだ声はついさっき聞いた。葉子の母親か。

「私は安藤先生を信頼していますし、娘も先生に何かされたようなことは言っていませんでした。ですからこの件はそこまで大事にしなくても良いのではないでしょうか。事情はしっかり説明していただきましたし、お詫びからも十分誠意は伝わりました」

「子供は被害について言い出せないのかもしれないじゃないですか。教師に手を出されたなんて。もしかしたら子供の無知に付け込んで嫌がらないのをいいことにそういうことをしていたのかもしれないし」

「娘のことは私がいちばんよく分かっています」

「葉子ちゃんが可哀想ですね。危害を加えられてるのに一番身近な大人が助けてくれないなんて。というか葉子さんがどうこうじゃないんです。今後こんな変態教師がいる学校にうちの娘を通わせたくありません。皆さんもそうですよね、不安ですよね!」


 教室内がどよめく。壁越しにも伝わるのは竹田母に肯定的というよりは竹田母に反論したくないというような異様な空気。彼女の言う事が正しいとは思わないが、敵に回せば厄介な事になりそうだ。だから誰も口を挟まないのだろう。

 ある種の発言力を彼女は持っている。


「それに上山さん。私も何も大事にしようなんて思っていません。実際被害に遭われた上山さんがそう言うのならばなおさらです。ただ児童を守るためにも児童をたぶらかしてやましいことを考えるような教師さえいなくなればそれでいいんです」


 言っていることはむちゃくちゃなのにな……。


「それに関しましては竹田さんのおっしゃる通りです。私が皆様に不快な思いをさせてしまったのは事実ですし、実態はどうあれ私に対する不信感も拭いきれないかと思います。ですので私は責任を取って辞職しようと考えております……」


 葉子が戦い始める前に言っていたのはこういう事だったんだな……。

 教室内のざわめきが大きくなる。


「じしょく……?」


 呟いたのは俺……というか葉子だ。


「やめるってことだよ。学校の先生をね」


 いつからそこにいたのだろう。隣に立っていた少女が葉子を上から覗きこむように見ていた。満面の笑みを浮かべて。

 白髪の少女。文化祭の時に会った子だ。ゴスロリがよく似合っている。


「当然です。子供を好きになるような気持ちの悪い教師はいりませんっ!」


 勝ち誇ったような武田母の声が大きく響く。


「あはっ、君があの先生を好きになっちゃったせいであの先生は先生じゃなくなっちゃうんだって」

「好きになるのってそんなにダメな事なのか……?」

「そうだよ。大人と子供の恋愛は普通じゃないし、気持ち悪いし、歪んでる。ありえないことなんだよ」


 なんだろうこの感覚は。この子の言葉は胸の中にスッと入ってくる。こんなこと正面から受け止める必要はないのに。


「でも……でも……」

「でもじゃないって、あの女の人も言ってたでしょ! あーあー、君が先生にべたべたするからいけなかったんだあ」


 まるで彼女の言葉がこの世の真理であるかのように感じられて……。

 だからこそ自己嫌悪の感情が頭の中に溢れてくる。全て自分がいけなかったかのような気持ちに苛まれる。


「でも先生は特別で――」

「特別だね。そうだよ、それでも君はあの先生が好きなんだ。それがキモイって話なんだけれども」

「キモイ……あ……あ……」


 安藤先生が好きだ。


 でも自分が安藤先生を苦しめている。


 安藤先生が苦しむと自分も苦しい。


 息ができない。


 助けて欲しい。


 苦しみを取り除く方法は――


 苦しみの原因は――


 安藤先生。




 視界が暗転する。

 真っ暗な視界。

 正面から吹き荒れる暴風。

 左手の痛み。

 右掌に硬く温かい感触。

 どうやら葉子の記憶の世界から帰ってきたらしい。

 歪み根源に触れていた掌底を押し込む。するとそれはあまりにもあっさりと砕けた。

 無限に噴き出していた黒い靄が霧散していく。それに溶けるように歪物の身体と砕けた根源も黒い靄になって消えていく。


「葉子さん……」

 すぐに晴れた靄の中に横たわっていたのは、いつも通りの葉子の姿。呼吸もしている。見たところ傷もない。閉じた目から一粒のしずくが流れ落ちている。


「大丈夫。全部悪い夢だから。安藤先生も学校は辞めちゃうかもしれないけど、ちゃんと生きてるから」

「だ、大丈夫かっ!?」


 俺と歪物の戦いを見ていることしかできなかった安藤が駆け寄ってくる。


「大丈夫です。左手はこんなんですけどね」


 完全に折れてしまった左腕をぷらーんと揺らして見せる。歪みのおかげで見た目の割には痛くないので余裕だ。


「そ、それは大丈夫じゃないだろっ! 上山と一緒にすぐ保健室に!」

「あー、いや、保健室とか無理だと思いますけど……」


 そもそもこのテニスコートは見た目こそ学校のそれだけど訳分からない迷宮の中だしな。ていうかこの空間っていつ消えるの。歪物葉子が創った空間とかじゃないの?

 などと考えていたら、空間が崩れ始めた。

 異変は空から。はげた塗装のようにパラパラと欠片が落ちてははるか上空で黒い靄になって消えていく。


「空が崩れてる!?」

「多分大丈夫です。戻ったらひかりは大丈夫なんで葉子さんだけを保健室に連れて行ってあげてください」

「……わ、分かった」


 それ分かってくれるんだ。ひかりを保健室に連れて行かなくていいんだ。ふーん。

 などと冗談を言おうと思ったが安藤も混乱してるんだろうし許してやるか。

 これにて一件落着――


「って、うわっ」

「陽ノ下!!」


 地面が割れて崩れる。

 下は底が見えない奈落。

 寝たままの葉子も。

 こちらに手を伸ばしてくる安藤も。

 そして油断したせいで間抜けな声が出てしまった俺も。

 ただ落ちていくしかない。

 あれ、これ大丈夫なやつ?



 と、次の瞬間に俺は屋上に膝立ちでいた。俺らの学校の屋上だ。

 落ちる夢を見て目覚めたような感覚。

 背筋を冷やすのは冷汗ではなく空から舞う雪が服の隙間から侵入してきたせいだ。

 はっと周囲を見るが安藤と葉子の姿は見当たらない。

 その代わりにまんまるの大きな白い瞳と目が合った。


「ちょっと苦戦しすぎじゃないかなあ。歪物なんかに」

「き、君は……」

「それにしても容赦ないよねえ。なんのためらいもなく根源を砕いちゃうなんて」


 白髪のゴスロリ少女が退屈そうに花壇に座っていた。


感想とかとても嬉しいです。

そういえば最近過去の話数を読み返してまとめて誤字や分かりにくい表現等修正しました。

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