とある雨の日 戻らないあの日
「陽太君!」
――彼女は嬉しそうに俺を呼んだ。
「陽太君……」
――彼女は恥ずかしそうに俺を呼んだ。
「陽太君っ」
――彼女は頬を膨らませて俺を呼んだ。
「陽太君?」
――彼女は不安そうに俺を呼んだ。
彼女が俺を呼ぶ声。
俺を呼ぶ表情。
全てが日常の中にあって、代わり映えしない日々の一コマだった。
俺は代わり映えなんて望んでいなかった。当時が最高に幸せだと思えていたから。
永遠にこんな幸せが続けばそれだけでいい。なりたいものも叶えたい理想も小学生なりに持っていたけれど、もしもこの日常が崩れてしまうのならば全部捨てたっていいと本気でそう思えた。
本当に大切なものは失って初めて気づくなんてよく言うがそんなの愚かだ。本当に大切なものは失わなくたって気づいているべきなのだ。
――ピン、ポーン
「いってきます!」
インターホンの音を合図に自室を飛び出した俺は、前日から玄関に投げっぱなしになっていたランドセルを背負い勢いよくドアを開けた。
「いってらっしゃい」
という両親の声はわずかに聞こえる程度である。
「おはよう、陽太君」
「ああ、おはよう。ほのか!」
玄関先で朝日よりも眩い笑顔を浮かべて俺を迎えたのは、高島ほのかだ。生まれた時から隣に住んでいる幼馴染。そして俺の初恋の相手で、今はまだ親友。
腰まで伸びたこげ茶色のツインテールは、毛先まで綺麗に整えられている。
「かかと、踏んでるよ」
「急いで出てきたからな」
俺はつま先で地面を叩いて靴に足を押し込む。
「陽太君はそそっかしいなあ。ゆっくりでいいのに」
「だってほのか外で待ってるだろう」
「靴を履くくらいの時間待てるってば」
ほのかは困ったように笑うと、小さな足を小学校の方向へ向ける。そんな彼女の足取りはいつもより軽い。ハーフパンツの広がった裾がそれに合わせてふりふり揺れる。
「なんか今日機嫌良い?」
「そう見える? 私のことで何か気づかない?」
ふふん、とほのかは誇らしげに笑った。
「何か……?」
彼女の前に出て身を翻し、後ろ歩きで彼女のことをよく見る。
俺より二回り小さな身体は、同い年の小学五年生の教室にいてもかなり小さく見える。
服装は夏らしい軽装。ハーフパンツにオレンジの半袖ブラウス。
これもオレンジ色のランドセル。彼女はオレンジが好きなのだ。
「うーん、強いて言うなら、いつもより動きやすそうな格好ってことか?」
「それもそうかもだけど……」
ほのかは納得いかないとばかりに唇を尖らせる。
「いやー、分かんねえよ。だってほのか週一くらいで訊いてくるし」
「週一で訊いてるんだからいい加減気づくようになってよお」
「どうせまた新しい服だとか、前髪を二本くらい切ったとかそんなんだろ」
「前髪を二本切ったなんてことなかったでしょっ!」
「えー、そうだったk――うわわっ」
後ろ歩きしていたせいで転がっていた石を気づかず踏んでしまい、そのまま滑って尻もちをついてしまった。
「いつつ……」
「だ、大丈夫!?」
「ああ、大丈夫だよ……っと、靴か! 靴が新しい!」
視点が下がったことで見えた。白いスニーカー。オレンジ色の靴紐。靴なんて大して意識したことがなかったからデザインだけでは気づけなかっただろうが、汚れ一つないことでそれが新しいものだと気づけた。
「んふふ、正解」
差し伸べられた手。向日葵のように咲く笑顔。
背負った空は鉛のように重たい雲が覆っている。
「雨、降りそうだな」
「天気予報で言ってたよ、午後から土砂降りだって」
「えー、マジ?」
ほのかの手を取って起き上がると、俺たちは再び歩き出す。今度は二人で横に並んで。
「うん、マジ」
「傘持ってきてねえや。ほのかも傘持ってなくない?」
「ランドセルに折り畳み傘が入ってるよ。陽太君もどうせこの間学校に忘れた傘が置きっぱなしなんでしょ?」
「あ、そういえばそうだった。ラッキー」
「忘れ物もたまには役に立つね」
ふふっとほのかはおかしそうに笑った。
ほのかの運動神経はあまり良くない。
今も止まっているサッカーボールを蹴ろうとして空振り、回転扉のようにぐるぐるしている。
「ぷふっ」
と思わず変な笑いが出てしまった。
おかげで「天野君、ちゃんと授業聞いてますか!」なんて先生に怒られてしまった。
ほのかのクラスは体育らしく、窓から見える校庭でサッカーをしている。算数なんて受けてないで俺も体育に交ざりたいものだ。
ほのかはクラスで――というより同級生の中ではかなりの人気者だ。
彼女が失敗をごまかすようにえへへ、と笑うと周囲も一緒に笑顔になる。
見た目も性格も良くて嫌われる要素なんてないのは分かるが、それ以上にほのかには人を惹きつける不思議な魅力があるんだよなあ。
さすが「おっきくなったら正義の魔法少女になる!」と豪語していただけのことはある。ちなみに最近はその話をすると「昔の話でしょ!」と頬を染めて怒り出して可愛い。去年まで言ってたくせに。
一試合終わってコートから出てきたほのかが不意にこちらを見上げて目が合った。嬉しそうに手を振るほのかに俺は小さく手を振り返すと、「天野君、授業に集中しなさい」といつの間にかすぐそばまで来ていた先生にまた怒られてしまった。
それからしばらくすると急に強い雨が降り出し、ほのかたちは走って校舎内に戻っていた。
「傘ないの?」
いつも待ち合わせている放課後の昇降口。ほのかは先に着いており、困り顔の低学年女子に声を掛けていた。
「わたしの貸してあげるね」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
優しく言ったほのかから――これもオレンジの折り畳み傘を受け取った女子は、元気にほのかに手を振って昇降口を出て行った。
激しく地面を打つ大粒の雨だ。
夏特有の生ぬるい雨。
傘無しで下校しようものなら家に着く頃には服ごと川に浸かったような事態になっていることだろう。
「良いことしたな」
俺は下駄箱の傘立てから、ずっと放置していた自分のビニール傘を抜いてほのかに声を掛けた。
「何のことかな?」
ほのかは悪だくみしているような笑みを浮かべる。
「折り畳み傘持ってるって言ってたよな。帰るか」
そんな彼女に俺も同じように笑って見せて、一人で傘を広げながら昇降口を出る素振りをしてみせる。
「うーん、それが忘れちゃったみたいなんだよね」
「じゃあ俺のところに入るか?」
「うん! お邪魔します!」
肩を寄せ合って入るビニール傘。
小柄なほのかとなら二人並んで入ってもどちらかがはみ出たりはしない。
歩幅は意識しなくてもなんとなく合う。幼馴染だから。
「お前ら相変わらずラブラブだな。またな」
なんて同級生の声はからかいというよりは呆れ。以前はよくからかわれていたが、もはや俺とほのかがセットでいることは物珍しいことなんて少しもない。ごく自然なことでしかないのだ。
「良いことしたんだから普通に言えばいいのに」
「人知れず助けるからかっこいいんだよ」
「まあそれは分かるけどな……」
「それはそうだよ。陽太君の真似したんだもん」
「ああ、そういうことか」
「そういうこと」
くすくすと笑う可愛らしい声は、ビニールを叩く雨音と混ざり合って聞こえる。
「それにしても強い雨だな。新しい靴が濡れちゃうけど大丈夫か?」
「うん、この靴防水の靴だから。そのために今日下ろしたのです」
想定済み、というどや顔。
「……俺がいなかったら靴が防水でも全身びしょ濡れだったけどな」
「でも陽太君はいるでしょう?」
「ま、そうだけどな」
「あっ……」
と、ほのかが唐突に立ち止まる。
それに気づいて俺が止まれたのは、彼女が傘からはみ出してしまってからだった。
「ちょっ、急に立ち止まったら濡れるぞ」
すぐに振り返って再びほのかを傘に入れてやったので大して濡れてはいなかったとは思うが。
「忘れ物か? 引き返すか?」
俺の問いに彼女は頭を横に振って答え、学校でも家でもない方向を指さした。
車が入れない狭い路地。その地面。
――みー……
置かれた段ボール箱の中から、両手に収まりそうな黒猫が顔を覗かせていた。塀の上から飛び出した木の枝葉が雨をいくらか防いでいるが、気休め程度でしかなく、ずぶ濡れの状態で身を震わせている。
雨で滲んだ『拾って下さい』の文字。
「捨て猫か……」
「雨に濡れてかわいそうだよ」
「そうは言ってもうちじゃ飼えないしなあ。ほのかの家も前回拾った時ダメって言われてたろ」
「そうだけど……」
この辺りに捨て猫が多いのか、俺たちは二月に一度程度のペースで猫を拾っている。俺の家は既に捨て猫だらけでこれ以上は飼えないし、ほのかの家は両親ともに猫アレルギー。
かわいそうだが保護してやることはできないのだ。
「でも陽太君だって放っておけないでしょ?」
「まあな……。探すか、飼い主」
「うん!」
シーっと全身の毛を逆立たせて威嚇するのにお構いなく、ほのかは子猫に歩み寄ってしゃがむと、ハンカチタオルで包み込む様に抱き上げた。
「すぐにおうちを見つけてあげるからねー」
文字通りの猫撫で声で話しかけられた子猫は、先程までの威嚇が嘘だったかのように喉を鳴らし始める。
「相変わらず動物にもすぐ懐かれるな」
「ふふん、いいでしょ」
優しいほのかにすぐ懐く動物の気持ちもよく分かるが、ここまで早いともはや魔法の類を疑ってしまうな。
「俺だって別に嫌われるわけじゃない」
と、手を伸ばすとシーっと思い切り威嚇されてしまった。
捨て猫の飼い主探しはもうすっかり慣れっこだ。
まず二人でお小遣いを出し合ってコンビニでミルクを買って飲ませてやってから、過去に猫を引き取ってくれた家を回る。
猫を引き取ってくれるような人はそもそも猫好きだし、一匹引き取ったのなら二匹も三匹も大差ないと引き取ってくれることがあるのだ。
うちにはその感じで現在五匹の猫がいる訳だしな。もっともちゃんと飼うならそれが限界でこれ以上はさすがに無理と親には言われてしまっているが。
「あら、あなたたちまた子猫を拾ったのね。でもごめんねえ、うちではもう飼えないわ」
俺の家だけじゃない。そう簡単に何匹もの生き物を飼えないのは当たり前のことだ。
だから打率はさほど高くない。残念なことに。
「このおうちもダメだったね……」
「そうだな。今まで引き取ってくれた猫がみんな元気そうなのが見られたのはよかったけどな」
数軒回ってもう俺たちに宛はない。
もともと分厚い雲のせいで薄暗かった街並にとうとう明かりが灯り始める。
地面で弾けて足首に当たる雨水が冷たく感じる。
「寒くないか?」
夏とはいえ雨だ。それも夕方も終わりそうな時間帯。傘の広さは十分とはいえ二人と一匹でもう二時間近く歩き回っている。特に足元なんかはもうびしょびしょだ。
濡れれば冷える。当たり前のことだ。
「ちょっとだけね。でも大丈夫! この子も気持ちよさそうに寝てるしね。スーパーの前に行ってみようか」
スーパーの前。ここも里親探しではそこそこ重宝している。この時間帯だとちょうど買い物の主婦で賑わっているのだ。多くの人に声をかけられるので必然的にチャンスも多い。打率はそれほど高くないが……。
ここで見つからなければ、親に怒られながらも一度うちで預かってやる他ない。両親も俺同様子猫を外に放っておけるような性格ではないしな。
スーパーへ向かう道中、周囲が暗くなっていっているのに気づいた。いや、時間が遅くなれば暗くなるのは当然のことなのだが、そうではない。黒い霧が出てきたかのように視界が悪くなっていくのだ。
「それでね、算数の時間にね……」
視界だけじゃない。すぐ横にいるほのかが楽しげに話す声が遠くに聞こえる。
「先生ったらおか…くて、…たし……ちゃった」
やがて霧が彼女の姿すら隠し始めると、回線の悪い配信のように声がぷつぷつと途切れるようになる。
ほのかは異変に気づいていないのだろうか。
楽しげな表情のまま俺に話しかけてきている。それは彼女の姿が完全に見えなくなる寸前にも変わることはなかった。
そしてそう時間はかからずに俺の視界は完全な黒に覆われた。
――陽太…君、ずっと好き……でした。
頭の中に力ない声が響いた。
…………
………
……冷たい。
全身を叩いては流れる水滴。張り付くTシャツ。ついた膝に絡みつくような泥。熱い目頭。
それらを初めとしたあらゆる不快感をかき消す、腕の中の温かさ。
にー、と鳴く子猫は彼女の頬を伝う雨水を一滴だけ舐めとった。
何が……起こった……?
理由も分からぬまま、それでもとめどなく生まれては蓄積する恐怖と悲愴。
俺の腕の中で眠るように目を閉じたほのかは微動だにしない。
そう、微動だにしないのだ。
心臓の鼓動も呼吸による肺の膨らみ縮みも一切なく、力なんて感じさせない身体をだらりと俺に預けている。
こんな状態を表す言葉を俺は一つしか知らない。
――死。
目の当たりにするのは初めてだった。
どのようにしてそうなったのかはまるで分からないが、ただその死因は彼女の姿を見れば小学生の俺にも明らかだ。
綺麗な上半身とは裏腹に下半身がグチャグチャにすり潰されたようになっている。今朝自慢していたスニーカーも辛うじて形を保っているがもう靴としての役目を果たせそうにない。
もはや取り返しがつかないのだと理解するのにそう時間はかからない。
「……どうして」
「猫を助けようとして交通事故に遭ったんだ」
ついて出た俺の言葉に返事をしたのはスーツの男だった。見上げた彼はほのかの様子を見ても顔色ひとつ変えず、手放してしまっていたらしい俺のビニール傘を差し出してくれながらそう言った。
ビニールの向こうには虹がかかっていた。
まだ雨が降っているのにそれはそれは立派な虹だった。
顔を上げた時に頬を伝った水滴が、雨粒だったのか涙だったのか。そんなことも分からない。
ただ一つ確かなのは、それらの水が腕の中の温もりを奪っていくこの感覚だった――。
――ピン、ポーン
はっと目を覚ます。
「なんだ、夢か……」
吐きそうなほどの不安を押しのけて上がってきた安心の吐息が漏れる。
ほっと息をついたのも束の間、俺は勢いよくベッドを飛び出していた。バタバタと階段を下り、靴も履かずに勢い任せで玄関を飛び出る。
「ほのかっ!」
張り裂けそうな心臓を落ち着かせるためにも、一刻も早く彼女に会いたかったから。
「ほ、ほのか、さん……? えっと……」
玄関前に立っているのはほのかではない。ツインテールは同じだが、彼女よりタレ目でおっとりとした雰囲気がある。
「まな、さん……」
「お、おはよう、ひかりさん。何かあった?」
「……なんでもないよ。上がって」
そもそもここは飯櫃神社の桃花の家だ。俺の実家ではない。ほのかが来るはずはないのだ。
いいや、そうじゃなくたってほのかはもうこの世にいないのだから来るはずはないのだ。
それでももしかしたらと期待せずにはいられなかった。文化祭で歪物と戦った際に見た彼女は、確かにほのかだったから。
またほのかと会えるかもしれない。そう思ってしまった。そんなわけはないのに。
「何だったんだろうな、あれ……」
俺はまなの小さな背中を見ながら呟いた。
ほのかのことを忘れたことは一度もないが、夢に出てきたのは何年ぶりだっただろうか。
あの日からもう十五年近い時が経っている。
肝心な事故の場面を覚えていないのは強いショックのせいだと医者には言われた。前後の記憶は鮮明に覚えているのに、一番大切な部分を覚えていないのがたまらなく悔しい。
俺が守ってやれたんじゃないか、そんな後悔すら状況が分からないと許されない。ただ彼女の死という結果だけが俺の中に永遠に残り続けるのだ。
お久しぶりでした。多分また空きます。




