スイカ畑の幻想
空一面にどんよりとした雲が垂れ込めていた。スイカ畑の北西側斜面に植えられた松林の向こうには水平線まで見渡せる海。空の雲の色を反映して暗い灰色をしている。晴れた日にはきっと真っ青な海面を見せてくれるんだろうなあ。
「ホラ、ショウ、ぼんやりしてないで、しっかり張れよ」
向いでビニールを引っ張っている先輩の声。僕は「あ、はい、すみません」と言って、ビニールを持った手に力を込めると、昨日から今日に掛けての出来事を振り返った。
ソノさんや父つぁんには外泊旅行を安請け合いしたものの、心配がないわけではなかった。最大の問題は、果たして父の許可が下りるかどうか、であった。帰宅した父に、すぐに事の成り行きを簡単に説明すると、案の定、快い返事は聞けなかった。いくら何でも明日からの旅行を今日言い出すのは急すぎるし、三泊もすれば相手の迷惑になるだろう。それに最近、休日は出歩いてばかりで勉強は大丈夫なのか。疲れた声でそう言って、父は風呂に入ってしまった。
予想通りの展開とはいえ、素直に父の言葉に従うわけにもいかない。父の入浴中、説得できるだけの理由をあれこれ考え続けるも、さっぱり名案が浮かんでこない。風呂から出てくつろいでいる父を眺めながら頭を巡らせても、説き伏せる秘策はまるで思いつかない。これはもう先輩にご登場願うしかないと、他力本願の解決策に走ろうとした時、一本の電話が掛かってきた。最初に父が取り、次に僕が出ると、驚いたことに父つぁんの北陸の実家からだった。農作業を手伝ってくれるお礼とご挨拶を兼ねて、父つぁんのおじいさんがわざわざ電話をしてくれたのだ。しばらく話した後、請われて父に代わると、やはり同様の話をしているようだった。最初は固かった父の表情も、喋っている内に次第に柔らかくなっていき、最後には「それではよろしくお願いします」と言って電話を切った。
「人助けとなれば反対するわけにもいかんだろう。怠けたり手を抜いたりせずに、精一杯手伝ってあげるんだぞ」
父つぁんのおじいさんに感謝である。こうして僕は無事、北陸へと旅立つことが出来た。
「せっかくの連休にすみませんね。でもこちらとしては大助かりです。人手は多すぎて困ることはないですからね」
しゃがんで苗を植えているこの畑のオーナーは、手を休めることなく話をする。背が高くがっしりとした体に、農家らしく日焼けした肌を持ち、その顔には愛想笑いが漂っている。人当たりが良いのはいかにも父つぁんの伯父さんという感じだ。そして今、僕らがやっているのはスイカの定植、苗を畝に植えていく作業だ。おじさんが植えた後、畝を半円状に跨いだ支柱にビニールをかぶせてトンネルを作っていくのが僕と先輩の役目。隣の畝では父つぁんと父つぁんの両親が三人で同じ作業をしている。二組に分かれれば作業も捗るはずなのだが、そんな実感はまるでない。
「最近は親父も体が言う事を聞かなくなって、妻と二人の農作業は正直大変なんです。こうして手伝っていただけて本当に助かりましたよ」
遠くに停めた軽トラックの近くで苗を運んでいる、父つぁんの伯母さんとおじいさんを眺めながら遠慮がちに話すおじさんに、先輩が答える。
「いえ、こちらこそお世話になるんですから当然ですよ、それにしても、想像以上にでかいですね」
そう、先輩の言葉通り、こんなでかい、と言うか広大な畑だとは露も思わなかった。一畝の長さが百メートル程で百畝くらいある。サッカーコートが四面は作れそうだ。この広さの前では僕らの歩みなど、砂場を走る蟻みたいなものだ。専業農家恐るべしである。
「なんだか夢を見ているみたいだなあ」
今日の早朝、わざわざ家の前まで迎えに来てくれた父つぁん家の車に乗り込んだ僕と先輩は、車内で爆睡している内に目的地に到着。半分寝ぼけたまま昼食をご馳走になり、作業着に着替えて軽トラックの荷台に乗せられ、それが道路交通法違反になるんじゃないかと考える間もなく、気がつけばスイカ畑の農業従事者になっていたのだった。ほんの数時間前まで自宅のベッドの上に居たのが夢に思えるほどの、劇的な境遇の変化である。
「全部で一万株植えるんですよ。先月から作業して既に七割ほどは終わっています」
つまり残り約三千の苗を手作業でひとつひとつ植えていくのだ。考えただけで気が遠くなる。父つぁんのおじいさんがわざわざ電話を掛けてお礼を言ってきた意味が、なんとなく理解できるような気がする。
「一株には二~三果、実らせます。それを二週間くらいで収穫しますから、夏は本当に大変なんですよ。いや、助かりますわ、ははは」
既に夏の収穫時期も手伝いに来ることが決定してしまっているようだ。一株に二~三個で一万株だと、総個数は二~三万個、それを二週間で収穫だと、一日当たり……いや、余計なことを考えるのはやめよう。夏のことは夏になってから考えればいいのだ。
「収穫後、スイカの蔓や敷いてあるビニールを片付けて、その後は大根を作っています。ええ、もうそこまで手伝って頂ければ御の字ですよ」
ちょ、ちょっと待て。夏休みは確か六週間くらいしかないよな。スイカの手伝いで二週間、その後、大根まで手伝っていたら、僕の夏休みは一体どうなるんだい。父つぁん、君はどんな世界へ僕を引きずり込もうとしているんだ。
「勿論、手伝わせてもらいますよ。俺、いや私は剣道部の部活や合宿があるので無理ですが、こいつは夏休みといえば家でゴロゴロしているだけですからね。な、そうだろ、ショウ」
せ、先輩、やめてください。家でゴロゴロも僕にとっては大切な時間の過ごし方なんですよ。と言うか、何カッコつけて自分のことを私なんて呼んでいるんですよ、気持ち悪いじゃないですか、と心の中でつぶやきながら、実際に僕が口に出すのは、
「あ、でも夏のことは夏にならないとわからないので、なんとも」
などという、実に当たり障りのない言葉なのである。まあ、カッコつけるのは僕も同じなので、一概に先輩を非難できないだろう。
こうして僕らの初めての農作業は滞りなく進んでいった。同じことの繰り返しなので要領さえわかってしまえば簡単なものだ。と同時に同じことの繰り返しなので次第に飽きてくる。少し休みたいなあと思った頃、遠くから呼び声が聞こえた。苗を運んでいた父つぁんのおばさんとおじいさんが軽トラックの側で手を振っている。
「お、三時のおやつか。この作業が終わったら一旦休憩しましょう」
おじさんは手に持った苗を植え終わると立ち上がった。被せているビニールの端に土を乗せて風で捲くれ上がらないようにして、僕たち三人は軽トラックへ向かう。どうやら午後は一度休憩を取るのが、父つぁん農園の慣習のようだ。
「三時のおやつを大勢で食べるなんて、幼稚園の時以来かなあ」
僕の言葉におじさんは声を上げて笑う。
「ははは、そうですか。ここでは朝の十時にもおやつを食べますよ。特に夏は汗をよくかきますからね、適度に休まないと体が持ちません」
「うーむ、つまり一日五食昼寝付きのお仕事って訳か。こりゃ結構待遇がいいんじゃないか」
将来、先輩がバイトを探す時は、時給よりも食事の回数を重視して選択することだろう。もっとも、稼いだ金もほとんど食費に消えるのだろうから、どちらを重視しても結局は変わりないとも言えるのだが。
それから僕たち八人は軽トラックの陰に座って、用意してくれたおやつをご馳走になった。曇り空の下での軽作業とはいえ、やはりそれなりの汗はかいていた様で、冷たい麦茶と甘辛い瓜漬けが、適度に疲労した体をリフレッシュさせてくれた。
「最近はスイカの出荷量も減ってきましてなあ」
のんびりとした口調の父つぁんのおじいさんによると、ここ二十年でスイカの出荷量は半分程になってしまったそうだ。他の果物に比べて大きすぎるスイカは一度に食べ切れない為、少子高齢化の昨今、消費者にはあまり受けがよくないらしい。確かにスーパーに行ってもカットされて売られているスイカが多い。生産者も小玉スイカに力を入れているとのことだった。
「俺は一玉だって食う自信はあるけどな」
日本人全員が先輩並の胃袋を持っていたら、スイカ農家も安泰だろうにとつくづく思う。
「それに収穫の時も大変な重労働でな。あんなものを地面から拾い上げていくのは、まったく骨が折れますわ」
平均五キロ、重いものでは十キロもある物体を、一日数千個も拾っていくのだから、その苦労は想像に難くない。父つぁんの立派な体格の理由が理解できるというものだ。これはもはや一種の筋トレと言えるのではないか。
「もちろん、人を雇わなければ収穫仕切れません。昔は地元の高校生が夏休みに入ると手伝ってくれたのですが、最近はもっと楽で時給も良いバイトが沢山あるようで、人集めも大変で……いや、本当に助かりますよ」
本日三度目となるおじさんの「助かります」発言。ここまで当てにされては、もう夏休みも来るしかないではないか。人の良さを自認する僕ではあったが、さすがにこの時ばかりは父つぁんを恨めしく思わずにはいられなかった。
更にこの後もスイカ談義は続いた。なんでもスイカの収穫専門に日本全国を回っている人がいるらしく、既に出荷が始まっている熊本を皮切りに、鳥取、千葉と、収穫に合わせて北上を続け、北陸から東北、北海道まで手伝ってその人の一年の仕事は終わるらしい。ただ最近はスイカの出荷量が減っていることもあって、スイカだけでは生活が苦しいようだとも話してくれた。
「しかし、スイカの生産が減っているなんて、ちょっとショックだよなあ。このまま生産量が減って、マスクメロンみたいに高級な食い物にでもなっちまったら、砂浜でスイカ割りなんて、勿体無くて出来なくなっちまうんじゃないか。やっぱりスイカは汁を飛ばしながらバクバク頬張りたいよな」
提供された瓜漬けの半分以上を平らげた先輩の言葉には、僕も同感だった。重厚長大農産物の筆頭であるスイカ君には、今の世を席巻する軽薄短小の波に飲み込まれることなく奮闘努力して欲しいものだと、願わずにはいられなかった。
「砂浜でスイカ割りかあ」
松林の向こうには、切れ始めた雲間から射す午後の陽光を浴びて、青色を帯び始めた日本海が見える。真夏にはもっと強烈な太陽の下で濃い青色になるのだろう。その砂浜にみんなが集まってスイカ割りをしている。棒を持った父つぁんに気合いを入れる先輩の声。ソノさんにカメラを構えられて恥ずかしそうなモリ。冷めた表情でドリンクのストローを咥えるコトとリク。そんな夏休みのひとコマを思い浮かべながら、僕は無意識の内につぶやいていた。
「秋海棠西瓜の色に咲きにけり」
「おや、俳句ですか」
おじいさんの声に我に返った僕は、照れ笑いをしながら言った。
「芭蕉の句ですよ。江戸時代にはもうスイカを食べていたみたいですね」
「スイカの句がすぐに出てくるとは、さすが文芸部。ショウはこう見えて、結構俳句に詳しいんだ。な、そうだろ」
父つぁんのお褒めの言葉も妙に恥ずかしい。どうしてこんな句が口をついて出てしまったのか、自分でもよくわからない。
「おい、ショウ」
先輩が顔を寄せてくると、小声で耳元にささやいた。
「不用意に発句を口にするなよ。去来が反応して、もう少しで一緒に詠んじまうところだったぞ」
「あ、はい、すみません」
こんな所で吟詠境を開いてしまっては一大事だ。素直に先輩に謝って、僕はもう一度、水平線の端まで広がっている海を見た。夏にみんなであそこで泳げたら楽しいだろうな……そんなささやかな願望に僕の胸は少し熱くなった。
「さあ、残りの仕事を片づけてしまいましょうか」
おじさんが立ち上がった。夏の浜辺の夢想は儚く消えて、僕は現実のスイカ畑へと引き戻された。苗が植えられるのを待っている畝は、まだまだ沢山ある。ヤル気を奮い立たせて僕らは再び作業に戻った。




