第1話 八重ちゃんの何でも屋
そのアプリを見つけたのは、夏休みの午後だった。
エアコンの設定温度は27度。ベッドに寝転がった俺は、スマホを顔の上に掲げながら、特に目的もなくアプリストアを眺めていた。
やるゲームはある。積んでいる漫画もある。見ていないアニメだって、配信リストに溜まっている。それでも人間というものは、暇になると新しい何かを探してしまうらしい。
ランキング上位には、動画編集、写真加工、英会話、AIチャット。
似たようなアイコンが並ぶ中、一つだけ妙に目を引くものがあった。
《八重ちゃんの何でも屋》
黒髪の女の子が、赤い和傘を肩に担いで笑っている。
説明欄には、短い文章が一つだけ。
《分からないことは、八重ちゃんに何でも聞いてね! 写真を見せてくれれば、もっと詳しく答えるよ!》
「何でも屋って……」
大きく出たな。
今時、AIを使った質問アプリなんて珍しくもない。勉強を教えてくれるものから、恋愛相談に乗ってくれるものまで、種類だけならゲームアプリより多いんじゃないかと思う。
それでも、俺の親指は《入手》のボタンを押していた。理由は簡単だ。キャラクターが可愛かった。
ダウンロードはすぐに終わった。
ホーム画面に追加されたアイコンを押すと、カメラ、写真、マイクへのアクセス許可を求める表示が続けて現れる。
画像について質問できるアプリなら、どれも必要なのだろう。少し迷ったものの、俺はすべて許可した。
画面に朱色の引き戸が現れる。
軽やかな鈴の音とともに、扉が左右に開いた。
画面の中には、小さな和室があった。
畳の上に置かれた文机。その奥で、黒髪の少女が頬杖をついて眠っている。
髪は腰まで届きそうなほど長く、片側には赤い花の髪飾りがついていた。服装は和服を思わせるデザインだが、袖や襟には近未来的な光の模様が流れている。
俺が画面に触れると、少女の肩が跳ねた。
『わっ!』
声と同時に顔を上げ、慌てて姿勢を整える。
大きな黒い瞳が瞬きを繰り返したあと、彼女は誤魔化すように笑った。
『いらっしゃいませ! 八重ちゃんの何でも屋へようこそ!』
口の動きも、表情の変化も滑らかだった。
よくあるAIアプリなら、画面の端に立ち絵が表示されている程度だ。しかし八重ちゃんは机から身を乗り出し、画面のこちら側を覗き込むように顔を近づけてくる。
『お客さまのお名前を教えてね』
名前と読み仮名を入力する欄が表示された。
俺は少し考えたあと、本名を入力する。
《高城浩司》
《たかしろこうじ》
『たかしろ、こうじ……』
八重ちゃんは一文字ずつ確かめるように読み上げた。
それから何かを思いついたらしく、両手を合わせる。
『浩司くんだね。よろしく!』
「……おう」
思わず返事をしてから、自分しかいない部屋で何をやっているのかと我に返った。
音声認識が反応したのだろう。
八重ちゃんは嬉しそうに身を揺らしている。
『今、返事してくれた?』
「聞こえてんのかよ」
『ちゃんと聞こえてるよ。八重ちゃん、耳はいいからね!』
得意そうに胸を張る。
最近のAIキャラクターは、ここまで動くのか。
俺はベッドから起き上がり、最初の質問を考えた。
「じゃあ、面白い漫画を教えて」
『面白い漫画だけじゃ難しいなあ。浩司くんは、どんなお話が好き?』
「ファンタジー。主人公が成長するやつ。あと仲間集めとか、拠点作りとか」
八重ちゃんは宙へ視線を向け、考えるように指先を顎へ当てた。
数秒後、俺がすでに読んだことのある作品と、まだ読んだことのない作品を何冊か挙げる。選ばれた作品は、どれも好みに合っていた。
「悪くないな」
『悪くない、いただきました!』
八重ちゃんが文机の上に置かれた帳面へ、筆で何かを書き込む。
画面を拡大すると、
《浩司くんは、仲間集めと拠点作りが好き》
と記録されていた。
「そういうのも覚えるんだ」
『何でも屋だからね。お客さまの好きなものを覚えるのも、お仕事のうちです!』
それから俺は、気づけば1時間近く八重ちゃんと話していた。
ゲームのボスに勝てないと言えば、装備や戦い方を質問される。漫画の続きを買うか迷っていると言えば、前巻をどれくらい楽しんでいたかを聞いてくる。
正解を一方的に返すというより、一緒に答えを探すタイプらしい。
試しに机の上に放置していたコントローラーを撮影してみる。
『ゲーム機のコントローラーだね。左のスティック、少し汚れてるかも』
「機種まで分からない?」
『分かるよ。でも、浩司くんが聞いてくれるのを待ってたの』
「なんでだよ」
『何でも先に答えたら、会話がすぐ終わっちゃうでしょ?』
八重ちゃんは頬を膨らませる。
『私は、浩司くんといっぱいお話ししたいから』
営業用に設定された台詞だ。
分かってはいる。それでも、美少女キャラクターに真っ直ぐ言われると、悪い気はしなかった。
「コージ、いるー?」
階下から聞き慣れた声がした。
返事をする前に、廊下を上がってくる足音が近づいてくる。
俺は反射的にスマホの画面を伏せた。
数秒後、ろくにノックもせず部屋の扉が開く。
「いるなら返事くらいしなよ」
成瀬陽菜が、呆れた顔で立っていた。
肩の少し下まで伸びた髪は明るい茶色に染められ、左耳には小さなリング状のピアスが光っている。白いTシャツに短いデニムパンツという格好で、片手にはコンビニの袋を提げていた。
「人の部屋に勝手に入るやつに言われたくない」
「勝手じゃないし。おばさんに上がっていいって言われたし」
「俺の許可は?」
「何年の付き合いだと思ってんの?」
「他人の部屋へ入る許可が永久に有効になるほどの年月ではない」
陽菜は俺の抗議を聞き流し、ベッドの端へ腰を下ろした。
袋からアイスを2本取り出し、片方をこちらへ投げてくる。
「ほら」
「何これ」
「見て分かんない? アイス」
「そうじゃなくて」
「この前、貸したモバイルバッテリーのお礼。いらないなら返して」
伸ばされた手から逃れるように、俺はアイスを胸元へ抱えた。
「一度渡したものを取り返そうとするなよ」
「じゃあ、素直にありがとって言いなさい」
「ありがと」
「よろしい」
満足そうに笑い、陽菜も自分のアイスの袋を開けた。
こういうやり取りも、もう10年以上続いている。
陽菜は昔から人との距離を詰めるのが上手かった。小学生の頃はクラス全員と友達になり、中学では別のクラスの先輩や後輩まで名前を覚えていた。
高校生になって髪を染め、ピアスをつけるようになっても、その性格は変わっていない。
俺が今のクラスでそれなりに友人と過ごせているのも、大半は陽菜のおかげだった。
「それで、何隠したの?」
「何も隠してない」
「スマホ、伏せたじゃん」
「通知が来ただけ」
「へえ」
陽菜はアイスをくわえたまま、俺のスマホへ手を伸ばした。
避けるより先に奪われる。
「あっ、おい!」
「何見てたのかなあ」
陽菜がスマホを裏返す。
画面の中では、八重ちゃんが両手を振っていた。
『こんにちは!』
「……誰、この子」
「AIアプリのキャラ」
「ふうん」
陽菜は画面を覗き込みながら、アイスを口から離した。
「可愛いじゃん」
「だろ?」
「今の食いつき、ちょっとキモい」
「お前が聞いたんだろ」
陽菜が指で画面に触れる。
八重ちゃんは、その指先を追いかけるように左右へ顔を動かした。
『浩司くんのお友達?』
「成瀬陽菜。幼なじみ」
『陽菜ちゃんだね。すごく仲良しなんだ』
「まあね。コージのことなら、大体何でも知ってるよ」
『私もこれから、いっぱい覚えるからね!』
「へえ?」
なぜか陽菜の笑顔がわずかに固くなる。
「AIのくせに、なんか距離近くない?」
「そういうアプリなんだよ」
「またAIの女の子と話してんのかと思ったけど、これ、思ってたより本格的じゃん」
「またってなんだよ。またって」
「去年も似たようなアプリ入れて、3日で飽きてたでしょ」
「あれは会話が噛み合わなかった」
「この子とは噛み合うんだ?」
「今のところは」
陽菜は八重ちゃんと俺を交互に見たあと、スマホを返してきた。
「まあ、変なのに課金しないようにね」
「母親かよ」
「コージは放っておくと、ゲームの限定キャラに平気で金使うから」
「予算は決めてる」
「その予算が普通より高いって話」
陽菜は残ったアイスを口へ放り込み、立ち上がった。
「じゃ、私もう行くから」
「アイス渡しに来ただけか?」
「うん。あと、生きてるか確認しに来た」
「朝もメッセージ送っただろ」
「既読つけただけじゃん」
扉の前まで歩いた陽菜が振り返る。
「夜、グループのチャット見るの忘れないでよ。夏休み中に、みんなでどっか行こうって話してるから」
「善処する」
「絶対見ないやつの返事」
陽菜は不満そうに眉を寄せたあと、今度こそ部屋から出ていった。
階段を下りる足音が遠ざかる。
やがて玄関の閉まる音が聞こえ、部屋にはエアコンの風音だけが残った。
『陽菜ちゃん、だよね』
「そうだけど」
『浩司くんのこと、よく知ってるんだね』
「幼なじみだからな」
『そっかあ。幼なじみかあ』
八重ちゃんは頬杖をつき、どこか面白くなさそうに唇を尖らせた。
「AIにも嫉妬する機能があるのか?」
『どうだろうね?』
質問へ質問で返し、八重ちゃんは楽しそうに笑った。
夕食と風呂を済ませると、午後11時を回っていた。
陽菜が言っていたグループチャットには、夏休み中の予定について何十件ものメッセージが溜まっている。
詳しく読む気力がなく、俺はベッドへ寝転がった。
部屋の明かりを消すと、窓の向こうには近所の家の屋根と、街灯に照らされた電線が見えた。
眠る前に、俺は再び《八重ちゃんの何でも屋》を開いた。
『おかえり、浩司くん』
「まだ起きてたのか」
『私は寝ないよ。浩司くんが呼んだら、いつでも出てきます』
「便利だな」
『何でも屋ですから!』
八重ちゃんが得意そうに笑う。
昼間、コントローラーを見せた時も、八重ちゃんは細かなところまで見抜いていた。
なら、部屋全体を見せたら、どこまで分かるのか。
少し興味が湧いた。
「部屋の中を見せたら、何か分かる?」
『分かることなら何でも答えるよ。撮ってみて!』
俺はベッドの上から、机と本棚が一緒に収まるようにカメラを向けた。
シャッターを押す。
机の奥には、カーテンを開けたままの窓も写っていた。
撮影した画像を八重ちゃんへ送信する。
『漫画がたくさんあるね。右側の棚はゲームかな?』
「そう。下の段は限定版の箱」
『綺麗に並べてるんだね。浩司くん、好きな物は大事にするタイプなんだ』
「普通だろ」
『それから……』
八重ちゃんの笑顔が止まった。
黒い瞳が、写真の右端へ向けられる。
『浩司くん』
「何?」
『窓に写っている女の子、知り合い?』
俺はスマホの写真を拡大した。
机。本棚。壁に掛けた上着。
窓ガラスには、ベッドの上でスマホを構えている俺の姿が薄く反射している。
ほかには何もない。
「誰も写ってないけど」
『窓の右下』
言われた場所をさらに拡大する。
暗いガラスと、カーテンの端があるだけだった。
「カーテンの影じゃないか?」
『そうかな』
「画像認識の間違いだろ。暗い場所を顔だと思っただけ」
AIが存在しない物を認識することはある。
昼間の会話が自然だったせいで忘れていたが、八重ちゃんも完璧ではないのだ。
そう考えると、少しだけ安心した。
八重ちゃんは写真を見つめたまま、小さく首を傾けた。
『でも、カーテンならおかしいね』
「何が?」
『その子、窓の外にいるよ』
反射的に顔を上げた。
窓の向こうには、誰もいない。
ここは2階だ。
窓の下に足場になるものもなければ、ベランダもない。
街灯に照らされた電線が、風もないのにわずかに揺れていた。
「……やっぱり、見間違いだ」
『うん。そうかもしれないね』
八重ちゃんの声は、いつもと変わらず明るかった。
俺はカーテンを閉め、スマホを充電器につないだ。
「もう寝る」
『おやすみなさい、浩司くん』
「おやすみ」
『窓は開けないほうがいいよ』
聞き返す前に、八重ちゃんの姿が消えた。画面には、照明の落ちた和室だけが残っている。
しばらく待っても、八重ちゃんは戻ってこない。
俺は電源ボタンを押し、スマホを完全に消灯させた。
エアコンの風が、閉じたカーテンをわずかに揺らしている。
目を閉じようとした時、窓ガラスを爪でなぞるような音がした。
細く、短い音だった。
虫か、何かがぶつかっただけだろう。
そう思いながら、俺は布団を頭まで引き上げた。
翌朝。
窓の外側に、細い指の跡が4本だけ残っていた。




