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月の光  作者: 若葉
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その二(完)




酒飲めば、夜風涼しき、月明かり。


ゆったり月を眺め猫と戯れて、ようよう安らいだ心が何かを求めている。そうだ。酒である。

月夜には、酒である。

いや、雨でも雪でも嵐でも、私が夜になると欲するものは一つ。酒である。

そうだ、酒でも飲もう。

等と照れ隠しのように何気無く独り言を呟いてみても無駄である。

私は毎日夜になると酒を飲む。悪癖である。けれども酒を飲むと気分が良い。

酒は憂いの玉はばきとか、昔から言うじゃないか。


心を押し殺して愛想笑いに無難な言葉。疲れた一日を終えて、やっと解放され辿り着いた夜である。喉と心とを潤す一杯を飲まずにはいられないではないか。

いや、一杯で済めばまだ良いのだが、そうもいかないのが酒の魔力であり私自身の弱さでもあり、悲しさでもある。

一杯飲むとついもう一杯。気が付けば何杯飲んだのか、自分でも良くわからぬ位にはたらふく飲んで酩酊している。そんな酔っぱらった自分を、内心のもう一人の醒めた自分がほろ苦く笑っている。

毎晩これではいけない。

最早とうに立派なアルコール依存なのかも知れない。そう思うといささか悲しい気持ちになる。

だが、仕方がない。そんな不貞腐れた締観にも似たものが心に大きく居座ってある。

まぁ、良いだろう。仕方がない。世知辛い世を生きる処世術みたいなものである。酒は百薬の長とかなんとか。

所詮はいつか尽きる命である。虚しい乾いた日々に一滴の潤いを、例えそれが毒だとしても、欲して何が悪かろう。


四の五の自己弁護の戯言を念じながら、店へと歩む足取りが次第に速くなる。

先ずは会社から歩いて十分程のすすきヶ原を抜けた先にある大通りに沿った最寄りのスーパーで安酒を買うのである。

何故か妙に足取りが軽い。すたすたと店内に入り込んで、勝手知ったるお酒の棚にまっしぐら。いつもと同じ安酒一本手にとって、レジに向かう足はすでに小走りに近いものがある。

幸いレジには誰も他に客はいない。速やかにレジに行き、はいと渡すと店員の女性は浅い憂い顔を少し微笑ませて、ああ、こんばんは、と優しく挨拶をしてくれる。私もやや気軽を装ってこんばんはと返す。

ほんの短い安らかな一時である。


その店員さんは私と同年代か少し上の女性パートさんである。名札にはAさんとある。

どこかに脆さと儚さを覚える女性である。

私のようなビクビクと不安に怯え仕事に人生に疲れた不甲斐ない男の心にもそっと優しさを感じさせてくれる、いわば古風な佇まいをその身にやんわりと纏わせた女性である。接客も物腰柔らかく、癒される。



思えば彼女に初めて会ったのはいつだったろう。

確か一昨年の春先、スーパーの広い駐車場の片隅に、白梅がひっそりと咲いている夜だった。

あの夜も凍える大気の張りつめた空気を照らす、さめざめと冷たい月であった。

私はひどい寒さと何だか思い出せぬががっかりとした失意とを覚えていて、文字通り身も心も寒々しく縮こまらせながら、妙に重い足取りでスーパーの中を歩いていた。

確か一人会計中のレジに並び、なんとなしに店員の女性を見てハッとしたのだ。

なんて不安そうな、崩れ落ちそうな憂いのある笑顔なのか…。

その印象は今も深く私の胸中にある。

彼女の切ない笑顔に訳もなくどぎまぎしながら前の客の会計が終わって私の番となった。


いらっしゃいませ。

お願いします。

私は缶ビール一本だけ、彼女にそっと差し出した。

レジが済むまで、僅かな時間がやけに永く感じられた。

彼女の接客は確かに笑顔である。けれどもその笑顔には何か違和感がある。マニュアル通りというのとは一寸違う。無理して口角を上げて作ったような、決してやっつけ仕事の感じではない。ただ幾らか無理やり、泣きべそ顔をなんとか必死に取り繕ったような笑顔であるように思えてならない。

何だかどこかで見たような笑顔である。ちょくちょく頻繁に見るような気さえする。

そして私は自身の昼間の姿をふいに思い出す。ああ、そうだ、なんだ鏡に映った私の笑顔に良く似ているのだ。

そう思うと、急に気が楽になったように思われた。


ああ、この人もきっと世間と上手く付き合えないまま無理して社会に溶け込もうともがきながら苦しみながら切なく生きているに違いない。

まるで自分自身の弱い部分そのものを彼女に垣間見たような気がして、なんとも言い難い、遠く離れた親兄弟にふと再開したかのような親近感を一方的に抱いてしまったのだ。


彼女の俯いた横顔はどこか寂しげで疲れた色をしている。その顔色はいささか青白く、姿はほっそりしていてどこか頼りなく、つまり彼女の全体から幸薄そうな気配を漂わせている有り様であった。

ありがとうございました。会計が済み、軽く頭を下げた彼女に私もありがとうございますとやはり軽く会釈をして店を出た。

凍るように青ざめた月明かりに照らされた白梅がさめざめと冷たく美しく思われた。

そしてふと、なんの連想だろうか、さっきの彼女から悲しい独りぼっちの雪女なんぞをイメージして、不思議な感傷に耽ったりしたものであった。


あれから一年半。

私は仕事帰りには殆ど毎晩酒を求めてこの店に来る。彼女とは週に二度三度会うようになった。

会うといってもレジの店員と客の短い接触である。

最初は見習いの札をエプロンに着けていたが、やがてそれも無くなった。

私も彼女も淡々と事務的にレジのやり取りを交わし続けていた。

しかしある頃から何となく馴染みというのか、彼女も私も警戒のレベルを少し下げた様子が見られた。互いの笑顔がぎこちなく感じないようになってきたのだ。軽い挨拶も交わすようになった。

こんばんは。

最初に挨拶したのは初めて彼女を見かけてから半年もした頃だっただろうか。

記憶は曖昧だが、確か私から挨拶をしたような気がする。

彼女はどんな表情だったろう。相変わらずの曖昧で脆く儚げな微笑を湛えていたような印象がある。

やや戸惑いながら、こんばんはと挨拶を反してくれたのだ。

それからは会えば互いのどちらからか、こんばんはという挨拶を交わし合い、まだまだ暑いですね等とささやかな雑談までするようになった。

別にいわゆる色恋の情ではなかった。ただ、なんとなく安心を覚えたのである。彼女も多分私への警戒的な緊張感が次第に薄れていったのだと思っている。

前の客の会計時とは明らかに違う笑顔を見せてくれるようにさえなったのだ。

互いに気楽でさえあった。それがお前なりの色恋の情なのではないかと問われれば、そうなのかも知れない。しかしそれは世間でいう色恋のそれとは違って、かなりプラトニックな色彩の薄いものである。



今日の会計が済み、お釣りとレシートを受け取る時に、微かに互いの指先が触れ合う。

私の指は確かに彼女の温もりを感知している。

ありがとうございます。

彼女の言葉に顔をあげて、お互いまだまだ不自然な作り笑いのぎこちない目と目が合う。

私の胸は何故だか強い刺激にトクトクと脈を速めている。


今日はいい月ですね。

何となく彼女と一言でも話したくて、私は一人呟くような声で語りかけてみた。本当にいい月。私いつも帰り道に月を眺めるのが好きなんですよ。

彼女は一瞬はにかんだような作り物らしくない微笑を浮かべて嬉しそうに応えてくれた。

私は何だかくすぐったいような気持ちで、ははと笑った。


ではまた。お疲れ様です。慌ててはにかんだ私の挨拶に、彼女も今は気安くも恐る恐るという感じの雰囲気で、しかし目の奥に確かに安堵を帯びた声で、ああ、お疲れ様ですと、素直な素朴な微笑で応えてくれる。

私は一日の終わりのささやかな癒しに妙な充実感さえ抱きつつ、自然と緩んだ顔に内心苦笑しながら店の出口へと歩き出す。


外へ出て、店外に併設されている自販機の前で缶を開け、グイッと冷たい安酒を一日の労苦と共に喉の奥へと流し込む。

ああ、これだ。

すり減った心が幾らか癒されるのを実感する瞬間である。

一口、また一口。グイグイ飲むと、あっという間に空である。

疲れたすきっ腹にアルコールが沁みる。

ほんのり酔った心は何だか恥ずかしいような熱を帯びている。

彼女に会って癒された気持ちがアルコールの心地よさと相まって、まるでもぎたての果実をギュッと搾ったように心の中で爽やかな暖かい何かが弾けている。


馬鹿馬鹿しい。それこそ仮面の営業スマイルに決まっているのに。裏では毛虫のように毛嫌いされて、要注意人物として張り紙の一つもされているかも知れぬ。下手すると帰った後に塩でも撒かれているかも知れない。

先程のふにゃふにゃとやに下がった自分を思い出すと自嘲に顔が赤くなる。

今まで何度失意を味わいまた相手を失望させてきたというのだ。

懲りない奴だな…。

また傷付くだけなのに。

相手に不快な思いをさせるだけなのに。


しかし、どうして彼女の微笑みが胸を離れないのだろうか…。

慌ててくわえた煙草に火をつける。

ああ、取り立てて何も話すことなど無いのに、彼女ともっとお話したい気がする。なんの気兼ねもなしに仲良く笑い会いたい。仮面を外したままで寛ぎ合いたい。


いや愚かな妄想はよした方が良い。微笑みあっているだけで充分ではないか。


今夜の私は何だか変である。落ち着かない。

カチカチに冷めきったはずの心に暖かいなにかがずっと絶え間無く注ぎこまれているようだ。


こんな疲れはてた四十過ぎの肉体と精神に、まだ十代のあの頃のような何かに何者かに執着するような熱い心が残っているだろうか…。そっと自分に問うてみる。

答えはどうだろう。

飲みきった安酒の空き缶を汚れたゴミ箱に向けて、野球のピッチャーみたいに大きく振りかぶってフンと全力投球してみる。

ガシャッといい音がしてきれいに空き缶がゴミ箱に吸い込まれてゆく。

まだだ、まだやれる筈だ。疲れた身体に、枯れかけた魂に、一時、熱いなにかが満ちてくるような気がした。

そんな熱い時である。

何をそんなに熱くなっているんだい。そんな歳でも無いだろう。

心の何処かでシニカルな冷笑がふっと芽生えてしまった。

もうダメである。

線香花火が赤く熟してポトリと落ちるように、一瞬の熱気は冷たい秋の風にすぐさま掻き消されてゆく。

ああ、やれやれ…。

とにかく早く帰ろう。

いささか寒くすらなってきた。さっきまでの熱気は何処へやら。すっかり冷めてしまった。


再び侘しい帰路である。

こんな日々がいつまで続くのだろう?

人生は独りで生きていくには悲しいことが多すぎる。

私は空を見上げて、また日常のループを歩き出す。


十月の月はただ静かにその優しさを一層深めている。そしていささかばかり悲しい顔をして、こんなに愚かで寂しい私をそっと黙って、あくまで沈黙したまま白く柔らかく照らし続けている。


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