裏返りの話
第79章 裏返りの話
塔へ続く白い回廊は、
音も匂いも色も薄く、
ただ“存在”だけで満ちていた。
歩いているはずなのに、
足跡が生まれない。
重力すら浮いているような、不思議な感覚。
その中で、
溝口がぽつりと声を落とした。
「……なぁ、凛。サラ」
二人が、歩みは止めずに視線だけ向ける。
溝口は少しだけ息を整えた。
「結局のところ——管理者は、何がしたいんだ?」
その問いは、
今まで誰も真正面から言葉にしなかった核心だった。
サラは、短く目を閉じた。
「……正直に言うと、すべてはわからん。
管理者の思考は、“目的” というより “機能” に近い」
「機能……?」
「ああ。
管理者は意思で動くというより、
この地下そのものの意志に従って動いている と考えた方が早い」
薄い光の中、凛は無言で前を歩く。
だが、耳は確かにこちらに向いていた。
サラは続ける。
「ただ、ひとつだけ言えるのは……
管理者は『完璧な器』を求めている。
ここに来る者は、みんな “何かが欠けている” だろう?」
溝口は息を呑んだ。
思い返す。
自分。
凛。
地下で迷った者たち。
“欠け” は入口。
そして “満たす” のではなく、
別のもので置き換えられる。
「……完璧な器とやらで何をするんだろう」
「以前、施設にいたときに耳にしたことがあるんだが、
おそらく“裏返り”という事象に関係してるんじゃないかと思う」
「裏返りってのは“地上と地下の境界を反転させる” ことらしい」
「反転……?」
「地上の世界と地下の世界は、
膜一枚で隔てられているようなものだ。
その膜が破れれば、どちらが上でどちらが下かなんて曖昧になる」
サラは歩を進めながら、
辺りの空気の“薄さ”を手で示した。
「地下は人から“記憶と心” を吸い取って保っている世界。
地上は“形ある肉体” によって保たれている世界」
「管理者はそれを——」
「混ぜようとしている。」
溝口は思わず足を止める。
「混ぜる……?
そんなことしたら人間は……」
「人間でなくなるだろうな」
サラは淡々と言った。
怖がりも怒りもしない声で。
凛がそこで初めて、振り返った。
その目には、熱さでも絶望でもなく——
静かな現実 が映っている。
「だから止めるんですよ」
溝口は息を飲み、それ以上言葉を継げなかった。
理解は追いつかない。
けれど、危機だけは確実に理解できた。
地上と地下の境界が破れる。
人は心を失い、影に浸食され、
地下は無限に広がり——
世界は、終わる。
「裏返り、ね……
たしかに、地上と地下がひっくり返ったら……」
「地獄は、地表に現れる」
サラはそう言いきった。
そして、塔の中心へつづく扉が視界に現れた。
**第79.5章 サラのまなざし **
眠れない夜が続く。
隠れ里に戻り、凛と再会し、巫女の残響を辿り、
そしてまた“施設”へ向かっているという現実。
まるで、輪をなぞるようだ。
サラは歩きながら、前を行く凛の背中を見つめた。
軽く跳ねる黒髪、無造作に揺れる外套。
以前と同じ姿形——
けれど、まったく違う気配。
(……凛。あなたは、昔のあなたじゃない)
だが、それを責めるつもりはない。
責められるはずがない。
地下は奪う。
人の「願い」「記憶」「呼吸」すら、呑み込む世界だ。
——それでも凛は生きて戻った。
サラはそれを奇跡ではなく、“代償” だと理解した。
そして、その代償の核にあるのは、
縛鎖刀。
あの刀は、持ち主の魂に食い込む。
持ち主の“欠け”を埋める代わりに、別の“色”を流し込む。
だから、時々、凛は笑う。
人間の顔ではなく、
刀の奥に潜む——記憶の持ち主のように。
(暴走させるわけにはいかない)
サラは自分の黒弦の剣の柄へ、そっと指を添えた。
もし凛がまた、あの白い閃光へ溶けるつもりなら——
今度こそ止めなければならない。
守るために。
凛のために。
巫女との約束のために。
(……大丈夫。わたしがいる)
唇の奥で、誰にも聞こえない祈りの形を結んだ。
第80章 使者、再び
塔の前には、扉があった。
だがその扉は、かつて凛が暴走して白光で吹き飛ばしたときのものとは違う。
黒い膜でできたような、うごめく影の表面。
誰かが“再構築した”痕跡。
そして、その前に——
まるで待っていたかのように、ひとつの影が立っていた。
「……ッ。」
サラが一歩前に出て、黒弦の剣に手を添える。
凛は、無言で縛鎖刀の鞘に指を添えた。
溝口は、ただ息を呑んだ。
そこにいたのは——
管理者の使者。
だが、かつて見た姿とは異なる。
仮面は半分砕け落ち、むき出しになった顔は、
白と赤の化粧で塗り固められた道化のような笑顔。
黒い外套が地面にしなり、
その足元からは薄い影が散っていた。
「……あぁ、あぁあぁ。来た、来た……ようこそ、ようこそ」
声は楽しげで、涙ぐんでいるようでもあった。
「前はずいぶん乱暴な別れ方をしてしまいましたねぇ、凛さん」
ゆっくり、使者は顔を傾けた。
凛は一歩も動かない。
ただ、声だけが静かに落ちる。
「なんのことでしょう」
「あはっ。でしょうねぇ……記憶、削れちゃいましたもの」
使者は、残った仮面の半分を、コツコツと指先で叩く。
「でもいいんです。記憶は戻らなくて。
戻せるような優しい世界じゃない。
あなたは“器”として十分に美しい」
サラが静かに息を吸う。
「ふざけるな」
使者の視線が、サラにゆっくりと回る。
「ああ……飼い主さんだ」
黒弦の剣がわずかに鳴った。
サラは踏み込む寸前の姿勢。
しかし——
凛が静かに手を伸ばして止めた。
「サラ」
その声に、サラは一瞬だけ目を見開いた。
凛の瞳は、炎でも氷でもなく、ただ真っ直ぐだった。
「こいつは以前にも……」
サラは息をのみ、
「ああ、幻影の街で襲ってきたあいつだ」
凛の中でわずかな記憶が揺れた。
使者は笑う。
今度は、喉の奥でカラカラと乾いた音で。
「ええ、えぇ、えぇ あは、ハハハ
この先で“管理者”がお待ちですよ」
黒い扉が、低く、深い音を立てて揺らぐ。
扉が、開く。
影が揺れ、空気が振動した。
第81章 笑う使者
黒い扉の前。
空気は張り詰め、地下の湿度ごと凍りついたようだった。
使者は、仮面の割れた半面を指でなぞりながら喉の奥で笑う。
「案内して差し上げたいのですがねぇ……残念。
以前の記憶が黙ってないみたいでしてね」
「アハハ…ハっ…はは。サラさんと巫女さんには随分と
煮え湯を飲まされたのでね。ハハハ」
その声は軽い。
だが、その軽さが、かえって致命的な刃の鋭さを帯びていた。
ゆっくりと、使者は外套の中から“それ”を引き抜く。
——乾いた金属音。
だが刀でも剣でもなかった。
細長い 手術器具のような刃物。
先端には赤黒い乾きかけた染み。
まるで、記憶そのものを切り取るための器具。
サラが一歩前へ出て、静かに黒弦の剣を構えた。
「……凛、溝口。いいか」
その声は、低い。
覚悟を決めた戦士の声。
「こいつは以前、巫女とわたしで戦った相手だ。
相当手強い」
使者は、くつくつと肩を震わせて笑う。
「手強い、ですって。いやですよ、そんな褒め言葉。照れますねぇ」
サラは続ける。
「ただ……中身がだいぶ変わっている。いや、もはや別物だ。
記憶を削られたか、別の器に移ったか。だが、能力は同じだと思う」
凛がほんの少し顎を上げる。
「“記憶を削る”……」
その言葉に、溝口の心がざらつく。
自分の“空白”、
凛の“喪失”、
この地下に満ちる無数の“穴”。
——すべて同じ手の中だったのか。
使者は、溝口の表情を見て薄く笑う。
「ああ。あなたの“欠け”も、とても美しい形でしたよ。
よく、戻って来られましたね。記録者さん。ハハ」
溝口に戦慄が走った。
(こいつ……俺を知っているのか?)
凛が一歩、前に出る。
刀の柄に添えた指が静かに鳴った。
「喋りすぎ」
サラが小さく息を吐く。
その声音には、決意と指示が混ざる。
「凛——先手は任せる。
でも、無茶はするな」
凛はほんの短く笑った。
「いつもみたいには、しないって」
縛鎖刀が、
——カチリ、と自然にロックが外れる音を立てた。
黒い鎖が、凛の腕に沿って螺旋を描く。
使者は首を傾ける。
「さぁ……踊りましょう」
そして。
地面が、影の波で揺れた。
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