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巫女の涙

第58章 巫女の涙



記憶の水路は、細い道へと変わっていった。


壁には古い紙のようなものが何層にも貼り重ねられ、

触れれば崩れそうなほど乾いている。

それらはすべて――祈りの残骸。


凛は、それを見上げながら歩いていた。


(……巫女さんは、いつもこんなものに囲まれていたのかな)


何かを守ろうとしていた手。

何かを繫ぎとめようとしていた視線。

その記憶は“形”ではなく、“感覚”として胸を締めつける。


サラは前を歩きながら、息を吐いた。


「……巫女の道標は、まだ奥に続いている。

 ここは“まだ入口”なのかもしれない」


「入口でこれなら……相当だな」


溝口は額の汗を拭う。

暑さではない。

圧だ。

胸に重しが乗せられているような、

思考が沈んでいくような、

そんな感覚。


凛は外套を握った。


しばらく進むと、扉が突然そこにあった。


地下に似つかわしくないほど、

まっすぐで、まっさらで、

新品のような 白い扉。


取っ手には――名前が刻まれていた。


“ミコ”


凛は息を飲んだ。


サラは目を伏せた。


「……名前は、まだ残っているかもしれない」


溝口が小さく呟く。


「きっと大丈夫だ」


サラは頷いた。


「名前は文字通り“鍵”だ。まだ封は生きている」


溝口はそれ以上何も言えなかった。


凛は、扉に手を添える。

手のひらが――震えていた。


「……開けるよ」


誰も止めなかった。


扉が、きしむこともなく滑らかに開いた。


その部屋は、湖のようだった。

床一面に 薄い水 が広がり、

鏡のように光と影を映している。


部屋の中央に――白い衣をまとった人影が座っていた。


長い髪。


細い肩。


凛は、息を呑んだ。

サラは、かすれて言葉を漏らした。


「……巫女……なのか」


人影は動かない。

水面に揺れるだけ。


凛は足を踏み出した。


水は冷たくない。

温かくもない。

ただ――記憶の温度だった。


「……巫女」


人影が、ゆっくりと顔を上げた。


「サラ様。ご無事で何より」


音にならぬ声が、胸腔のどこかに直接落ちた。

涙の形を忘れて久しいはずのサラの睫毛が、ゆっくり震える。


「巫女……」


囁くような呼びかけに、影はわずかに頷く。


「今、話しかけているのは音の記憶。“私”は、ここにいません。

 これは残しておいた残響。想いの層だけ。

 身体は――地上かもしれないし、似ていて違うどこかかもしれません」


凛が息をのむ。

思考が「死」という言葉に触れかけて、どこかでそれを否定した。


「まだ、死んではいません。

 ただ、この層の“抑え”をはじめた時、私はいくつかに分かれてしまった。

 ここには、皆を導くための面影だけを残したのです」


サラは水面に視線を落とす。


鏡の湖に映った彼女の横顔は、以前と同じようでいて、数え切れない別れを重ねた顔だった。


凛は顔を上げた。


思念の視線が彼女を透かし、柔らかく撫でた。


「凛さん、ずいぶん――凛々しくなりましたね」


胸の奥で、細い糸が結び直される。

言葉にする前に、凛は自然と背筋を伸ばしていた。


サラは一歩、影に近づく。


その足取りは、かつて誰かの隣を歩く時に選んだ速さで。


「巫女……必ず探し出す。

 どこの層にいようと、地下だろうと地上だろうとも、――必ず」


「サラ様」


名を呼ばれて、サラの瞳がきらめく。

思念の微笑は、檜の香りにも似て懐かしく、短い祈りの終止のようだった。


「信じています」


湖の静けさが、少しだけ深くなる。

空気が変わり、わずかな揺れが空洞の壁を巡って戻ってくる。

残響は、終わりではない。次への目印だ。


思念が凛へ向き直る。


「凛さん。あなたの隣で、あなたと共に過ごした事を覚えている人がいます。

 その人を、どうか忘れないで」


凛はうなずいた。

誰のことか、すぐには言葉にならない。

でも、胸のどこかで頷いている誰かがいる。

声は、どこにも触れず、それでいて確かな温度を残した。


「凛さん」


呼ばれて、凛は胸元へ指を伸ばした。


外套の内側、縫い留めてある薄い紙片――意識を留める札。

角は柔らかく、紙の繊維は細く息をしている。触れるだけで、指先に祈りの温度が移る。


「それは、あなたが“崩れ切らない”ように、とても小さな、けれど確かな橋。

 記憶を丸ごと止めるのではなく、意識の座を結び留める札です」


凛の中で、手の記憶がほどける。

細い指が札を支え、もう片方の手が彼女の背にまわる。

息を合わせ、声を出さず、掌の温度と拍で祈りを移す。


“声より先に、息で。息より先に、拍で。拍より先に――想いで。”


「……教えてくれた。

 札に祈りを込める方法、扱いの順序、どの孤独から救う札かを見分ける目まで」


「よくここまで使いこなせるようになりましたね」


凛は小さく笑う。

遠いはずの昼下がりの匂いが、今ここに差し込んでくる。


サラが横顔を見守る。

その目は、戦いの矛でも盾でもなく、友の目だった。


「今のあなたなら――私のいない場所でも、誰かの意識を留められる。

 でも、留めることが目的にならないように」


「うん」


短い返事は、刃のように真っすぐで、水のようにやわらかい。


サラが一歩、影へ進む。

膝まで水に沈め、掌を胸に当てて誓いを結ぶ。


「――巫女。

残してくれた結界の代わりにはなれないかもしれないけれど、

この層が飲み込まれぬよう、私の剣と音でできる限りをする」


「サラ様。

 あなたは“抑え”ではなく、“橋”でいてください。

 誰かを此岸に留め、彼岸に渡すときの、その一歩目」


サラの肩が、ふっと軽くなる。

重荷を取り上げられたのではない。

背負い方を直されたのだ。


凛は札を掌にのせ、静かに目を閉じた。

札の繊維が呼吸し、祈りの座が脈打ち、胸の奥で小さな灯が結ばれる。


思念は、ふたりをゆっくり見渡す。

溝口に目を留め、かすかな会釈をした。


「レコーダー(記録者)。

 あなたの力は二人の支えになります。

 どうか――二人をよろしくお願いします」


溝口は短く息をのんでから、丁寧に頭を下げた。

言葉は要らなかった。

ここでは、いま見ているという事実が、いちばん強い返事になる。


水面の光が淡く沈み、部屋全体の影が一度、呼吸をする。

残響が、終止に向けて収束してゆく気配。


サラはわずかに身を乗り出し、胸の奥の言葉をそっと外へ出した。


「待って。最後に――」


思念は小さく頷き、ひと呼吸ぶんだけ留まる。


「サラ様を……サラ様をお願いします。凛さん」


その名指しの響きが、凛の掌の札にすっと染み渡り、


水面に静かな円を広げたのち、光は結び目だけを残して消えた。


音はない。

でも、祈りの座は確かに残った。


凛は札を胸に戻し、両の手でそっと押さえる。

サラは目を閉じ、短い祈りを結ぶ。

溝口は目を逸らさず、今この瞬間の全てを心に書き留める。


扉が音もなく閉まるように、部屋の光が一段落ちて、静けさが戻った。



第59章 影の行軍



巫女の気配が消えてから――空気が変わった。


地下に満ちていた静かな息遣い。

どこか遠くから響いていた微かな風の音。

それらが、ゆっくりと 逆流を始める。


「……なんだか地下全体が騒いでる」


凛が呟く。


風もないのに、外套がかすかに揺れた。

縛鎖刀に巻きつく鎖が、チリ……と細く鳴る。


サラは背後へ視線を向ける。


闇が、動いていた。

形のない、無数の影が、ひとつの方角へと 集まっている。


「予想より早い。

 巫女の残響が消えたことで、地下の“抑え”が解けかけてる」


「抑え……?」


溝口の問いに、サラは短く答えた。


「巫女は、ただ祈っていただけじゃない。

 この“地下の意思”を、ずっと 沈めていたんだ」


凛は黙って聞いていたが、視線だけは前を向いていた。


「じゃあ――これからは、全部が動き出すってことか?」


サラは頷く。


「この周辺にいた影達や“記憶の残骸”までも」


溝口は唇を噛む。


「……まるで、戦場だな」


凛は、振り返らずに言った。


「戦場じゃなくて、終点だよ」


その声は、若い少女のものなのに、どこか 長い旅の終わりを知る者 のようだった。


地下の通りへ出る

壁に埋まった無数の顔のような模様が、

低く呻くような声を漏らし始めていた。

視線が、ついてくる。

息を吸うたびに、記憶の匂いが肺に沈む。


溝口は小さな声で呟いた。


「……ここに長くいると、どこが自分なのか分からなくなるな」


凛は言う。


「大丈夫。

 溝口さんは、自分を“記録”できる人だから」


「……それが、“記録者”ってことか?」


「うん。

 この地下で、自分を見失わずに歩けるのは、そういう人だけ」


溝口は小さく笑った。


「俺が……そんな大層なものだとは思ってなかったよ」


ふと前方に――黒い群れが立ち塞がっていた。

数えきれない影。

人の形、動物の形、何かわからない塊の形。


ざわ……ざわ……ざわ……


声ではなく、意志のざわめき。


その中心に、ひときわ大きな影が立つ。


ひとつの顔ではなく、

複数の“記憶”を無理矢理つなぎ合わせたような姿。


その口が、笑った。


――器。


 帰還を拒む器。


 管理者の名を返せ。


凛は、息を吸った。

胸が、焼けるような痛み。


「これは、私の道。

 私が選んだ、終わり」


黒い刀身が、闇より深く光る。

縛鎖刀が、低く鳴った。


サラも剣を抜く。

黒い弦が、震え、空気を切り裂く。


溝口は深く息を吸い、足を地に固定した。


「俺は戦えないかもしれない。

 だが――見失いはしない」


凛は微笑んだ。


「それで十分だよ」


影たちが、一斉に こちらへ向かって押し寄せる。


ここから先は――

戦いではなく、突破。


凛が先頭に立つ。

外套が羽ばたく。

刀が走る。

札が舞う。


サラが横で影を裂く。

黒弦の剣が、空間ごと引き裂く軌跡を描く。


溝口はうずまく記憶のざわめきの中で、

自分の“今”を刻みつけるように目を閉じなかった。


影の群れを、三人は 貫きながら走った。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




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