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異影

第55章 異影



煙霧街を抜けてから、

通路はまた長い、暗く深い道へと変わった。


壁は湿り、どこか柔らかい。

まるで肉の中を歩いているような、不快な感触が靴裏に伝わる。

息を飲む音すら、吸い取られるように消えていく。


それでも三人は進む。

巫女を探すために。

そして――この地の奥で、何か決定的なものが待っていると全員が理解していたから。


変化は、突然だった。


「……止まって」


凛が、足を止めた。


その声は小さい。

けれど反射的に、サラと溝口は即座に動きを止める。


ここでは、凛が感じる“気配”が、命綱だった。


「いる。

 今度は、姿を持ってる」


空気が、にじむように揺らいだ。


溝口にも、それは“見えた”。

影は――人の形をしていた。

けれど どこかが明らかに違う。


腕と胴が、うまく繋がっていないような。

人の顔の“輪郭”だけが浮かんでいて、内部が塗りつぶされているような。

身体の中心が空洞で、外側だけが貼りつけた映像のような、そんな存在。


足音はない。

息遣いもない。


けれど――笑っている。


その笑みは、形ではなく“意味”として脳に直接刺さる。


……見つけた。器。


凛の肩が、わずかに震えた。

だが、それは恐怖ではなかった。

覚えるべきものを思い出そうとする、記憶の痺れだった。


「……器って、ほんとに気持ち悪い言い方するよね」


凛は、静かに刀を抜いた。

黒い刃が、闇に馴染む。

鎖が、かすかに凛の腕へ絡みつく。


サラが一歩前に出る。


「溝口、下がって」


溝口は息を呑んだ。

銃も、言葉も、倫理も、ここでは無力だということが、はっきりと分かった。


だが――逃げる気はなかった。


「……分かった」


凛は一度だけ溝口に目を向ける。

その瞳は、妙に澄んでいた。


影が動く。

瞬間、音があった。


叫び声でも、足音でもない。

思考の内側を掻きむしられるような「軋み」。


影が、こちらに“滑って”くる。

歩いているわけではない。

体が前へ、空気と地面から希望を奪うように、引き寄せられてくる。


返せ。


 その器は管理者のものだ。


 記憶は餌だ。


凛は、息を吐いた。


「うるさい」


その一言と同時に――凛が踏み込む。


刀が走る。

黒い刃が、影の中心を“裂いた”。


血も肉もない。

だが――悲鳴だけが走った。


声にならない声。

存在が軋む音。


影の形が、ぐにゃりと崩れる。

それでも影は、笑ったままだった。


凛の外套が、ふわりと開く。

札が、外套の内側でふわりと舞う。


凛は、低く呟いた。


「――【封】」


札が影へと吸い寄せられる。


影の身体が、紙に吸い込まれるように“薄く”なっていく。

だが、その途中で、影は凛の耳元へ顔を寄せた。


直接、囁く。


巫女は、もう“名前”がない。


凛の指先が、ぴたりと止まる。

札の術が中断されるほどに、心が揺れた。


サラが即座に叫ぶ。


「凛! 聞くな――!」


言葉は、凛の胸に深く沈んでいた。


(……名前が、ない?

 じゃあ……私達が探してるのは“誰”……)


空気が歪む。

影が反撃する。

影の腕が、凛の喉へ伸びる。


その動きは、溝口にだけ――スローに見えた。


間に合う。

そう思った。


身体は動かない。


サラが剣を走らせた。


黒弦の剣。

直線ではなく、“うねる斬線”。


影は真横に裂かれ、溶けるように霧散した。


溝口は息をしていたことすら忘れていた。


サラは肩で息をしながら言う。


「油断するな、凛。斬り方を誤れば、心から持っていかれる」


凛は、喉元に触れた。

そこは、確かに触れられていなかった。

だが――声の残滓は、耳の奥にこびりついている。


巫女は、もう名前がない。


凛は、静かに刃を下ろした。


「……わかってる」


三人は、再び歩き出した。



第56章 記憶の水路



影との戦闘があった路地を離れ、

より深い地下層へと足を進めていった。


足元には小さな水流があった。

亀裂から流れ落ちる水ではない。

どこか――意図された流れ。


サラが指先で水面をすくい、ひどく重い声で言う。


「……記憶の“水路”だ」


溝口は眉を寄せる。


「水……じゃないのか?」


「人の記憶は形になる。

 流れて、溜まり、腐り、時に“語りかけてくる”。

 巫女は、こういう場所を渡る術に長けていた」


その言い方はどこか、喪失を含んでいた。


凛は、水面を見つめていた。

そこには、光景が揺れていた。


――長い髪を結った女性。


――白く透けるような手。


――誰かに笑いかけている横顔。


凛の胸の奥が、かすかに熱くなる。


(……知ってる。

 だけど、思い出せない)


その“思い出せなさ”が、胸を締めつける。


溝口は、凛の横顔を黙って見ていた。

何も言うべきではない、とだけ理解していた。


水路を辿る

水面には、さらに複数の記憶が流れていく。


子供の笑い声。


歌。


争いの声。


悲鳴。


溝口が思わず立ち止まる。


「……これ、全部“誰かの”人生か」


サラが頷く。


「そう。

 地上で忘れられた記憶、捨てられた記憶、盗まれた記憶……

 その流れが“水路”を作っている」


「記憶で作られた水路……ってことか」


「その通り」


凛は小さく笑った。


「記憶なんか手のひらの水みたいなもんだよ」


サラは目を細める。

けれど、何も言わなかった。


言葉は凛に刺さるだけだと分かっている。


水路の先に、音があった。


ポツ、ポツ、ポツ。


水滴が金属に落ちるような音。

だがその音は、律動を持っている。

まるで――誰かが奏でるリズムのように。


凛が立ち止まり、息を呑む。


「……この音、知ってる」


サラが目を見開く。


「なんだ?」


凛は首を横に振った。


「わからない。

 でも、ほんの少し……だけ、懐かしい?」


凛の指が、刀の柄に触れた。


思考ではなく、反射。

記憶ではなく、感覚。


「……行こう」


水路が開け、その先は、広い“空間”だった。


天井は高く、壁は半分崩れ、

何か大きな円形の構造物が中心に据えられていた。

円の表面には穴がいくつも空き、

そこから水路が四方へ流れている。


「……これは、中心区画の古い水配管。

 いや――“記憶配管”とでも言うべきか」


サラが呟く。


凛はその中央に、一人の影を見た。


背中を向けて座っている。

顔は見えない。


けれど――呼吸をしている。


静かに。


苦しげに。


耐えるように。


溝口の喉が、かすかに震える。


「……誰だ」


サラは刃に手を添え、警戒を強める。


凛は、ただ一歩、近づいた。


その背中に――

どうしてなのか、悲しみが見えた。


「……ねぇ、あなた」


その声に、影がゆっくりと振り向いて――


そこには、

面だけが壊された仮面と涙の跡のような黒い筋

があった。


声は、擦れるように、震えていた。


――凛……?


凛は、心臓が止まったように息を呑む。

呼吸が苦しい理由にすら気づかない。


(知ってる。

 知ってる――)


だが。

名前が出ない。

凛の指先が震える。


サラが、息を飲む。


溝口は、拳を握りしめた。


影は、かすかに笑った。


それは泣きそうな、壊れそうな声。


ようやく、ここまで来たね……


空気が、ひび割れた。



第57章 名を呼べない記憶



影の男は、こちらを見つめていた。


泣いているのか、笑っているのかも判別できない表情。

壊れかけた仮面の下から漏れる呼吸は、どこか 生きている人間のもの に近かった。


胸の奥で、何かが“疼いている”。


でも――何故かは、わからない。


喉の奥がぎゅっと詰まる。

息を吸うのが苦しい。


影の男は、か細い声で言った。


――呼んで。


 呼んで、みて?


懇願でも、命令でもなく。

ただ、ひたすらに優しい声だった。


凛の唇が震える。


「……あ、……」


声にならない。


思考の断片が、勝手に流れ込んでくる。


笑い声。


雨の日に傘を差してくれた背中。


少し大きな手。


台所の匂い。


優しい呼び声――


「…………にい、さ……」


喉の奥で、言葉が千切れた。

いや――千切られた。


“禁忌”が働いたのだと分かる。

この地下において 名前を呼ぶことは、力を呼ぶこと だから。


影の男――兄の“残滓”は、苦しげに笑った。


そうだ……


 そう、だったろう……


 凛……


その声が聞こえた瞬間、凛は膝をついた。

呼吸ができない。

胸が焼ける。

頭の内側から誰かが爪を立てているような痛み。


「っ……く、……はぁ……っ」


溝口が駆け寄ろうとする。


サラが腕を掴んで止めた。


「触るな。

 これは“記憶の渦”。

 下手に人が入れば、巻き込まれて溺れる」


溝口は唇を噛む。


(……見ているしかないのか)


凛の指が、床を掴んだ。


目を開ける。

涙が流れていることに、自分で気づいてすらいない。


「……どうして……

 どうして、そんな顔をしてるの」


影――兄の残滓は、ゆっくりと首を傾げた。


だって。


 君はまた、“ここへ”来た。


「…………」


そして、まだ“終わっていない”のだろう?


凛の表情が、微かに歪んだ。


「……“終わらせる”。

 私は……」


兄の影は、かすかに目を細めた気がした。


そう。


 なら――進みなよ。


影は、波紋のようにゆっくりとほどけ始めた。


形が崩れる。

声が水面に溶けるように消えていく。


凛は、手を伸ばした。


「待って……!

 まだ言ってない、まだ――」


また会えるよ。


凛。


最後の一滴が、空気の中に溶けて消えた。


そこには、誰もいない。

凛の手は虚空のまま止まっていた。


静寂。


溝口が、そっと凛の肩に触れようとした。


だが――凛は、自分で立ち上がった。


涙を拭かない。

震えも、落ち着かせない。

ただ、前を見た。


サラはその横顔を見て、短く頷いた。


「……あぁ」


溝口も、ゆっくりと頷いた。


「一緒に、行こう」


三人は、再び歩き始めた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

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