↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
22/48

記憶洗浄区画〈リフレイン〉

第26章 記憶洗浄区画〈リフレイン〉


影が消えたあとも、空間は揺らいだままだった。

まるで誰かが、ここにいた痕跡だけを、世界の底に押しつけて残したように。


凛と溝口は再び歩き出した。


深くもないのに深く感じる通路。

平坦なのに終わりが見えない床。

遠くの空気の、かすかな湿りだけが、世界のかたちを保っている。


やがて、通路の先に“明かり”が見えた。

それは火ではなく、電気でもない。


記憶の光だった。

淡い乳白色の光が、空間をやさしく照らしている。

暗闇とは違う。

静かで、温度の無い光。


そしてそこに——


巨大な円形の部屋があった。

壁一面に、無数の液体の満ちたガラス筒が並んでいる。


ひとつひとつの筒の中には——

人影がある。

シルエット。

形だけの存在。

心も声も名もない——空の人。


凛は立ち止まる。


その表情は、恐怖でも不安でもなかった。

ただ、懐かしいものを見た人のように、困ったように小さく笑う。


「……ああ」


声にはならない程度に凛は呟いた。


「やっぱりここ……知ってます」


「少し違う気もするけど施設ってところに似てますね」


その言い方は、

“ここで見たことがある”ではなく、

“ここで自分が削られたことを思い出した”声だった。


溝口は息を飲む。


「ここは……人を、作りなおす場所……?」


凛は頷く。


「記憶を洗って、

名前を薄くして、

感情を、ほどいて……」


細い指が、自分の胸元をそっと掴んだ。


「空っぽにする場所」


それは淡々とした説明だったが、

そこには言葉にしきれない痛みの余韻があった。


溝口の視界が、ふいに揺れる。

液体の中のひとつの影が、

自分にそっくりだ。


肩幅。

骨格。

腕の長さ。

溝口の喉がうっすら震えた。


「……俺もかつて、こういった場所に来たのだろうか」


凛は少し笑って、首を傾けた。


「そうじゃないですか?

だって刑事さん、記憶なかったんですよね?」


言い方は柔らかいのに、

容赦がない。

けれど、それが事実だった。


「私たち、もともと“まともじゃない”んですよ」


凛は口元だけで笑う。


「だからここに来れたんです」


その瞬間。


ひとつのガラス筒が、ごぽりと泡を立てた。

凛が気づいて振り返る。

その中にいた影が——

凛の背丈と同じだった。

輪郭が似ている。

肩の傾きも、指先の形も。

ただ、顔はない。


まるで、


「ここで捨てたもの」

そのもの。


溝口は言葉も声も出せない。

凛は、ただ立ち尽くした。


驚きでもない。

悲しみでもない。

けれど、そこには——


ほんのわずか、寂しさがあった。


「……あー……」


凛は頭をかき、少し笑った。


「私も置いてきちゃったんですかねぇ」


軽く。

冗談のように。

だけど、その声には、

喪失と、再生の匂いがある。

溝口はゆっくりと言葉を選ぶ。


「……取り戻したいか?」


凛はしばらく考えた。

いつもの冗談もなく、ただ静かに。


「わからないんです」


その一言は、

曖昧で、残酷で、まっすぐだった。


「でも、知りたいとは思う」


そこに「兄」という言葉はなかった。

執着はもう薄い。

けれど、空白が、確かにそこにある。


「行きましょう」


凛は前を向く。


「この先で、何かが解る気がする」


その背中は、小柄で、細くて、折れそうなのに——

何より強かった。

溝口は、静かにその後についていく。


記憶洗浄の部屋は、

無音のまま二人を見送った。

まるで、

ここで捨てられたものたちが、再び息をする日を待っているように。



第27章 虚ろな観測者(オブザーバー)



記憶洗浄区画を抜けた先は、

建物でも通路でもない——視線だけが存在する空間だった。


壁はない。

天井もない。

けれど「どこかに囲まれている」感覚だけが、

皮膚の内側に触れてくる。

まるで、

い何千もの目が二人の動きを追っているようだった。


凛は立ち止まらない。

ただ、歩幅はわずかに慎重だった。


溝口が口を開こうとした瞬間——

胸の内に、声が直接落ちてきた。


声ではない。

言葉でもない。


認識の侵入。


— ようこそ。


凛の瞳が、微かに細まる。

それは恐れではなく、理解だった。


「……見ている」


そう言ったのは溝口ではなく、凛だった。

声にはならず、そのまま空気に溶けるような思考音。


視界の先に、揺らぎが生まれる。

熱でも陰でもなく、

ただ存在の“濃度”が高まる。


形が、ゆっくりと集束し——


ひとつの「影の人型」 となった。

だが、それは人ではない。


頭の形はあるのに、

その上に 目がいくつも重なっていた。


数ではない。

配置でもない。

視線そのものが、独立して生きているような感覚。


それが、凛と溝口を同時に別々に見つめていた。


— 凛


呼ばれた。


声は形を持たず、

けれど凛の胸に直接刺さる。


君は、以前より空白だ。

凛は一度だけ瞬きをした。


「そうですかねぇ」


軽く、冗談めかした声で。

しかしその笑みは、どこか刺すような冷たさを含んでいた。


「だいぶ削られちゃって

ほら、ここで」


凛は指先で、自分の胸元をとんと触れる。


観測者はわずかに揺れた。

それは笑ったのか、落胆したのか判別できない。


— 空白は、良い。


— 空白は、満たしやすい。


— 君は、新しい器となりうる。


溝口の拳が、音もなく握られた。

怒りではなく、本能の拒絶。


凛は笑う。


「器、ねぇ」


彼女はゆっくりと前へ一歩踏み出した。


「残念ですけど、

私、器としては扱いづらいですよ?」


縛鎖刀が、微かに脈打つ。


その脈動は凛の心臓と同期している。

観測者の「視線」が凛へと集束する。


— その剣は、名を縛る。


— その鎖は、記憶を喰らう。


— それを持つ君は、本来“ここ”に還らなければならない。


凛は肩をすくめた。


「還るところなんて、もうないです」


それは悲しみでも寂しさでもない。

ただの事実だった。


観測者の視線が、溝口へと向く。


— そして、貴様は。


— 未完。


— 中途。


— 形だけ戻ったもの。


溝口は息を固めた。


「……俺は、俺だ」


観測者は形なき笑いを浮かべたように揺れた。


— 言葉は、まだ残っていたか。


凛が刀の柄を握る。

それは戦うためではない。

覚悟を示すため。


彼女は観測者に向けて言う。


「道を開けてください。それとも…」


観測者は静かに応じる。


— 行く先は、君が捨てた場所。


— 戻るのではなく、見届けるため。


そして、空間の奥が音もなく割れた。


そこに現れたのは——


梯子でも階段でもない。

ただ、底へと続く“落下”。


凛は迷わず進む。


溝口も、わずかな遅れでその後に続く。


観測者は最後に、呟いた。


— 極めて、興味深い。



第28章 落下廊(ラダー)


足元の世界が、静かに 失われた。


踏み出したはずの地面は存在しなかった。

重力だけが確かで、二人の身体は 音もなく落ちていく。


落下と呼ぶには、あまりに静かだった。

風はない。

体が引かれる感覚もない。

ただ、世界そのものに 溶けて沈んでいくような落ちていき方。


溝口は思わず手を伸ばし、凛の手首を掴んだ。

凛もわずかに指を返す。

互いに声を出さなくても、繋がったものがあった。


そして——


地面は突然現れた。

衝撃はない。

ただ「着地した」という事実だけが生まれた。


遺された痕跡

落下廊の底は、廃れた回廊だった。


壁には打ち捨てられた灯りの跡。

床には砂と金属片と、削られた何かの痕。

風は吹かないのに、埃がわずかに揺れている。


その中に——


布があった。


黒い外套。

ところどころ裂け、灰色の砂に沈んでいる。


溝口が小さく息を飲んだ。


凛は近づき、しゃがみこんだ。

指先で、その端をそっと摘まむ。

外套は軽い。

しかし、その軽さの中に 何層もの祈りと重みが沈んでいた。


凛の胸に、何かが響いた。

思い出ではない。

記憶でもない。

けれど、

確かに「ここにいた」誰かの温度だけが、

指先から伝わった。


凛のまつ毛がわずかに震える。


「……だれ……だっけ」


言葉はとても小さかった。

笑うような声でもなく、泣くような声でもなく。


ただ、探す声だった。

思い出そうとすると、

脳に白い靄がかかり、

その人の顔も、声も、存在の輪郭さえ形にならない。

けれど。

胸だけが、ぎゅう、と熱くなる。


「会いたい……気がする」


凛は、笑いながら言った。

その笑顔は、少しだけ苦しかった。


そのすぐ隣に、

一枚の 白い札 があった。


血でも泥でもない、

何者かの「記憶の名残」が滲んだ札。


凛は札を手に取る。

札は、凛の指に触れた瞬間、淡い温度を帯びた。

胸の奥で、声にならない声が、そっと揺れる。


——りん。


呼ばれた気がした。

優しく、見守るような声。

あのとき、背中に手を添えてくれた人の声。


誰だったか、どうして触れられたのか、

記憶は戻らない。

ただ胸だけが、痛いくらいに温かい。


凛は、小さく笑った。


溝口は、凛の横顔をそっと見つめる。

言葉はかけない。

かけてはいけないとわかっていた。


凛は立ち上がり、外套と札を抱える。


「先へ進みましょう」


声は穏やかで、まっすぐだった。


「会えるかどうかは、わからないけど。

でも……会いたいと思っている人はいるみたいだから」


その言葉に、執着はなかった。

ただ、願いだけがあった。

願いは、執着より強い。

奪われても、形がなくても、消えないから。


溝口はゆっくりと頷いた。


「よし。行こう」


二人は回廊の奥へと歩き始める。


その足音は無音のまま、

しかし確かに前へ進んでいった。



第29章 影を喰う層



回廊の奥へと続く道は、

いつの間にか 細い橋 へと変わっていた。


左右は底の見えない暗い谷。

足元には、古びた金属の板が不規則に敷かれている。


二人分のはずの足音に、

もうひとつだけ、かすかなリズムが混じっていた。


凛は振り返らない。

振り返ったら、いないと知っているから。

けれど——たしかに並んで歩いた感覚だけは残っている。


「……いるんですよね、どこかに」


凛の言葉は空気の中に溶け、声にはならなかった。

溝口も言葉を飲み込んだまま、前を向いて歩く。

歩くたびに、影が揺れる。

光源はないのに、影だけが形を持つ。


その影は、床に落ちているのではなく——

壁に貼りついていた。

人影が、壁にだけ存在しているのだ。


動かない。

視線もない。

ただ、そこに「形だけが残されている」。


凛の胸がひとつ脈打つ。


「記憶を洗ったあとの“抜け殻”……?」


凛は言葉ではなく思考で伝える。

溝口にも意味は自然と届いた。


「記憶を落とした人は、そのぶん影が濃くなる。

全部落としちゃうと、こうなるんですよ」


凛は壁の影にそっと手を伸ばす。

影が、微かに、震えた。

溝口が思わず腕を伸ばす。


「凛——」


声に出す直前、凛は手を下ろした。

影も、動きを止める。


凛の指先には、冷たさも、温度も残っていなかった。

ただ、何かが“ここにあった”という空の感触だけ。


「私も、こうなりかけたんですよね。きっと」


淡々とした声。

痛みを感じていないような言い方。


だが、その胸の奥には——

確かに、温かい誰かの痕跡への渇望があった。


「……でも」


凛は歩みを再開する。


「それでも会いたいと思った人がいるってことは、

まだ私、全部は捨ててないんですよ」


その言葉は小さく、

けれど強かった。

溝口はその背に、静かに寄り添うように歩いた。


橋の終端


橋が途切れた先には、

黒い水面が広がっていた。

水ではない。

影が液体になったもの。

何かが沈んでいるような、蠢く暗さ。


そしてその中央に——


一人の人間が立っていた。

背は高く、身体は痩せている。

黒い外套ではなく、薄汚れ所々ボロになった衣をまとっていた。


顔は見えない。

髪は長く、肩で揺れ、足首まで垂れている。


ただ、その佇まいが示していた。

ここは、通すか通さないかを決める 門番の階層 だ。


凛は動きを止めた。


「……誰だろ」


懐かしい気配。

しかし記憶としては繋がらない。


溝口は小さく息を吸う。


門番は、ゆっくりと顔を上げた。

瞳は、ひどく、悲しい色だった。

その唇が、音を持たない言葉を形づくる。


— 凛


凛の心臓が、一度、強く跳ねた。


声は出せない。

だけど、その呼びかけには、

痛いくらいの 優しさ と 喪失 があった。


凛は、覚えていない。


けれど——

その想いだけは、はっきりしていた。


「……あなた……」


声に出さず、唇が動く。

門番の影が、わずかに揺れた。


そして、


影の水面が波打つ。


“影喰らい” が目を覚ました。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。