8.仕事のための結婚
ミュリア側の話
ミュリア・ホーデンリットは、学園では誰もが認める秀才だと言われていた。
もちろんミュリアの努力の賜物だが、きちんと結果に出るのだから素晴らしい。
ところが、どうしても苦手なことがあった。
それは方向感覚がほぼ皆無なのだ。
ホーデンリット子爵領は鉱山が主な産業だが、次いで農業も盛んである、
きちんと升目に整備された農地には番号が割り振られ、畑の北西の角にその番号が書かれた木札が立てられていた。
そのため、◯番の農地の看板を右、次は二つ目の◯番の農地の看板を左、などと覚えて歩いたため、多少迷子になっても邸にはたどり着いた。(と本人は思っているが、護衛がそれとなく誘導していた)
もっとも、そんな覚え方をしたため、方向音痴が直らなかったのかもしれない。
ミュリアは、学園を卒業する前に受けるはずだった文官試験に、道を間違えて違う場所に行ってしまったのだ。
ここは警備塔だと言われても、教師に教えられた通りに歩いてきたはずだから、ここで合っているはずだと思い込んだミュリアに、優しくしてくれたのはヘンドリクス・オベルという騎士だった。
ミュリアは、その名前だけは聞いたことがあった。
二年前にデビュタントを恙無く終えたミュリアだが、直後の学園ではヘンドリクス・オベルという騎士の名前が女子生徒の中で囁かれていたからだ。
曰く、警備を担当していた騎士の中に、とても素敵な殿方がいらした。ヘンドリクス・オベル伯爵令息という方らしい。婚約者もおらず、どんなに美しい女性から声をかけられても、まったく相手にしない氷の騎士だ、と。
ミュリアはデビュタント以降は社交の場にはほとんど出なかったが、クラスメイトは、やれお茶会だ今夜は舞踏会だ、と社交に精を出していて、その度にヘンドリクスの噂話は変貌していった。
最初は見目麗しい素敵な騎士様、と崇拝に近い形だったが、あまりにも女性に対して素っ気ないため、恋愛の対象が男性なのではないか、という方向へと変わっていったのだ。
ミュリアは結婚しないで文官として働き、給与のいくらかを実家に仕送りするつもりだったため、見目麗しい素敵な騎士様には興味なかったし、その騎士様の恋愛対象など覚える必要のないことだと、右から左に流していた。
その噂の騎士様が、文官試験を受けられなかったミュリアに、『契約結婚』を提案してきたから非常に驚いた。
一通りの話を聞いた後、ああ、この人も結婚するつもりはなかったが、周りがうるさいからカモフラージュとして自分を妻(書類上)としたいのか、と思ったミュリアは、それならそれで良いかと了承した。
なぜなら、ヘンドリクスの出した契約の対価がとても魅力的だったからだ。
オベル伯爵家の書類仕事をし、報酬も貰える。衣食住はオベル伯爵家もち。ということは、報酬のほとんどをホーデンリット子爵家に送っても生活できるということだ。
ミュリアは美味しい話に食いついたが、まさか契約直後に婚姻届まで提出することになるとは思っていなかった。
しかし、ミュリアの両親は突然の結婚にもかかわらず大変喜んでいて、この期に及んで契約結婚だと説明できない、と頭を悩ませた。
それにもう一つ悩みはあった。
ヘンドリクスが本当に恋愛対象を男性としていた場合、いつかミュリアはその恋人を紹介され、オベル伯爵家を追い出されてしまうのではないか、という不安だ。
恋人が書類仕事に秀でた人なら、わざわざミュリアをそばに置く必要はない。身分が釣り合わないなら、従者としてそばに置けば良いのだ。
一度結婚しているのだから、『もう結婚など懲り懲りだ』と吹聴して回れば、離縁後に縁を結ぼうとする人の数はかなり減るだろう。
ミュリアには悪い噂がついて回るかもしれないが、離縁後は平民となって一人でのんびり生活できれば良いと思っているので、そのあたりは問題ないと思っている。
しかし、できればこの三年間という結婚生活の間は、途中で契約を切られることなく穏便に任期を終えたかった。
それはやはり、報酬のほとんどをホーデンリット子爵家に仕送りしても、ミュリアの生活には全く不自由がなかったというのが大きい。
男性の恋人を持つ伯爵、という社交界での醜聞を隠すための口止め料も入っているのだろう。しかし、それを鑑みても多いと言える報酬。それの大部分を仕送りできるのだ。
三年間あればかなりの貯蓄ができ、うまくいけば飢饉がおきても何とかなりそうだ。だから任期はまっとうしたい。追い出されるのは困る。
だからミュリアは、いつ恋人を紹介されるのかヒヤヒヤしながら生活していた。
しかし学園を卒業し、寮を出たミュリアがオベル伯爵家で生活するようになっても、ヘンドリクスが恋人と会っている様子は見られなかった。
騎士なので夜番はあるが、その夜番は十日に一度程度。
そして他の日は毎日夕食前には必ず帰宅しているし、休みの日にはオベル伯爵家で書類仕事を片付けるのみで外出する気配もない。
客観的に見ると、まるでミュリアがヘンドリクスから溺愛されているかのような毎日。
いったい、恋人とはいつ会っているのだろうか。もしかすると今は恋人がいないだけなのだろうか、などと考えていたが、一年経っても生活パターンは変わらなかった。
ああ、ヘンドリクス様は本当に結婚したくなかっただけなのね、とミュリアが理解したのは結婚して一年目の記念日。
その日ヘンドリクスは休みで、ミュリアと観劇の後夕食を食べた二人は夜遅くに帰宅したのだが、帰りの馬車の中で、『こうして平和な毎日を過ごすことができるのは、全てミュリアのおかげだ。ミュリアと結婚できて良かった。ありがとう』と、真顔で礼を言われた。
その瞬間、綿の塊が胸を強く打ち付けたような衝撃を、ミュリアは感じた。
オベル伯爵家の領地経営に関する話し合いのため、顔を合わせることは何度もあったが、初めて顔を合わせたかのようにミュリアはヘンドリクスの顔に見入ったまま、言葉を発することもできない。
サラサラと柔らかそうな金の髪は宵闇の中でも煌めいて見え、ブルーの瞳は透明感のある湖を高台から見ている気持ちにさせる。
鼻の高さも形も美術館に飾られている彫刻のように整っていて、少しだけ薄めの唇から紡ぎ出される言葉は、体全体を巡っていく。
ミュリアはハッと気がついた。
まずい。このままではヘンドリクスを特別な意味で好きになってしまう、と。
これでは三年の契約期間が終わっても、このオベル伯爵家から出られなくなってしまう。
その時に、『契約期間は終わったから、さっさと出ていけ』と冷たく言われたら、泣いてしまいそうだ。想像しただけでも鼻の奥がツンとしてくる。
もうこれ以上好きにならないようにしなくちゃ。
ミュリアはその時にはそう決意したが、既に恋に落ちてしまったミュリアのヘンドリクスを思う気持ちは、少しずつ少しずつ膨れ上がってしまった。
だから契約期間が終了する直前、ミュリアから執事のハンスにお願いして離縁届と白い結婚の証明書類を用意してもらった。
自分から気持ちにケリをつけ、邸から去るのだ。
出て行けと言われる前に出て行こう、そう考え、ヘンドリクスの執務室で二人はしっかりサインを済ませた。
最後に最近産まれた子猫を見に行こう。
そう考え庭に出たが、そこで出会ったミイがミュリアに幸せを連れてくるなんて想像していなかった。
ヘンドリクスからの熱烈な愛の言葉を許容量を超えるほど浴びせられたミュリアは、話の途中で自分もヘンドリクスを好きだと伝えたかった。しかし言葉がうまく出てこなかったため、ヘンドリクスを必要以上に頑張らせてしまった気がしている。
申し訳ないという気持ちは大きいが、確実に全身真っ赤になっている自分を見られるのは恥ずかしい。
抱きしめられている間中、そんなことばかり考えていたが、初夜について言われたことで、もう自分が赤面していることなどどうでも良くなってしまった。
その後、初夜はきちんと(?)終えることができた。
翌日の夕食は、お祝いのようなご馳走が大量にが並んだ。
オベル伯爵家で働く者達の嬉しそうな顔を見たミュリアは面映ゆく、ひたすら目の前の料理を見つめて気持ちをごまかした。
プロポーズの日以降、ヘンドリクスは事ある毎にミュリアへ愛を伝えてくる。
そして三ヶ月後にはミュリアの妊娠が分かった。
オベル伯爵家内でのそれまでの事情を知らない貴族達は、ヘンドリクスがミュリアを愛していても、嫡子をもうけるために愛人を作るだろうと噂しあっていたが、ミュリアの妊娠が知れ渡ると、愛人を狙っていた下位貴族の令嬢達は揃って悔し涙を流した。
また、子ができないミュリアはいずれ離縁されるだろう、と思って特別枠での就職斡旋を狙っていた宰相は、城内でヘンドリクスに会う度に舌打ちをしたらしい。
が、どれもミュリアの耳に入ることはなく、翌年ヘンドリクスに瓜二つの美しい男の子を生み、その二年後にはミュリアによく似た男の子、さらにその三年後にはヘンドリクスによく似た女の子を出産した。
結婚二十年のお祝いの席で、つい二人の馴れ初めを話してしまったヘンドリクスは、しばらくの間娘から冷たくあしらわれることになったが、最初は契約結婚から始まったとは思えないほど仲の良い二人だったので、人生何がどう転ぶか分からない、と娘はため息を吐いて聞かなかったことにしてくれた。
ちなみにミイは女の子だったようで、ある日少しずつ大きくなるお腹に気がついたミュリアが、大慌てで獣医に診てもらった。
『この子猫は女の子だね、とメイドの一人に言った記憶はあるが、それが誰だったかまでは覚えていない』と笑う獣医に、ヘンドリクスもミュリアも脱力し何も言えなかった。
ミイの子供は一匹を残して皆貰われていった。
ミュリアはミイの子供達の飼い主をお茶会で探したが、ミイの時とは違い、あっさりと引き取り手が決まっていったのは、嬉しくもあり淋しくもあった。
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