1.白い結婚
よろしくお願いします
「つきましては、今回の契約結婚は任期満了につき、ヘンドリクス・オベル伯爵とミュリア・オベル伯爵夫人お二人了承のもと、円満に離縁ということで相違ございませんか?」
オベル伯爵家の執務室で、この家に長く勤める執事ハンスの声がやけに響く。
この家の主人であるヘンドリクスと、今まさに離縁手続きをしようというミュリアは揃って手に書類を持ち、その書面を見ながら頷いた。
「ああ、かまわない。慰謝料についてもこのように進めてくれ」
「お待ちください。これでは多すぎるような」
「いや、君の三年間という大切な時間をこの家につくしてもらったのだ。このくらいは受け取ってほしい」
「いえ、でも」
「受け取ってもらえなければこちらも困る」
「そうですか? では遠慮なくいただきます」
そうして二人はそれぞれの書面にサインし、それらをお互いに交換するとさらにその紙にもサインした。
「ではこちらの書類は明日、王城の戸籍管理室に白い結婚の証明書類とともに提出いたします」
「ああ。頼む」
「ハンスさん、お手数おかけしますがお願いします」
「いえ、わたくしは奥様に仕えることができ、幸せでございました」
「まあ」
嬉しそうに顔を綻ばせるミュリアを見て、ヘンドリクスはほんの少しだけ面白くなかった。
しかしこれは三年前、自分がミュリアに持ち掛けた『仕事』なのだ。
その契約終了日がやって来た今、任期満了と言われる寂しさを覚えながらも頷くしか無かった。
「ではヘンドリクス様、私は明日退去することにいたしますね。長らくありがとうございました」
「いや、待て」
そのままの流れで部屋を出ようとしたミュリアを、ヘンドリクスは慌てて呼び止める。
「君は明日からどうするつもりだ?」
「明日から、ですか? そうですね、今まで世間をあまり見ることができなかったので、旅行しながら見聞を広げようかと思っております。幸い、私一人ならずっと遊んでいけるほどのお金をいただきましたので」
ニコニコと笑うミュリアを見て、ヘンドリクスは、『いや待て待て』と慌てる。
「君は極度の方向音痴だろう? 一人で旅行するつもりか?」
「ええ、はい」
「それは非常に危険だ。王都内ならまだしも、一歩違う町に入ろうものなら確実に危険な目に遭う」
「あら、そうですか?」
「確実だ。なんならこの羽根ペンを賭けても良い」
二カ月前に新たに購入したその羽根ペンは確かに質が良く、羽根ペンとしてはお高めだったことを知っているミュリアだが、それを賭けられても自分には利がないと口をとがらせる。
「一人で旅行など危険だ」
「そうですか?」
「ああ。そもそもなぜホーデンリット子爵家に帰らない?」
「えっと、もうあの家は私の一つ年下の弟が爵位を継ぎまして、弟一家が守っております。そこに出戻りなど少々肩身が狭いと申しますか……それに、あの家には姪っ子が三人いますから、余計な出費をひかえる意味でも、戻るのは得策ではないと思いまして」
「ああ。そういえば三つ子が誕生したのだったな」
「はい。女ばかり三人ですので、将来のことを考えると、ですね」
「なるほど。そういえば君も三女だったな」
「はい。我が家は三人女が続いて、四人目にやっと男児が生まれるという星の下にあるようです」
「君の家は代々そうだったな」
「はい」
ニコニコと雑談を楽しんでいる雰囲気だが、ミュリアのこの先を考えるとヘンドリクスは頭が痛い。
ホーデンリット子爵家とは、ミュリアの実家だ。
男子のみが爵位を継げるこの国では、女児のみしか生まれなかった場合は婿養子をとるか親戚から養子をとるかの二択だ。
ホーデンリット子爵家はなぜか昔から、三人の女児が生まれた後男児が生まれてきたことから、今でも養子など考えることなく男児が生まれるのを待っているらしい。
領地経営は至って良好で、ミュリアが心配するほど苦労しているようには見えなかった。少なくとも納税の書面上では。
しかし、もしかするとホーデンリット子爵家内では質素倹約が常だったのかもしれない。
ならばミュリアが実家に戻ることを躊躇しても頷ける。
ミュリアの方向音痴を考えると、実家でおとなしく刺繍などしていてくれたら安心なのだが。
ヘンドリクスはそこまで考えて、これは離縁する自分のいうべき言葉ではないな、と考えを改めた。
「ならば一人、メイドを付けよう」
「メイドですか? しかしお給料を出すのは難しいかと」
「いや、これはこちらの都合だ。君も知っての通り、私は城内で騎士として働いているが、伯爵領の仕事もしなくてはならない。この三年、君がその伯爵領の仕事を手伝ってくれたから、とても助かっていた。しかし、常に考えていたことがあるのだよ。オベル伯爵領の発展についてだ」
「発展、ですか」
「ああ。私も他領を見て回り、見聞を広げたいところだが、今は王族の護衛をしているため王都から離れるわけにいかない。しかし、君が旅行で見聞を広げると言うのなら、メイドを一人付け、そのメイド経由で外の出来事を教えてもらえると助かる。要は、外で見たことを報告書として提出してもらい、その対価としてメイドの給金は我が家で出す。もちろん、君には仕事をしてもらうのだから、当然給金を出そう」
「いえいえ、それでは貰い過ぎなので、そこまでは結構です」
「では、メイドの分と必要な経費はこちらで出す。方向感覚に明るい者を付けるから、安心して見て回ってほしい」
「まあ、何から何までありがとうございます」
提案を受け入れたミュリアを見て、ヘンドリクスはホッとした。
おっとりとしたミュリアが一人で町を歩こうものなら、絶対に悪い男に騙され、物理的にも身包み剥がされ娼館にぶち込まれてしまう未来が想像できた。
そんなことのために白い結婚を続けていたのではない。
離縁前提で結婚したミュリアに、少しでも瑕疵がつかないようにとの気持ちであったのに、それを騙され、金で売るようなことをさせるわけにはいかない。
ありがとうございます、とにこやかに退室したミュリアの背中を見て、ヘンドリクスはおもむろに立ち上がると、たった今ミュリアが通った扉に近づく。
耳を澄ますと廊下から、『ああ、奥様、外は陽射しが強うございます。お帽子を』『もう奥様じゃないのよぉ』『そんな、奥様ぁ』と賑やかな声が聞こえてくる。
これも明日までか、とヘンドリクスは先ほどまで座っていた椅子に戻ると、乱暴に腰掛け天を仰いた。
思えばこの三年は早かった。
離縁という言葉に少し傷心めいた気持ちのヘンドリクスは、ミュリアと初めて出会った時のことを思い返していた。
次話はすぐに投稿します




