1話 少女、落巣の日
満月の光も差し込まない、光を一切感じさせない深い森。
その暗さは、どこか心臓に触れるような冷たさを感じさせる。
手入れの痕跡もなく、多種多様な植物が好き勝手に生い茂っている。人工物の痕跡はあれど、そのどれもが草木に覆われており、一見しただけでは存在さえも気が付かないだろう。何もかもが荒れ果てていた。
その奥深くに、先も見えない霧の壁がそびえていた。
壁の向こうから轟音と地響きが漏れ出し、周囲を震わせている。外からは見えないが、霧の中で岩が崩れるような何かが起きていることだけは伝わってきた。
突然、霧の中から小柄な少女が飛び出した。勢いも殺せぬままに地面をゴロゴロと転がる。
少女の名前はシャオ。霧の向こうに住んでいた人間だ。
「うぐぇ!」
衝撃で情けない声が漏れるが、これといった怪我も無い。周囲の地面にひとり分の跡をつけただけだった。
土や踏みつぶした草の汁に塗れた顔や手とは裏腹に、シャオの纏う白いアオザイは汚れを一切寄せ付けず、ほんのりと赤い艶を帯びながら、その美しさを保っていた。
上体を起こし、咳き込みながらも口の中に入った土を「ぺぺぺ」と吐き出す。
荒く息をしながらあたりを見回すその顔には、不安などみじんもなく、晴れやかなほどに澄み切った未知への期待があった。
しばらくすると目も慣れたのか、あたりに視線を巡らせる。ふと空を見上げれば、満月がそこにはあった。
「月の色が違う、他にも何が――」
深呼吸を繰り返し、後ろを振り返る。意を決したように立ち上がると、自身の頬を軽くたたいた。
「橋はもう、崩れちゃったんだから。……よし、戻れないなら、歩くのみ! いくぞー!」
【充電が完了しました。装着を確認。および、持ち主登録を完了しました】
一歩踏み出そうとすると、あたりに声が響いた。つんのめるように立ち止まり、バランスを保つようにわたわたと手を振る。
「うわっ!……ととと」
左の親指に嵌めていた指輪が突然光り、じんわりと暖かくなる。感触だけではなく、視覚的にも指に存在を感じる。それを眺めていると、突然音と共に空中に地図が現れた。
【データのダウンロードを開始します。……ネットワークに接続できませんでした。通信状況の良い場所に移動をしてください】
「うわあぁっ!」
それに驚いたシャオは飛び上がり、声の主を探そうと周囲を見渡すも自分以外は誰もいない。
「……え?誰!?」
【救難信号を受信しました】
再び声がした。落ち着こうと手を見ると、指輪の光は音声に合わせて波打つように揺れていることに気が付く。思いもよらない出来事に驚いたシャオは思わず叫ぶ。
「もしかして、君がしゃべってるの! ……えっと、こんばんは、かな。どうやって入ったの?」
【現在地から直線距離、およそ10.8km。救助要請を受諾しますか?】
どう見ても人が入れるはずのない指輪が話しかけてくる。言葉の意味は全部はわからないが、誰かが助けを求めているということだけは分かった。
「わあ……。これが外ってやつかぁ。ま、よくわかんないけどさ。助けを求めてるなら行くしかないよね。よし、案内してよ!」
【了解しました。ナビゲートを開始します】
外に憧れていたとはいえ、まさかこんなにも早くに外の洗礼を浴びることになるとは思いしなかった。
指輪が光り、空中に様々な絵が浮かび上がる。あまりにも面妖な光景に唖然とするが、触ってみても指先には何も伝わらない。なんとも不思議な光景だった。
「この指輪ってやっぱり外の物だったんだね。手帳も虫食いが酷くなかったらもっと色々読めたのに」
シャオの目は光がこんなにもあるというのに、まったく眩んでいなかった。暗闇に目が慣れたまま、周囲の植物もくっきりと認識できている。
そのことに気が付く間も無く、次々と指示が浮かび上がる。暗闇の中に映し出された絵の通りに草をかき分け、倒木を乗り越え、岩を登る。
歩き続けて時間の感覚も曖昧になってきた頃、そこに一本の巨木が現れた。
見上げるほど大きく、幹は古い傷だらけだ。それでも力強く、揺ぎ無く立っている。月の光が木漏れ日のように差し込み、まるで一枚の絵画のようだった。
もっと近くで見ようとすると、その根元には人がいることに気が付く。笠を被っており、顔は見えない。大柄な体格からして男性だろう。全身に黒い衣服を纏っているのか暗闇になじんでおり、危うく見逃すところだった。
巨木の影に座り込んでいるにもかかわらず、くっきりと見えるのは、彼が助けを求めていた本人だからだろうか。気が付けば周辺からは矢印などの表示が一切消えていた。
遠目でもっと様子を確認すると、呼吸のような動きさえもなく、人間というよりまるで置物のようだった。間に合わなかったのだろうか。
……いや、違う。腕が、足が、人ではない。
かつて一瞬だけ外の世界を見たという、父の言葉が脳裏をよぎる。
『人の形にそっくりだけど』『全然違う化け物』
すぐにその場でしゃがみ込み、身を隠す。汗が出てきて、声が漏れ出ないように口の端をぎゅっと締めた。
彼と自身との間にはまだ十分な距離がある。幸い、彼はシャオには気が付いていない。今なら見なかったことにできる。
体が強張っていくのを誤魔化すように握りこんでいた手をゆっくりと開き、反対に足には力を込めていく。
もし、彼が化け物だったら――。
勢いよく立ち上がると、シャオは一歩、迷いを振り切るように前に出た。




