1話 楽園の春
一人の少女が微かな振動に起こされるように目を覚ました。と同時に、机の上で空の花瓶が倒れた。
それに押された小箱が勢いよく落ち、角から少女の頭を直撃すると、そのまま弾みで布団の上に落ちて蓋が開き、中身がバラバラと散らばった。
「っ〜! いったたた……。今の、地震?」
頭を押さえながら体を起こし、目の前の惨状に顔をしかめる。眺めていても勝手に片付くわけもなく、ため息をつくと仕方がなさそうに一つずつ拾って小箱に戻し始めた。
その中の一つ、指輪を手った瞬間、目が輝いた。
嬉しそうに笑いながら、落ちなくなるまで親指の根元にねじ込む。
しっかりはまっていることを確認すると、今度は突き上げ窓を開けて外へ顔を出した。
空は白み始めていたが、太陽が顔を覗かせるにはまだ早すぎる時間だ。
村は提灯と花で彩られ、風が吹くたびに軒先につるされた赤や黄色の飾りがゆらゆらと揺れていた。
その様子を目で追っていると、どこからか漂ってきた料理の香りが胃袋を刺激した。思わず、その香りを追いかけるように深く息を吸いこむ。
今日は一年で最初のお祭りの日だ。
伸びをして強張った体をほぐし、机の上に準備していた年に一度の晴れ着に袖を通す。
シンプルなデザインのアオザイだが、白地なのに赤く艶めく綺麗な生地は一目で少女の心を掴んだ。
着替えた後に引き出しから古びた手帳を取り出し、胸を騒めかせるその中身にしばらくの間思いをはせていたが、我に返るとすぐに戻して身支度の続きをする。
最後にくるりと回って裾を翻し着こなしを確認すると、その勢いのままに部屋から飛び出していく。
祖母はそのころ、お祭りの食事を包んでいるところだった。
「おばあちゃん、おはよう! 見て、私の衣装綺麗でしょ!」
支度を終えた少女――シャオが衣装の裾を翻し見せるのを、祖母は呆れたように眺める。
「おはよう、シャオ。どんな汚れも弾くからって朝食前に着るのはおよし。その衣装は楽園に伝わる、それこそ私が生まれる前から……」
先日受けっとって以降、何度も広げて見せられるものだから、祖母うんざりしたように眉をひそめていた。
そんな彼女の小言は欠片も響くことなく、少女は様々なポーズを決めている。
話を聞く様子の無いシャオにため息をつくと、祖母はお使いを頼むことにした。
「そうだ、シャオ。この粽をリエンのところに持って行っておくれ。くれぐれも道草をせずにまっすぐに行く事。いいね?」
「わかった!赤ずきんちゃんみたいにお花も摘まなきゃだね!」
シャオは、ちょっとでも遊んでいい理由をひねり出すためにお花を摘むことを提案するが、祖母にはあっさりと見透かされ、軽くあしらわれてしまう。
「何を言ってるのさ、お隣さんとの間には森どころか川もないだろう。出るのは精々、トカゲか虫ぐらいだよ。渡す時に粗相のないようにね」
所詮十歳。企みをするにしても、まだ子どもだった。
「……はぁーい」
せめてもの抵抗として覇気のない返事をしつつ、お隣のお家へと粽を乗せた籠を抱えてお使いに出かけて行ったのであった。
祖母の言うとおり、道草をするほどの距離もない隣のおうちに訪問する。
籠へどっさり山盛りに乗った粽は布で厳重に覆われているが布では遮ることのできない匂いがシャオの鼻を絶え間なくくすぐる。
くっとこらえて籠を掴む指に力を込め必死になって誘惑を跳ね除けているうちに、家から徒歩三十秒のリエンさんの家に到着した。
お隣さんも料理中のようで、窓から蒸気がふわりと漂う。香草の香りがおいしそうだ。
そのまま匂いを嗅いでいたいが、抱えている粽が冷める前にと、籠を頭の上に乗せ直して戸を軽く叩く。
「おはようございます! お隣のシャオです! おばあちゃんから粽をどうぞって!」
シャオの元気な声が響き渡る。少し待つと、戸が少しだけ持ち上がるような動きをした後、削れるような音を立てて開いた。
「あら、シャオちゃんおはよう! こんな朝早くからナーナーさんのお手伝い? 偉いわ〜! うちの息子にも見習ってほしいんだから。あの子まだ寝てるのよぉ」
お茶目な動作で怒ってますよ、と言わんばかりに面白おかしく話す女性は友達のお母さんである。
名前はリエン。祖母と二人暮らしのシャオを心配して、面倒をよく見てくれている人だ。
「さっき地震があったでしょ? 早く目が覚めちゃったの」
「地震? それは太鼓の振動よ。試し打ちみたいな事していたもの。でも揺れるほど大きくは無かったわ。シャオちゃんたら夢の中でびっくりしちゃったのね」
決してあれは太鼓の音などではない。確かに揺れていた。
シャオの言葉を軽く流すリエンにそう思うも、特に主張することでは無いのでそのまま籠を渡す。
リエンは受け取った籠の布を捲ると想像よりも粽の量が多いことに目を丸くし、嬉しそうに顔をほころばせる。
「まあ、こんなにたくさん! ありがとう、ナーナーさんにもお礼を伝えて頂戴な! あ、そうだわ。私からもナーナーさんに渡したい物があるのよ。今ちょうど出来立てなの!」
そう言って一度奥に引っ込み、戻ってくるとシャオが持ってきていた籠を抱えていた。
ただし粽の代わりに山盛りの揚げ春巻きと、丸ごとゆでられた鶏が乗っていた。そしてちょこんと卵が1個。
「わあ! たまごだ!」
シャオは数々の御馳走よりも卵を見て目を輝かせている。
リエンがお返しの料理以外に、おまけとして一個つけてくれたのだ。
「リエンさん、ありがとう!」
「いいのよ。こんな立派な粽をたくさんくださったんだもの、そのお礼よ。持ってきてくれたシャオちゃんにもね。卵はもう茹でてあるから、すぐに食べられるわ」
シャオは手を振り卵をポケットに入れる。家にニコニコで帰ると、祖母が朝食の準備をしていた。
「ただいま、おばあちゃん。こんなに沢山もらっちゃった! あと、リエンさんがありがとうって」
シャオは抱えていた籠を机の上に置くと、そこそこの重さがあったのか、ドン、とテーブルが震えた。
「お帰り、シャオ。お返しの品をいただいたのかい? 美味しそうだ。これも何個か朝ごはんにしようね」
祖母は籠の中身をいくつか箸でつまみ、別の皿に移し始める。机にはすでに食器が並んでおり、粽が数個ずつ載っている。
シャオはすぐに食卓に着くとお腹いっぱいに食べて、今日のお祭りに備えるのであった。
食後、満足そうにお茶を飲んでいると、外から呼び声が響いてきた。
「シャオ! おはよう! まだ居るかー?」
そういいながら入ってきたのは友達のバオだった。リエンさんはまだ寝ていると言っていたが、シャオが家に帰った後に起きたのだろう。
彼もお祭りの衣装を着ており、濃い青色の生地に豪奢な竜の刺繍が泳ぐように縫われている。
「おはよー。どうしたの?」
追加でお茶を淹れているシャオに、バオは呆れたように半目になった。
「どうしたもこうしたもねーよ。みんなで踊りの発表するだろ? 打合せだよ。あと集会所に続々と菓子が運ばれてる。多分配るぜ、あれは」
シャオは目を見開きすぐに覚悟を決めたようにキリッと格好つける。流れるように壁に掛けてあった帽子を手に持つと、すぐに外へ飛び出していった。
「何してるのさバオ! 早くいかないとお菓子がなくなるよ!」
「お前飯のことに関しては本当に早いよな」
呆れたように首を左右に振るとバオもすぐに外に出る。二人は揃って全力で駆けだした。
すると道行く村人に声を掛けられる。
「今日は走るなよ。祭りの朝から怪我したら目も当てられねえからな」
二人はすぐに歩き出した。
集会所へ向かう道すがら、二人は賑わう露店通りに差し掛かった。シャオの家の周辺だけでなく、ここも飾り付けがなされている。
時折、地面に落ちている金柑を蹴って遊ぶ子供もいた。
「あー! やっぱお祭り最高! ご飯は美味しいし、お菓子もおいしいし、お茶も香りが最高だし!」
「飯だけかよ」
露店通りを抜けた道中の鶏小屋に差し掛かったとき、小屋の奥から激しい羽音が響いていることに気が付く。
中の鶏が暴れ、甲高い声で叫んでいた。壁へ体当たりするたびに大きな音が鳴り、小屋の外にまで羽が舞散っていた。
「あ、闘鶏の選手だ。昨日までは普通だったのに、あんなにすげーの初めて見た。敵を前にした戦士って感じだな。」
「ヨンさんのとこの鶏は毎年優勝候補だからね。今年は特に迫力がすごいよ」
バオは目を輝かせて鶏小屋を眺める。しかしシャオは小屋から、正確には鶏から目をそらす。卵は好きだが鶏は襲ってくるので、どうにも苦手意識があった。
それに加え、どこか暴れ方に鬼気迫るようなものが見えて、嫌な感じがした。
そうやって村を見ながら歩いていると、今度は書店通りに着いた。食べ物屋が無く本屋ばかりのこの通りは、シャオには縁のない場所だ。
見慣れない村の外の人間が多く行き交って賑わいを見せているが、店のほとんどは準備中だった。
その中を歩いていると、道の向かい側から小綺麗な服の男が二人に声をかけた。
「ねえ、君達はここの村の子だよね?」
どこか退屈そうなその男は村では見ない眼鏡を掛けている。
街のような栄えている場所から来たのだろう。今の時期このような人は珍しくない。
「こんにちは。そうだよ、おじさんは?」
そうシャオが返事をすると何か引っかかったのか、眉をしかめる。
「おじさんって……まあいいけど。僕は街で学者をしていてね、本を読みに来たんだ。図書館に並べる写本も買いにね」
身長差ゆえに仕方のないこととはいえ、どこか見下すような雰囲気の男である。
「……ところで、〈地震〉って何かわかるかな?」
そんなの誰もが知っている。二人は確認するように顔を見合わせて学者に返答をした。
「二年前のあれだよね? すごく揺れたやつ」
それが気に食わなかったのか学者は目を細める。
「さすが大図書館の村の子どもだ、よく知っているね。まあこんな田舎じゃ知ってる止まりなのだろうけど。本が勿体ないよ」
「はあ? こんなに朝早くからプラプラ歩きやがって。店も開いてねーぞ。さてはオッサン暇だな」
バオの発言に学者は口元を引きつらせるが、咳払いして誤魔化す。
「……本は、街で管理したほうが正しく活用される。君たちも管理から解放されたら楽になるだろう?」
彼は言い聞かせるように語りかける。だが、シャオとバオにはかけらも響かなかった。
書物を買いに各地から多くの人が来村するので、楽園の図書館の状況は色々と耳に入りやすいのだ。
「村以外の図書館は建物どころか、本もみーんなダメになったって聞いたぜ? その地震ってやつでよ」
「だから写本を買いに来たんでしょ?」
私たちが書いています、と墨のしみ込んだ手を開いてアピールしたが、男は面倒そうにため息をついた。
「あまり来たくないんだよ。こんな所。楽園の端はどこも空の色が不気味で、まるでくすんだターコイズだ」
シャオは空を見上げる。雲がちらほら漂う空はいつも通り綺麗なエメラルドブルーだ。
本に描いてある空とは違う色だが、昔から変わらないこの空がシャオにとっての空色だった。
「それにね。楽園の中で端にある村はいくつもあるとはいえ、外界との橋が架かっているのはここだけなんだ。いっそ村ごと引っ越したほうが安全だ」
男は忠告するように語る。シャオはその言葉に慣れはしても、理解することだけはどうしてもできなかった。
「外界は危険って、それならそこに何があるの?」
「想像もつかないような恐ろしいものがたくさんあるんだよ。事実として、一度出た人間は誰一人として戻ってきていないだろう? それは君たちのほうが良く知っているはずさ」
そこまで言って二人の緊張した顔つきを見て満足したのか、両腕を上げて伸びをした。
「気分転換もできたし、ここらへんでお暇するよ。君達、大きくなったら街においで。博物館で一度実物を見て学ぶといい。こんな限界集落、先もないからね」
「とっととお暇しろや! クソヤロー!」
学者のあまりの言葉にバオは思わずといったように罵倒するが、学者はひらひらと手を振って人ごみの中へ消えていった。
シャオは去っていく男にアッカンベーして、鼻を鳴らす。
「ふんだ! みんな知りたがりを自称してるくせに、外は怖いってことしか言わないじゃん」
バオはシャオの様子を見て何かに気が付くと顔をこわばらせ、引き留めるかのように彼女の手首を掴んだ。
「お、おい待てよシャオ。お前、まさか」
「そうだよー。本でしか知らないから、見たいんですう。……見たい場所が世界の外ってだけだよ」
シャオはむすっとした顔のまま歩き出す。その前に一度、村のはずれの方を見た。
「……まじでやめてくれよ。お前のとーちゃん、やばいの見たんだろ」
バオがどこか息苦しそうにつぶやく。
「私は見てないよ」
シャオは橋のほうを見つめていた。正確にはその先にある霧の向こう。外の世界を。




