「稲の波」について
新作童話公開しました。
稲の波
https://ncode.syosetu.com/n6971mx/
物語的にはかなりシンプルです。
というか、「物語」というほどの物語性でもない…かな?
なぜそうなったか……言わぬが花の気もしますが、まあ、某所で「後日」とかいってしまったので、一応、だらだらと書いてみます。
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アリソン・アトリーが好きです。
ファンタジーも、動物ものも、以前「写経」した創作昔話的なものも、すべて、よいのですが……個人的イチオシは『農場にくらして』。
基本、リアリズムなのに、<ものたち>と交感するスーザンの感性のためか、ふしぎと幻想的な詩情みたようなものを感じます。
ほかにも、アトリーには「農場もの」とでもいいたい作品が、ジャンル問わずいくつもあります。
『麦の子 ジョン・バーリコーン』はもちろんですし、動物童話の体裁ですが『むぎばたけ』もそうでしょう。
時間旅行という観点から語られがちな『時の旅人』だって、「農場もの」の性格は濃厚というか、むしろそちらのほうが本質とみることもできるくらいかもしれません。
『グレイ・ラビット』だって、野菜そだててましたよね……?
アリソン・アトリーの場合、英国ですから、酪農を別にすると、農耕の主役は、わりと麦とかになるわけですが……
ああいう世界を、もしも日本におきかえるとしたら、やっぱりコメかなあ、書いてみたいなあ……などと、日ごろから、思ったりしないでもありませんでした。
もっとも、家庭菜園のまねごとくらいはしたことがあるものの、稲作については経験どころかたいした知識もないので、二の足三の足でしたが。
ただ、そんなことを思ううち、あるとき、ふと思いだした風景が、あったりはしたのでした。
それこそ、ン十年もまえですが……。
バイト帰りの夜道で、田んぼのよこを通りました。
街灯があったのでさほど暗くはなかったですが、大きな月が出て、夏の大三角だか何だか知りませんが、見おぼえのある星のならびなんかもみえて――
そのしたで風にそよいでいる、夏のまだ青い稲の波が、やたらときれいで、しばらく見とれていたことがあったのでした。
それだけといえば、ほんとうにそれだけの記憶ですが……
ただ、そうした稲の波うつ光景に、ある種の情趣、情感、興趣を感じるというのは、なにも、当方だけにかぎった特殊性癖ではないらしく、古典和歌の世界にも、
>風渡る山田の庵をもる月や穂波に結ぶ氷なるらん(前太政大臣)
>うちなびく田の面の穂波ほのぼのと露吹きたてて渡る秋風(二条為定)
などという歌は、あったりなかったりするそうで……この「穂波」なんて単語は、れっきとした歌語にまでなっているようなのですね。
つまるところが、今回、描きたかったのは、「物語」というより、こうした光景であり、情景であり、風景であって……もっというなら、それこそ「うた」だったのかもしれません。
ふくざつな筋立てでもない、さかしらなテーマでもない、たんにきれいなものを「きれいやなー」といってみたいという、ただそれだけ。
それは、まあ、童話ですから、行って・やって・帰ってくる――最低限の構造くらいはしかたもありませんが、それ以外は……
いやもう、ほんとに、たいしたことはおこらないというか、本気でただただ月夜の田んぼを見にいくだけというか、物語の「おもしろさ」ではなく、ひたすら光景の「うつくしさ」だけを、書きたかったのでした。
それこそ、アトリーの『むぎばたけ』のように……。
ですから、作中の出来事をとおして主人公が「成長しました」みたいな、セコイ「物語」はむしろ、いっそ、できるだけ排除しようと思いました。
そりゃあ、さいしょは、ね……「物語」的な首尾結構も考えないではなかったでしたよ?
たとえば、住宅地ですから、実は「ぼく」はひっこし&転校直後で、あたらしい学校になじめずにいたのが、この件をきっかけに~とか。
ハッと夢からさめるとほこらのまえで、なにやってるとクラスメイトに声をかけられて、「いや実は~」で会話がはじまる……とか。
あるいは、また、さらにン十年後にはそのほこらさえなくなって云々とか、夢からもってきたあの稲穂を種もみに~とか、エピローグ的な展開だって思いついたりもしたのですが。
ぜんぶ、まとめて、やっぱり「やーめた」というかナントイウカ。
上記のように最低限の物語構造は仕方もないですが、それ以外は――
とにかく、ほんとうに、夜の田んぼを見にいくだけ。
きれいなものを、きれいやなー、と、ただ見るだけ。
可能なかぎり、それ"だけ"に、したかったようなのです。
なぜ、と、きかれても、困りますが……
そうですねえ……
「物語」が「おもしろい」というのは、たとえていうなら、山あり谷あり、ハランバンジョー、遊園地のアトラクションのいたれりつくせりオモテナシ、みたいなもので。それはそれでいいですが……
一方には、たとえば、なんにもない原っぱで、きれいな花をみつけたり、かわった虫をみかけたり……
いやさ、変わっていなくてもいい。何の変哲もないアリンコがせっせと餌をはこんでいるだけだとか、そういうのでも、しかし思わず観察してみたり……
青空にぽっかりうかぶ雲が、なんで落ちてこないんだろうといまさら急にふしぎになってみたり……
夕焼けがただただきれいだったり……
そういうことに、気づく、見つける。そしてついつい見入ってしまう。
そういうたのしみだってあるのではないか。
それを、例の「センス・オブ・ワンダー」とでもいえばいいのか、あるいはいわゆるひとつの罵倒語としてのポエム、ポエマーとでもいえばいいのか……わかりませんが。
エンタメのオモテナシとはまたちがう、そうしたササヤカな経験もまた、幼ごころにとってみては、なかなか捨てたものではないのではないか――などとは、思ったりもするのです。
――――(引用ここから)――――
たとへば秋の夕暮の空のけしきは、色もなく声もなし。いづくにいかなる故あるべしともおぼえねど、すずろに涙こぼるるがごとし。これを心なき列の者は、さらにいみじと思はず。
(鴨長明『無明抄』より)
――――(引用ここまで)――――
もちろん、そんなポエミーな感性みたようなもの、ジンセイに必須ではないかもしれませんし、むしろ、もっていないほうが社会的にはオイシイ思いをしやすいかもしれません。
というか、そもそも、そんなポエムみたいなもの、当方ごときに書けるわけもなく。無理して書いたところで、どーせヒトリヨガリのイミフのタイクツにしかならないのでしょうけれど(笑
しかし、まあ、それならそれでいーや、目のある者だけ読むがよい――と書いてみたのが、つまり今回の作品だったりしたわけです。
稲の波
https://ncode.syosetu.com/n6971mx/
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ところが、ですね……。
そうしてひらきなおって書いているうちに、あれ、これ、何かに似ているなァ、と、思うようになりまして……。
考え考え、あるときふいに気づいたのが――
「あ、世阿弥」
――でした(笑
なにしろ、今回、ナゾのほこらをおがんでいたら、地元のご老体があらわれて、ほこらの由来をかたってくれたかと思いきや、「ではまた今夜」とかき消すように失せにけり。
その夜、ふたたびあらわれて、ゆめまぼろしを現出させる――というのですから、おいおい、これって、複式夢幻能形式ってやつではないですか???
なるほど諸国一見の僧とは異界の住人を招ぎよせるシャーマンであり、名所旧跡とはすなわち「アリスのうさぎ穴」だったのですね、というか、まあ、ナントイウカ……
ちょっとあまりに謡曲そのまんまで、われながらビックリしたわけです(笑
しかし、じっさい、いわれてみれば、能・謡曲こそ、演劇よりもはるかに歌舞音曲寄りのものではあって……目ざすところは、まさに、物語の「オモシロイ」より、モノはモノでもモノノアハレ。あるいは、ユウゲンウシンだったりするわけでしょう。
「物語」はどこまでも前ふり的に――アイなどほぼ一方通行の朗読的な長台詞で――片付けてしまって、肝心なのは、後シテの舞いに、いかにスムーズになだれこむかという……
全曲とおしていちばんの見どころは、物語の筋立て・ハランバンジョーにではなく、シテの謡や舞で表現されるある種の「情趣」「情感」にこそあるのだ、と……
そういう世界ではなかったでしょうか。
――――(引用ここから)――――
ただ、言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを、承けたる達人とは申すべきか。
(世阿弥『風姿花伝』より)
――――(引用ここまで)――――
それはつまり、上でつらつらおもんみた、当方のもくろみ――おもしろおかしいハランバンジョーではなく、ひたすら「きれいやなー」というただそれだけ――そのままなのではないかと、我田引水余念なく、コジツケてみたくなったりもしたわけです。
散文的な語りはあくまで前ふり・前口上、主役は歌舞音曲の情趣であって、つまりは和歌とその詞書みたいなもの。
そういえば日本には歌物語などというのもあって、あれなどは、それこそほんとうに詞書から発展したものだとか。
「物語」に毒された現代のわれわれは主客転倒しがちかもしれませんが、つまりは、ほんらい、「物語」はあくまで「うた」の背景、という……
歌物語にせよ謡曲にせよ、あるいはその他いろいろ「物語」形式の文芸作品というものの――すべてではないにしても――いくぶんかは、あるいは、もしや本来的に、そうした「うた」との関係性を秘めているのかもしれません……?
――――(引用ここから)――――
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
(『古今和歌集』仮名序より)
――――(引用ここまで)――――
ならばわれわれの書くべき「物語」もまた、実は最終的には「うた」に結実していくべきものではないか。散文の物語がさいごに帰着するところは、実に「うた」なのではないか……などと、妄想などしてみたくなったりさえしたわけです。
それでできあがった作品が、どうなのかという話ですが(汗
まあ、目のある者は以下同文、耳のある者は以下略てふところですかね……。




