曇りなき眼
前回書いたキム・ハドソンの「ヴァージン」の類型。
ほかにも当てはまる作品がないか、としばらく考えてみたところ……
小説ではありませんが、ひとつ、有名なのを思いつきました。
『もののけ姫』です。
あの映画のベースイメージのひとつになっているようにも思われる、宮崎駿監督が若いころに書いた『シュナの旅』は、村を旅立って・麦を手に入れて・村に帰る、途中の経過はいろいろありますが、大枠について言えば、シンプルに「行って」「やって」「帰ってくる」物語であり、つまりヒーローズジャーニーでした。
某氏に「エスコートヒーローものしか撮れない」といわれたとかいわれなかったとかいう都市伝説もある監督だけに、その後も、ヒーローズジャーニーの物語をいくつも作った方だと思いますが……
それに対して、当時(あっというまに撤回した)引退宣言までされた『もののけ姫』、やはりそれなりの新機軸だったのでしょうか?
主人公は、シュナと同じように村を旅立って……しかし帰ることなく、行き着いた場所で定住すると宣言して、映画は終わります。
その定住先でなにをするかといえば、いがみあい、殺しあう集団の双方を説得しようとつとめ、最終的な和解は未達成ですが、エボシに「礼をいおう」といわしめるほどには心をやわらげさせることにはなるわけでして……
つまるところ、前回ふれた、『家なき娘』『小公子』『少女パレアナ』などなどと同じ、主人公があらたに定住する新天地で、旧来の問題を解決し、共同体を変革する、ヴァージンの物語類型そのものではないでしょうか。
つけくわえるなら……
あの映画をみて、自然保護がどうこういうは、実はかなりの的外れではないか……とは、ヴァージンの類型を知らなかった、公開当時から思っていたことでもあります。
もちろん、当時はキム・ハドソンなんて知りませんから、べつの枠組で考えていましたが……
略述すると以下のような感じでしたでしょうか。
ヒーローズジャーニーのジョゼフ・キャンベルも、ヴァージンズプロミスのキム・ハドソンも、(全面的にではありませんが)、かなりのていど、ユング心理学に依拠していると思います。
ユング心理学は一時期日本でも河合隼雄が流行しまして、当時、当方もいくらか読みましたが……しばらくハマったあと、実をいえば、かなりはげしい嫌悪感を抱くようにもなりました。
個人の心理を扱っているぶんにはまだよいのですが、あっというまに天下国家を論じだすのが、心理学者の悪いクセといいましょうか。
とくにユング心理学の場合、その共同体論は、いわゆる中心周縁論であって、共同体の内部に終始し、一切の外部を捨象してしまう――唯一絶対の共同体のなかに閉じ込められてしまうような息苦しさを感じました(まさに前回書いたとおり「ヒーローズジャーニー」には共同体を批判する回路が存在しないように)。
『もののけ姫』との関連でいうなら、ユング心理学をはじめとする共同体論がいう「異人(異者・ストレンジャー)」の「両義性」などの概念は、特徴的です。
共同体の外部からやってくるヨソモノは、共同体のがわからは、恩恵をもたらすマレビトとも見え、秩序をおびやかす闖入者とも見える、ヨソモノは、両義的だ、というのですが……
これって、具体的な例で考えてみれば、要するに、外国人をやたらあがめてみたり/かと思えば排斥してみたりする、現実のアレな行動と同じことで、それぞれ、「プラスの偏見」であるか「マイナスの偏見」であるかが違うだけ。どちらも偏見であるのは変わらない、のではないでしょうか。
「異人」「両義性」という観点にこだわるかぎり、「プラスの偏見」と「マイナスの偏見」の二者択一にしかならない。偏見そのものを排して、あたりまえの対等な人間≒他者として、フツーに接する回路は、そこからは得られないのではないか、と、思えたのです。
で、その問題意識の下に出会ったのが、柄谷行人の他者論だったりしたわけで……
共同体の内部ではなく、共同体の外部、共同体と共同体の「あいだ」に立つ。唯一絶対の共同体に首までどっぷりつかるのではなく、世界には他の共同体がごちゃまんとある。そのような認識に立ってはじめて、中心から周縁を見たときのような「異者」ではない、ありのままむきだしの「他者」がたちあらわれ、ほんとうの意味でのコミュニケーションの可能性(不可能性? 言語ゲーム≒コードを共有しない他者との対話は可能か?)がひらかれてくる……のではないか、などという理解が、あたっているかどうか、難解な著作群に当方ごときはろくに歯が立たなかったのでわかりませんが、河合隼雄的共同体論の息苦しさに風穴をあけてくれたような気はしたものでした。
そんなテツガクみたいな話のどこが『もののけ姫』とカンケーあるんだといわれるかもしれませんが……
あの映画のタタラ場とイノシシたちというのは、建設会社と環境テロ組織のような、敵対的な共同体ですが。それぞれが、それぞれに、シャドウを投影して悪魔化している、まさに「マイナスの偏見」にとらわれている、かのような状況と思ってみれば、どうでしょう。
その共同体と共同体の「あいだ」にわって入って、対話しろ、悪魔化せず、異者としてでなく、他者として見てみろ、と、説くのが、アシタカということになるのではないでしょうか。
偏見を捨て対話で解決しよう……
というと、脳内お花畑の妄想みたいですが。
そういうシンプルな信念、不変の自己をつらぬくところが、まさに「ヴァージン」的なのではないかと思うわけです。
(現実のお花畑は基本ダブスタですしね)
そして、そのお花畑をシンボライズした劇中の用語が、「曇りなき眼」であり……
また、そのような「眼」は、前回ふれたような一連の児童文学の場合、「純粋無垢」な子どもの目に託されているのではないかと思うのです。
なるほど。子どもは純粋で無垢。ユング的集合無意識的元型的イメージの世界ではそうなるのかもしれません。つまり、われわれはそう思いたがっているのかもしれません。
ただ……
同時に、それは、このエッセイシリーズで以前にのべた「天使の抑圧」にも通じるきわどい隘路であるような気もします。
それはフォークロアに登場する「小さ子」のようなもので、つまりそれ自体「プラスの偏見」によって構成された「異者」なのかもしれません?
あるいは、そもそも類型・原型は「偏見」だからこそ、人を支配する力を持つのかもしれませんが……
当方ごとき優柔不断のヒネクレモノの場合、類型論をおもしろがると同時に、やはりどこか、乗りきれない。
昭和の昔、「わたしはあの澄んだ目というのが気持ち悪くて仕方ない」「あれはほんとうに何も考えていない人の目ですね」……だったかな?
うろ覚えで恐縮ですが、ドナルド・キーンと安倍公房の対談で、そんな会話が交わされていたことを、同時に思いだしたくなったりも、しないではないのです。




