『神官』、括目
塀にめり込んでから地面に落ちた不良のシルエットを一瞥してから、振り返る。
「君がやったの」
「ん。その人たち、コンビニの前にいた。私のアイス取ろうとした」
つまり、最近の『物騒』の原因はこのめり込まされた不良のようだ。
深く息をついてから、眼鏡をかけ直す。
けれどやっぱり、彼女の輪郭ははっきりとは見えなかった。
「驚かせてごめん」
「いや、こっちこそ、どうやら見てはいけないものを見てしまったようで」
「大丈夫、その点については大丈夫。それよりお兄さん」
彼女はそう言うと、僕に近付いてきて、僕の目の前に掌を突きつけた。
「見えてないでしょう」
その言葉に、驚いたのは言うまでもない。
何故って。
初対面で気取られるようなへまは、一度だってしたことがなかったはずだ。
「……もったいない」
そう言って、彼女は僕から離れた。
挨拶らしい挨拶もせずに立ち去ろうとした彼女に、思わず声をかける。
「ちょっと、もったいないってどういう意味」
「そのまま。……お兄さんもしかして、気づいてないの」
彼女はそう言うと、考え込むような仕草をしてから、僕の手をつかんだ。
「来て」
「へ」
「気付いてないなら、やった方が早い」
「ちょ、何の話」
ふわり。
風が吹いたのが、その直後。
ぶわり。
風が強くなったのが、さらに直後。
「荒療治」
ぽつり。
彼女がつぶやいたのが、聞こえたか聞こえなかったかのタイミング。
気づいたら、空中にいた。
「~~っ、ちょっ、何コレ何コレ何コレ」
「お兄さん、意外と饒舌だね」
少しだけ楽しそうな声に、焦りばかりが募る。
いや、僕は今どういう状況なんだ。
僕は今、彼女にいったい何をされているというのか。
「君、一体」
「この辺からならいけるかな」
「へ」
「あっでゅー」
ぱっ。
僕の手をつかんでいた彼女の手が離れて、僕の体は急速に落下を始めた。
見る見るうちに、彼女の影が離れていく。
ヤバい、ヤバい、ヤバい。死ぬ。小学生女子に殺されるとか、間抜けな。
そんなことを思いながら目を閉じて、制服の二の腕辺りを握りしめた。
そして。
にょろり、何かが掌から生えたような感覚。
ざわざわ、体中を何かが這いまわるような、気持ち悪い感覚。
けれどその代わり、地面に落ちたという衝撃は、一向に来ない。
やがて落下していた体は、ぴたり、何かに遮られたように止まった。
「どうよ、お兄さん」
近くで、彼女の声がする。
恐る恐る、目を開けた。
そう、目を開けた。
「すっきりしたでしょう」
目の前に広がる光景は、生まれてこの方、見たことのなかった光景。
世界に、くっきりとした線がある。
空と雲の境目が見える。
何よりも。
彼女の笑顔が、見えた。
「……すっきり、したみたい」
そうつぶやけば、彼女は嬉しそうに笑みを深めた。
「よかった!」
今でも忘れられない、四月二十日。
僕はその日、初めて『世界』を見た。




