プロローグ
今から一年前のこと、エル・ガーデンは竜災に巻き込まれていた。
「火竜がこっちに向かってる、出来るだけ遠くまで走るぞ」
見知らぬ少年に握られた手首は熱く、わけもわからないままに力強く引っ張られ、共に走らされる。
あなたは誰? なんて聞けるような余裕もない中、遠くない距離から地を這うような竜の鳴く声が響き渡った。
エルは肩を跳ね上げて驚き、思わずその場で足を止めてしゃがんでしまう。
肌が粟立ち背筋が凍るように身体が硬直し、命の危機を感じていた。
極限まで恐怖した身体とはこんなにも思い通りに動かせないものなのかと愕然とする。
「チッ、伏せろエル!」
直後、後方が赤く揺らめき、森をその熱い息吹が覆い込む。
謎の少年は二人が入れるだけの結界を張り、エルを庇うようにして腕を回していた。
少年の向こう側、目に入る景色は炎の海。
魔力の込もった炎が、見慣れた森をジリジリと焼いていく様を、エルは信じられない気持ちで見詰めるしかできなかった。
「魔力を含んだ炎は回るのが早いな。……サーシャ、そこにいるだろ? 結界を作ってエルと入っててくれ」
エルはそこで初めて、炎から身を守るための結界がもう一箇所張られていることに気付いた。
いつからそこにいたというのか、少年は気付いていたのか。
その結界が解かれると、低木の向こう側から姿を現したのは、エル達よりいくつか年上らしき少年だ。
「な、なぜ気が付いた!?」
「そんなでっかい図体の癖に、ずっと俺につけて来てたのに気付かないわけないだろ。それよりエルのことを頼む。どうせお前もビビってもう走れないだろ?」
「お前はどうするんだ、ファル」
『ファル』と呼ばれたその少年は立ち上がり、上を見る。
彼が導くように移した視線の先、そこに浮いていたのはエルの家庭教師であり、上級魔術師のセリアだった。
彼は空間干渉魔術での飛行術で、エルを探していたようだった。
エルは見覚えのある姿にようやく少し安心し、声を張る。
「セリア!」
「エル様!! と、ファル様にサーシャ様、何故こんなところに居られるのですか!?」
「細かいことはどうでもいい! この炎は俺がどうにかするから、火竜はお前に任せる、いいか?」
「この炎をまさかファル様おひとりで!?」
「早く火竜の方倒して来い、エルはサーシャもいるから大丈夫だ」
ファルとサーシャもどうやらセリアと顔見知りのようだと、エルはどこかぼーっとしたような感覚の中で考える。
現実なのに、どこか遠い場所で見聞きしているように感じられた。
火竜の足音はもう目前まで迫っていた。
エルは近付いて来る死に恐怖で混乱しつつ、せめて自分が今出来ることを考え、隣に駆けつけたサーシャの横で咄嗟に詠唱を口にしていた。
「泉水」
その最短詠唱を唱えた手からは水が滴り落ちていく。
サーシャはそれに気付くと、エルの濡れた手を見て伺うように首を傾げる。
「……エル嬢?」
エルは目を見開き、視線は真っ直ぐに火竜の足元をその瞳に映したまま、握りこんだ手を大きく振りかぶる。
そしてエルは火竜に向かって何かを投げたのだ。
「火竜の動きを止めて!」
水と共に火竜の足元に落ちたそれは、地面から勢い良くツルを生やし、瞬く間に火竜の足元に絡みつきトゲを刺していく。
赤く花開くその姿は美しく、そして痛々しくもあった。
その光景に三人共息を飲む。
サーシャはエルを見下ろし、それから再度茨をその目に映して呟いた。
「あれは……薔薇であろうか?」
「エルの茨だ」
火竜は一瞬、その茨を引きちぎろうとしたが、徐々にその力を弱めていく。
不自然な程に力を弱めて行った火竜を確認してから、エルは上空に居る魔術師に向けて叫んだ。
「セリア先生、今のうちに早く倒して!!」
「はっ! エル様、恩に着ます!! 潤いをもたらす源をこの身に――」
セリアが水属性魔術の詠唱を始めると共に、ファルと呼ばれた少年が枝から枝へと飛ぶようにして木を登り、辺りを見渡せる位置で炎の範囲を確認する。
そのまま彼は魔術用の杖を取り出し、最短詠唱を唱えた。
「球体結界、展開」
その結界は森で炎が広がりを見せる域のみを覆い込み、被害を食い止める……だけではなかった。
エルの家庭教師であるセリアが水属性魔術で火竜を溺れさせ、その動きを封じ込めると共に、その心臓を止める。
それを確認したファルは「セリア、地面へ降りろ!」と指示し、杖を空へと向ける
セリアが飛行魔術を解除したことを確認すると、ファルはそれを唱えた。
「奪絶」
直後、ファルによって覆われた結界の中の炎が、フッと全て消える。
水での消火より早いそれは、世にも珍しい陰属性魔術での魔力の強奪。
彼が誰で、何をしたのかもわからなかったエルは、呆然とその背を眺めることしか出来なかった。




