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夜想館  作者: 灯野 しおん
幕間

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21/68

百年目の宿

夜想館は今夜も静かだった。


 客人たちはそれぞれの朝を迎え、


 それぞれの人生へ帰っていった。


 残されたのは。


 珈琲の香り。


 暖炉の余熱。


 そして雨音だけ。



 深夜。


 朔弥は一人で館内を歩いていた。


 誰もいない廊下。


 古い時計の音。


 磨き込まれた床。


 この場所のすべてを知っている。


 当たり前だった。


 百年以上。


 ここで生きてきたのだから。


 いや。


 生きてきたというより。


 留まり続けてきたと言う方が正しいのかもしれない。



 窓辺で足を止める。


 庭の桜はまだ蕾だった。


 春は近い。


 それなのに。


 朔弥には季節の移ろいが遠く感じられた。


 春が来る。


 夏が来る。


 秋が過ぎる。


 冬が訪れる。


 その繰り返し。


 何度見ただろう。


 百回以上。


 いや。


 もっとかもしれない。


 最初の頃は数えていた。


 十年。


 二十年。


 三十年。


 だが。


 いつしかやめた。


 数える意味を失ったからだ。



 黒猫が足元へやって来る。


 音もなく。


 影のように。


「眠らないのですか」


 朔弥が問いかける。


 猫は答えない。


 ただ窓の外を見る。


 昔からそうだった。


 まるで何かを待つように。


 ずっと。


 ずっと。


 百年もの間。



 夜想館が建てられたのは大正時代だった。


 当時は宿ではなかった。


 海を見下ろす丘の上の洋館。


 人が集まり。


 笑い声が響き。


 未来が語られる場所だった。


 その中心には恒星がいた。


 そして。


 咲希がいた。


 朔弥はその光景を覚えている。


 忘れたことなど一度もない。


 縁側で本を読む咲希。


 庭の花を世話する咲希。


 恒星と笑い合う咲希。


 まるで春そのものだった。


 あの人がいるだけで、


 周囲が明るくなるような人だった。



 だから。


 失われた日も覚えている。


 鮮明に。


 昨日のことのように。


 いや。


 昨日よりも鮮明に。


 人は時に、


 幸せな記憶より悲しい記憶の方を手放せない。


 百年経っても。


 消えないものがある。



 書斎へ戻る。


 本棚には無数の本が並んでいる。


 訪れた客人たちの人生。


 それぞれの物語。


 それぞれの後悔。


 それぞれの希望。


 その中で。


 一冊だけ異質な本がある。


 題名のない本。


 白い表紙。


 白い背表紙。


 何も記されていない本。


 朔弥はそっと手を伸ばす。


 冷たい。


 昔と同じ。


 変わらない温度。


 けれど。


 最近は違った。


 少しずつ。


 本が変わり始めている。


 言葉が現れた。


 文字が浮かんだ。


 あり得ないことだった。


 百年間。


 一度も起きなかったことなのだから。



 その時。


 書斎の時計が十二時を告げる。


 ごうん。


 ごうん。


 深い音が館に響く。


 そして。


 不意に。


 題名のない本の表紙が淡く光った。


 朔弥は目を見開く。


 光はすぐ消える。


 だが。


 確かに見えた。


 白い表紙の上。


 ほんの一瞬だけ。


 文字が浮かび上がっていた。


 前回は。


 「待っていて」


 だった。


 そして今夜は。


 たった二文字。


 「もうすぐ」


 朔弥の呼吸が止まる。


 胸が大きく鳴る。


 あり得ない。


 そんなはずがない。


 百年間。


 何も起きなかったのだ。


 それなのに。


 なぜ今になって。


 なぜ。


 こんな言葉が現れる。



 その時だった。


 黒猫がふいに立ち上がる。


 そして玄関の方を向いた。


 金色の瞳が細くなる。


 何かを感じ取ったように。


 朔弥も振り返る。


 誰もいない。


 扉も閉まっている。


 けれど。


 微かに。


 花の香りがした。


 春の香り。


 どこか懐かしい香り。


 遠い昔。


 庭で咲希が育てていた花の香りに似ていた。


 朔弥は立ち尽くす。


 胸の奥で。


 止まっていたはずの時間が。


 ほんの少しだけ動き始める。



 夜想館は百年目を迎えていた。


 多くの人が訪れた。


 多くの人生が通り過ぎた。


 けれど。


 この宿が本当に待っていた人は、


 まだ来ていない。


 いや。


 来られなかったのかもしれない。


 それでも。


 夜想館は灯りを消さない。


 今日も。


 明日も。


 百年先も。


 誰かが帰ってくるその日まで。


 そして。


 雨上がりの夜空の向こうで。


 運命は静かに動き始めていた。


 約束を果たすために。


 百年前に置き去りにされた春を、


 迎えに行くために。

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