百年目の宿
夜想館は今夜も静かだった。
客人たちはそれぞれの朝を迎え、
それぞれの人生へ帰っていった。
残されたのは。
珈琲の香り。
暖炉の余熱。
そして雨音だけ。
◇
深夜。
朔弥は一人で館内を歩いていた。
誰もいない廊下。
古い時計の音。
磨き込まれた床。
この場所のすべてを知っている。
当たり前だった。
百年以上。
ここで生きてきたのだから。
いや。
生きてきたというより。
留まり続けてきたと言う方が正しいのかもしれない。
◇
窓辺で足を止める。
庭の桜はまだ蕾だった。
春は近い。
それなのに。
朔弥には季節の移ろいが遠く感じられた。
春が来る。
夏が来る。
秋が過ぎる。
冬が訪れる。
その繰り返し。
何度見ただろう。
百回以上。
いや。
もっとかもしれない。
最初の頃は数えていた。
十年。
二十年。
三十年。
だが。
いつしかやめた。
数える意味を失ったからだ。
◇
黒猫が足元へやって来る。
音もなく。
影のように。
「眠らないのですか」
朔弥が問いかける。
猫は答えない。
ただ窓の外を見る。
昔からそうだった。
まるで何かを待つように。
ずっと。
ずっと。
百年もの間。
◇
夜想館が建てられたのは大正時代だった。
当時は宿ではなかった。
海を見下ろす丘の上の洋館。
人が集まり。
笑い声が響き。
未来が語られる場所だった。
その中心には恒星がいた。
そして。
咲希がいた。
朔弥はその光景を覚えている。
忘れたことなど一度もない。
縁側で本を読む咲希。
庭の花を世話する咲希。
恒星と笑い合う咲希。
まるで春そのものだった。
あの人がいるだけで、
周囲が明るくなるような人だった。
◇
だから。
失われた日も覚えている。
鮮明に。
昨日のことのように。
いや。
昨日よりも鮮明に。
人は時に、
幸せな記憶より悲しい記憶の方を手放せない。
百年経っても。
消えないものがある。
◇
書斎へ戻る。
本棚には無数の本が並んでいる。
訪れた客人たちの人生。
それぞれの物語。
それぞれの後悔。
それぞれの希望。
その中で。
一冊だけ異質な本がある。
題名のない本。
白い表紙。
白い背表紙。
何も記されていない本。
朔弥はそっと手を伸ばす。
冷たい。
昔と同じ。
変わらない温度。
けれど。
最近は違った。
少しずつ。
本が変わり始めている。
言葉が現れた。
文字が浮かんだ。
あり得ないことだった。
百年間。
一度も起きなかったことなのだから。
◇
その時。
書斎の時計が十二時を告げる。
ごうん。
ごうん。
深い音が館に響く。
そして。
不意に。
題名のない本の表紙が淡く光った。
朔弥は目を見開く。
光はすぐ消える。
だが。
確かに見えた。
白い表紙の上。
ほんの一瞬だけ。
文字が浮かび上がっていた。
前回は。
「待っていて」
だった。
そして今夜は。
たった二文字。
「もうすぐ」
朔弥の呼吸が止まる。
胸が大きく鳴る。
あり得ない。
そんなはずがない。
百年間。
何も起きなかったのだ。
それなのに。
なぜ今になって。
なぜ。
こんな言葉が現れる。
◇
その時だった。
黒猫がふいに立ち上がる。
そして玄関の方を向いた。
金色の瞳が細くなる。
何かを感じ取ったように。
朔弥も振り返る。
誰もいない。
扉も閉まっている。
けれど。
微かに。
花の香りがした。
春の香り。
どこか懐かしい香り。
遠い昔。
庭で咲希が育てていた花の香りに似ていた。
朔弥は立ち尽くす。
胸の奥で。
止まっていたはずの時間が。
ほんの少しだけ動き始める。
◇
夜想館は百年目を迎えていた。
多くの人が訪れた。
多くの人生が通り過ぎた。
けれど。
この宿が本当に待っていた人は、
まだ来ていない。
いや。
来られなかったのかもしれない。
それでも。
夜想館は灯りを消さない。
今日も。
明日も。
百年先も。
誰かが帰ってくるその日まで。
そして。
雨上がりの夜空の向こうで。
運命は静かに動き始めていた。
約束を果たすために。
百年前に置き去りにされた春を、
迎えに行くために。




