時雨 ― 神崎蓮
時雨が降っていた。
降ったと思えば止み。
空が明るくなったと思えば、また細かな雨が落ちてくる。
気まぐれな雨だった。
街路樹の葉は濡れて光り、アスファルトには無数の水たまりができている。
神崎蓮は駅からの帰り道を歩いていた。
腕時計を見る。
午後九時四十分。
今日も遅くなった。
仕事は嫌いではない。
むしろ好きな方だ。
部下にも恵まれている。
妻とも仲は悪くない。
娘は中学生になり、生意気なことを言うようになったが、それも可愛いと思っている。
客観的に見れば。
十分幸せな人生だろう。
そう思う。
思うのだが。
心のどこかに、長い間抜けない棘があった。
蓮は信号待ちで立ち止まった。
赤信号。
濡れた横断歩道。
通り過ぎる車のライト。
その時だった。
スマートフォンが震えた。
メッセージが一件。
送り主は妹だった。
珍しい。
蓮は通知を開く。
『今日、お父さんの三回忌だったね』
その一文だけだった。
蓮の表情が固まる。
そうか。
今日だったか。
忘れていたわけではない。
忘れようとしていたのだ。
画面を閉じる。
ポケットへ戻す。
胸の奥が少し重くなる。
父が亡くなって二年。
葬儀には出た。
最低限のことはした。
だが。
最後まで和解はしなかった。
病室にも行かなかった。
会いたくなかった。
会えば。
また傷つく気がしたから。
いや。
本当は違う。
何を話せばいいのか分からなかったのだ。
怒り方しか知らなかった。
許し方も知らなかった。
だから逃げた。
結果として。
それが最後になった。
「……はぁ」
深く息を吐く。
雨がまた降り始める。
小さな雨粒。
時雨だ。
傘を開こうとして。
蓮はふと足を止めた。
視界の端に。
黒い影が見えたからだ。
一匹の黒猫。
街灯の下に座っている。
艶のある黒い毛並み。
金色の瞳。
猫はこちらを見ていた。
まっすぐに。
「……なんだ?」
黒猫は答えない。
当たり前だ。
けれど。
次の瞬間。
猫は立ち上がり、ゆっくり歩き始めた。
まるで。
ついて来いと言うように。
蓮は苦笑する。
「帰るぞ、俺は」
そう言ったのに。
なぜか足は動かなかった。
黒猫は一度だけ振り返る。
そして細い路地へ入っていく。
見たことのない道だった。
こんな場所があっただろうか。
時雨は静かに降り続いている。
蓮は自分でも理由が分からないまま。
黒猫の後を追い始めた。
濡れた石畳。
古い街灯。
細い坂道。
やがて。
雨の向こうに灯りが見えた。
琥珀色の光。
木造の洋館。
深い色の木壁。
玄関脇の真鍮のプレート。
そこには。
夜想館
と刻まれていた。
蓮は立ち尽くす。
「……何だここ」
知らない場所。
知らない建物。
けれど。
どこか懐かしい。
胸の奥に眠っていた何かが、
そっと呼び起こされるような感覚。
黒猫は玄関の前で止まる。
金色の瞳で蓮を見上げる。
雨音だけが静かに響いていた。
そして蓮は。
ゆっくりと夜想館の扉へ手を伸ばした。
からん――
小さなベルが鳴る。
暖かな空気。
珈琲の香り。
「ようこそ」
静かな声が響いた。
夜想館の新しい一夜が、
こうして始まった。




