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9.花の魔女


 瑠璃がいない。

 白珠がその異変に気付いたのは、朝になってからのことだった。


 ここ最近の瑠璃は、恋の季節のせいで帰りも遅い。

 眠っているうちに出掛け、眠ってしまってから帰って来ることもざらだった。

 それでも、帰ってこないということはなかったし、朝日が昇る頃には、すぐ隣に気配を感じるものだった。


 しかし、まだ薄暗い時間にも関わらず、隣で眠っているはずの瑠璃はいない。寝室を出て探してみても何処にもいなかった。

 そもそも戻って来ていないのではないかと気づいたのは、捜し疲れた後――日がすっかり昇ってきた頃のことだった。瑠璃が帰って来た形跡がなかったのだ。

 手つかずの蜜は溜まりにたまっていたし、いつも瑠璃が持ち帰る服の素材も追加されていない。帰って来ていないという可能性は十分あり得た。


 ――どうしてなの、瑠璃。


 白珠は途方に暮れていた。そろそろ身体は蜜を吸われたがっている。

 冷たくされてもいいから、瑠璃に触れたくてたまらない。それなのに、どうして何処にもいないのだろうか。どうして帰ってきてくれなかったのだろう。


 ――誰かの家に泊まったのかしら。


 白珠はふと考えた。

 そうだったらまだいい。親しい花や、運よく異性と出会ってゆっくりと過ごしているのなら。寂しいし、嫉妬に苛まれるけれど、いずれは戻って来るはずだ。


 しかし、そうでなかったら。


 白珠は違う可能性を強く感じ、寒気を覚えた。


 胡蝶を狙う存在はたくさんいる。たとえば、人間だってそうだ。

 都をつくってそちらで暮らす人間たちは、胡蝶や月花といった精霊たちを閉じ込めて養うことを好んでいるという。ほとんどの場合は何百年もかけて職人が守ってきた血統の良い精霊たちが対象だ。しかし、そんな彼らだって祖先は森で暮していた精霊たちである。


 現在では良識ある人間たちは精霊狩りなど行わないのだと白珠も話で聞いてはいた。それでも粗暴な人間たちが森で暮らす精霊を攫っていってしまうという事件もまた、子供の頃からよくあった。


 だが、人間が相手ならば、少なくとも殺されるなんてことはないだろう。

 きっと大事にされるから、奇跡が重なれば助けに行くことだって可能のはずだ。


 白珠は震えていた。恐れているのは人間ではない。肉食精霊の方だった。

 捕食者が相手ならば、まず命はないだろう。運が良くて即死、非常に悪ければ何日もかけてじっくりと殺される。胡蝶を好んで捕まえる者は、後者が多い。

 それは、つい昨日、瑪瑙が得意げに話してくれた知識だった。


 もしも肉食精霊に瑠璃が囚われたとしたら、どうすればいいのだろう。こんな広大な森の中で探している間に、食べられてしまうことだってあるかもしれない。

 そんな危機感が一気に押し寄せて尚、白珠は広間で途方に暮れることしか出来なかった。


 そうであったならば、こんなにも広い森の中で、無力な花がどうやって胡蝶を救えばいいのだろう。

 

 絶望の足音が聞こえてくる中、白珠の頭上で朝日が遮られた。


 見上げてみれば、天窓の向こうに誰かがいた。瑠璃だろうかと一瞬期待したが、違った。目を凝らし、その人物の顔が分かるなり、白珠は声をかけた。


「瑪瑙!」


 目が慣れてくると、瑪瑙の表情がよく見えた。

 いつもと違う。ひどく焦っている。


「ああ、白珠。よかった。起きていたね!」


 切羽詰まった様子の彼に、白珠は答えた。


「瑪瑙……あの……あのね!」

「分かっている。瑠璃の事だろう?」


 蒼ざめた顔の瑪瑙に、白珠は悟った。

 では、瑠璃の事でこんなにも慌てているのだ。嫌な予感が的中した。


「いいかい、白珠。落ち着いて聞いて。……瑠璃が肉食精霊に捕まってしまった」


 白珠は悲鳴を堪えた。

 出来れば、そうであって欲しくなかった。誰かの家に泊まっているのだと、そう信じたかった。けれど、現実は違ったのだ。こうなれば、後は祈るだけだ。

 せめて、生きていますように。


「大丈夫、まだ生きているよ」


 白珠の気持ちを汲むように瑪瑙は優しくそう言った。


「ただ、縛られていて逃げられないでいる。相手は花蟷螂という種族でね、月花のふりをして狩りをする精霊さ。でも、その中でも、彼女は少し特別なんだ。……白珠、君は大精霊って存在を知っているかい?」


 瑪瑙の問いに白珠は頷いた。

 知り合いにはいないが、聞いたことはあったのだ。


 精霊の中でも特別な力を受け継いだ強者たち。男は男から、女は女から何百年も受け継がれていく魔の力を武器に、彼らは月の森の精霊たちの世界を支配する。辿っていけば、それらは殆ど月の女神の神力に繋がるという。

 ある時は褒美として、ある時は気まぐれとして、またある時は懲罰として、女神の力はごく普通の精霊たちに与えられるという。その力の系譜を受け継ぎ、次代に伝える者こそが、大精霊と呼ばれる存在だった。


 大精霊に善悪はない。

 一度下った力の在り方は、月の女神も言及しないのだ。そもそも、たったの三十年で代替わりすることの多い女神には、その全てを把握しきれていない存在でもあり、今いる女神が把握しているとは限らない。

 だから、大精霊という存在は、精霊たちにとって捕食者とはまた違う畏怖すべき対象でもあった。


「花蟷螂の大精霊なの?」


 絶望に打ちひしがれながら白珠が問い返すと、瑪瑙は気まずそうに頷いた。


「花の魔女って呼ばれていてね、花蜜で作った蜜薬みつやくっていう魔法薬を武器にして、他の精霊たちを支配するんだ。蜜薬を飲んだ精霊たちは、何故だか魔女に逆らえなくなるんだって。その後は、奴隷にされるか……あるいは、食べられてしまう」


 食べられてしまう。

 その言葉に白珠は胸を痛めた。


「瑠璃は……瑠璃はどうなっちゃうの?」

「瑠璃はすでに蜜薬を口にしてしまった」


 瑪瑙は残念そうにそう言った。


「こうなれば、自力で逃げるのは不可能だ。あとは魔女の気持ち次第。今のところはまだ生かされているけれど、今後はどうなってしまうだろうね……」

「ねえ、場所は分かる?」


 白珠が訊ねると、瑪瑙は目を見開いた。


「場所は――って、君、まさか行くつもりじゃないだろうね?」

「当然でしょう。だって、瑠璃はまだ生きているのよ? それなら行かなきゃ。花の魔女だろうが何だろうが、瑠璃はわたしの恋人なの。取り返さなくちゃ!」


 震えながら白珠は言った。

 相手は恐ろしい肉食精霊だ。しかし、まだ間に合う。もしも奴隷にされるとなれば、救い出すチャンスはいくらでもある。愛する人がまだ生きているのならば、機会は残されている。どうして諦められよう。


「取り返すって、君ね」


 だが、瑪瑙は呆れ口調で言い返した。


「さっき言ったのを聞いてなかった? 蜜薬を飲んでしまった者は魔女に逆らえなくなるんだよ」

「聞いていたわ。でも、わたしは飲んでいない。強引に連れて帰ればいいのでしょう?」


 白珠はそう言って、一歩踏み込んだ。

 瑪瑙は遥か頭上にいるが、視線だけで撃ち落とせそうなくらいの気迫を込めて彼を睨みつけた。月花だからと侮るなかれ。か弱いか弱いと言われていても、怒りくらいの感情はあるのだ。

 それ以上に恐怖は強いが、それでも、大事な恋人のためならば乗り越えられる。


 ――いいえ、乗り越えなきゃ!


 白珠は強気で瑪瑙に迫った。


「月花を舐めないで。わたしが取り返してみせるわ!」

「やれやれ、無謀なお嬢さんだ。でも、その強気な態度、嫌いじゃないよ」


 にやりと瑪瑙は笑い、力強く答えた。


「よし、それなら案内してあげよう! 早い方がいい。すぐについて来て!」

「ありがとう!」


 こうして、白珠は久方ぶりに家の外へと這い出ることとなった。


 ずっと壁に守られて暮らしていただけに、穴を潜って出てみれば外の世界の広さに目が眩んでしまう。そして、次に気になったのは視線だった。何処からともなく誰かに見つめられているような気がして、落ち着かなかった。


 だが、少なくとも今はひとりではない。

 すでに地面へと降り立っていた瑪瑙に手を繋がれ、白珠は勇気を取り戻した。


「手は離さないで。胡蝶以外にも怖い蜜食精霊はいっぱいいるから」


 しっかりと肯き、白珠は従った。


 瑠璃以外の精霊と手を繋ぐのは久しぶりの事だ。それも、蜜食の小鳥だなんて。

 柔らかな手を握りながら、白珠は不思議な気持ちになっていた。

 これがただの遊びだったならば、どんなに良かっただろう。しかし、そうではない。初めての感触を心から楽しめるような余裕なんて白珠にはなかった。


 どんどん空は明るくなっていくけれど、白珠の気持ちは暗いままだった。


 ――生きていますように。


 女神に願えば願うほど、心はむしろ追い詰められていった。


 瑪瑙に導かれながら走る事しばらく。そろそろ焦りも強まってきた頃に、ようやく彼は立ち止まった。


「ここだよ」


 そこは、とても小さな隠れ家だった。白珠が母や兄弟姉妹たちと暮らしていた隠れ家にも似ている。何の変哲もない精霊の住まいである。

 白珠は息を飲んだ。この中に瑠璃が囚われているのだと思うと、ただの小さな家であっても緊張は強まってしまう。そこへ、瑪瑙の手が離れる。もじもじとしながら、彼は白珠にそっと耳打ちした。


「ボクはこれ以上いけない」


 俯き気味に彼は詫びた。


「ごめんね、白珠。ボクには大精霊に歯向かう勇気がないみたい。花の魔女っていうのはね、ボクたち蜜食精霊の天敵なんだもの」


 本気で怖がっている。

 その姿に、白珠は優しく答えた。


「いいわ、案内してもらっただけで十分よ」


 そして、覚悟を胸に小さな隠れ家を睨みつけた。


「むしろ、わたし一人の方が自由に動ける。ここまでありがとう、瑪瑙」

「良いってことさ、でも白珠」


 瑪瑙は真剣な眼差しを白珠に向けた。


「くれぐれも無茶はしないでね。花の魔女は、花の精霊の蜜で薬を造るんだ。その方法はとても残酷なものなんだよ。捕まってしまえばただでは済まない」

「ええ、それも覚悟の上よ」

「そう……また君とお話しできることを祈っているよ。頑張ってね」


 白珠はしっかりと肯くと、ひとりで歩みだした。


 近づいてみれば、隠れ家にはいくつもの入り口があった。その中でも、最もひっそりと存在する裏手の小さな窓から侵入を試みた。

 狭い部屋の中をそっと窺って、誰もいないことを確認してからするりと入り込む。その途端、甘すぎる匂いに迎えられ、白珠はくらりとした。自分の蜜の香りには慣れていても、他人のものは特有の甘みがあるものだ。だが、それにしては、あまりに濃厚な香りだったのだ。


 入ったその場所は物置であるらしい。見渡してみれば、白珠たちの家にあるような人間の世界の物品がたくさん並べられていた。足音を立てないようにその間を歩き、白珠は慎重に部屋を抜け出した。

 短い廊下が続く中に、いくつもの部屋が分かれている。外観では狭く見えたが意外と広いのかもしれない。


 ――何処にいるのかしら。


 部屋の一つ一つに目を配り、中を窺っていった。


 水飲み場に日光浴室、衣裳部屋といった部屋が並んでいる。魔女の正体は花蟷螂だと聞いているが、家自体は花の精霊が暮らすことを前提としているかのようだ。白珠は疑問に思いながら、さらに先へと進んだ。

 今のところ、物音が全く聞こえない。吐息も、悲鳴も聞こえてこない。


 ――いったい何処にいるの。


 耳をそばだてながら、白珠は歩み続けた。

 そして、ある一室を覗き込んだとき、不意を突くような香りにあてられ、立ち眩みを覚えた。これまで以上に強烈な甘い香りが充満している。中へと入ってみれば、そこにはいくつもの壺が置かれていた。花蜜だ。間違いない。だが、ただの蜜にしては異様な香りがする。


 ――これが、瑪瑙の言っていた蜜薬?


 触らないように気をつけながら、白珠は一つ一つを覗いていった。ねっとりとした赤色の液体に満たされたそれらは、絶対に舐めてはいけない雰囲気を醸し出している。これを使って、花の魔女は獲物を操っているのだろうか。

 疑問に思いながらふと、白珠は部屋の奥へと目をやった。蔦の垂れ下がる向こうに、もう一部屋あるようだ。恐る恐るそこへ近づき、白珠は蔦を払いのけて覗き込んだ。


 その途端、身体が凍り付きそうな寒気が広がった。


「な……」


 思わず声が漏れそうになり、必死に両手で口を塞いだ。

 白珠の目に飛び込んできたのは、数体の大きな人形の姿だった。森の各地にひっそりと佇む人間たちの屋敷にある石像にも似ている。だが、何かを模して創りあげることが人間たちの嗜みであることを知っている白珠でも、こればかりは恐怖を感じずにいられなかった。


 それは、ただの人形ではなかったのだ。

 丁寧に並べられているのは、美しい女ばかり。中には少女っ気の抜けない容姿のものもあった。一から誰かの手で作られたものでないことくらい、白珠にも一瞬で見抜けてしまった。


 材料は、花の精霊の亡骸だ。丁寧に処理され、装飾品となって並べられている。腐る様子もなく、時を止めたかのように眠り続けているのだ。半開きになっているその目の奥は、眼球の代わりにガラス玉が入れられていた。色とりどりの衣服はどれも見事なもので、恵まれた彼女らの容姿をさらに際立たせていた。


 美しい。それだけに、不気味だった。


 ――まさかあの蜜は……この人たちの……。


 恐怖に駆られながら、白珠はさらに隣の部屋の存在に気づいた。そこには作りかけの人形が置かれていた。燃えるような赤い髪をたらし、瞼は力なく閉じている。衣服は着ておらず、腹部は大きく開かれたらしく、輝く糸で縫合されていた。


 白珠は震えながらぐっと恐怖を堪えた。


 一歩間違えば、自分もこうなってしまう。その恐ろしさに必死に抗いながら、白珠は慎重に部屋の周囲を探った。さらに奥にも、やはり蔦で遮られた部屋が隠されている。そこから微かに物音がした。

 息を殺して白珠は蔦の間から向こう側を確認した。

 薄暗く、ひどく血生臭い。人間たちの持ち込んだとみられる透明な瓶が置かれ、その中に閉じ込められた小さな発光精霊の明かりが部屋を照らしていた。

 わずかな光を頼りにどうにか目を凝らした白珠は、そして――そのまま凍り付いてしまった。


 壁際にて磔にされた精霊がいた。

 両手首を頑丈そうな蔦で繋がれ、吊るされているそれは、半裸の胡蝶である。


「瑠璃!」


 その顔が見えるなり、白珠は思わず大きな悲鳴を上げてしまった。

 愛する瑠璃が囚われている。白珠が一生懸命作った服はずたずたに引き裂かれ、露出した肌には無数の生傷がつけられていた。

 愛する人の今にも絶えそうなその息遣いが聞こえてくる。その痛々しい光景を目の当たりにして、白珠は胸が締め付けられた。


「ああ、瑠璃!」


 それまでの警戒心など吹き飛んでしまった。

 部屋に飛び込み、必死に呼びかけ、白珠は瑠璃の身体にそっと触れる。瞼は閉じたまま。開く気配もない。苦しそうに表情を歪め、時折、ぶるぶると震えていた。


「酷い……こんな……! 待っていて、すぐに助けてあげるから!」


 呼びかけながら白珠は瑠璃の手首に絡みついた蔦に触れた。

 ただの植物ではないと分かっていたが、予想以上に硬い。手で引きちぎるのは不可能だろう。白珠は周囲を見渡し、鋭利なものを探した。花たちの亡骸の寝かされている部屋ならば、人間たちが持つような刃物があるのではないか。しかし、少なくともここにはないようだ。


 ならば、隣の部屋だ。

 恐ろしくも花の精霊たちを切り刻んでいたあの場所ならば、鋭利な刃物があるかもしれない。


 そう思い、とっさに白珠は振り返った。そして、その時初めて、その人物に気づいたのだった。いつの間にか、背後に別の精霊がいた。その姿を目にするなり、白珠はしゃがみ込んでしまった。


 それは、とても神秘的な姿をした女性だった。

 特徴は白珠の同胞によく似ている。銀髪に赤い目。長身なところは生家に残した母を思わせる。だが、威圧的な眼差しだけが異質だった。

 目には心が宿る。白珠は常々そう思っていた。だからこそ、彼女には分かったのだ。


 月花によく似ているが、絶対に違う。仲間ではない。


「いらっしゃい、あなたが白珠ね?」


 歌うような声色で名前を呼ばれ、白珠は尻込みした。味方とはとても思えない。味方なわけがない。名前を知られていることが、あまりにも怖かった。

 答えずにいると、白い精霊は微笑みを浮かべた。


「隠しても分かるわ。瑠璃を求めて必死に駆けつけた月花。白珠でしょう? 瑠璃に会いに来たのよね?」


 白珠は恐怖に駆られた。頭をよぎるのは、近くの部屋に飾られている変わり果てた花たちの姿である。

 誰が作ったのか、誰が愛でているのか、その答えは目の前にある。間違いない。この人だ。圧倒的な雰囲気を醸し出すこの人以外に誰がいるだろう。


 立ち上がれないまま、白珠は逃れた。せめて、瑠璃を助けなければ。そんな思いが彼女を後退させる。

 口から漏れ出す声は言葉にすらならない。大きすぎる恐怖と焦燥感が、今までずっと平和に過ごしてきた白珠のか弱い心身を襲い始める。


「そう怖がらないで」


 笑みを漏らしながら白い精霊は言った。そして、あっという間に白珠に近づき、壁際へと追い込んだ。白珠はまんまと追い込まれながらも、どうにか瑠璃の傍へと逃れようとした。

 せめて、愛する人を近くで感じていたい。そうでなければ、今すぐにでも気を失ってしまいそうだ。弱々しい反応しか出来ない白珠を前に、白い精霊はくすりと笑った。そして手を伸ばし、白珠の頭を優しく撫でた。


「月花は好きなの。か弱くて従順な子が多いから。いい子にしてくれれば命は奪ったりしない。ああ、そうだ。自己紹介がまだだったわね」


 額に口づけをし、白い精霊は囁いた。


「私の名前は金剛。辿れば月の女神の慈愛に到達する偉大な力を継承する大精霊。同じ立場の者たちは、私の事を花の魔女と呼んでいるわ」


 ――花の魔女。


 やはり、この人だった。一番見つかってはいけない人に見つかってしまったのだ。

 絶大な恐怖が心身の奥底からあふれ出し、冷や汗と共に何故か蜜が溢れだす。身の危険のせいだろうか。今にも倒れてしまいそうなくらい、白珠は混乱していた。

 甘い香りが広がり、金剛は目を細める。


「いい香りね。若くて、瑞々しくて、純情な香り」


 その手が伸びて、白珠の口をこじ開ける。口から漏れ出しかけている蜜を強引に拭ってしまうと、すぐさま金剛はその味を確かめた。


「味もいい。経験の浅い乙女の味。きっとその愛らしい体に秘められた血や臓器もいけないほどに甘い味がするのでしょうね」


 肉食精霊の恐ろしさを実感したのは初めてのことだった。

 瑠璃が囚われ、瑪瑙すらも恐れるその意味をようやく白珠は理解した。だが、だからと言ってここへ来たことをまだ後悔はしてはいない。

 全てを諦めてはいなかった。どうにか、瑠璃を助ける方法を考え、必死に思考を巡らせ、そして蚊の鳴くような声で訴えたのだ。


「お願いです、魔女さま」


 泣き出しそうになるのを必死に堪え、白珠は金剛を見つめた。


「瑠璃を殺さないでください」


 悲痛なその訴えを真正面から聞かされて、金剛はまじまじと白珠を見つめた。


 赤い目同士で視線を合わせると、金剛は不意に手を伸ばして白珠の衣服を剥いでしまった。半裸にされて露わになる豊満な胸元へと手を這わすと、そのまま乱暴に掴んだ。

 声を押し殺しながら痛みに耐える白珠の表情を楽しんでから、金剛は言った。


「お前はこの状況を理解できているの? 愛する人の延命を懇願している場合じゃないわ。お前自身が生きるか死ぬかの状況だというのに」

「……わ、分かっています」


 白珠はどうにか答え、まっすぐ視線を向けた。


「花の精霊を材料になさるのだと聞いています。わたしも薬にするつもりなのでしょうか? でも、それでもいいのです。従順なのがお好きなら、ご命令に従います。だから、その代わりに、瑠璃を助けてあげてほしいのです」

「へえ」


 低い声で金剛は呟く。面白がるようなその目で白珠を見つめると、さらに衣服を破いてしまった。

 腹部を撫で、そのまま指を這わせる。汗に混じって溢れている蜜の感触を確かめながら、金剛は満足そうに笑った。


「自分自身の命を使って取引とはね。ずいぶんと大胆な子だわ。今まで捕まえた花の子たちとは違う。……瑠璃のためならば何だって出来るの? 私の命令に従う覚悟があるというわけ?」


 真剣に確かめるような眼差しを受け、白珠は震えた。

 この返答次第で全てが決まる。次の瞬間には命を奪われているかもしれない。しかし、そうであっても、白珠は覚悟を決めていた。決めるしかなかった。


「――あります。それで瑠璃を助けてもらえるのなら」


 恐怖を全て抑え込んで、白珠は金剛に向かってそう言った。

 すると、金剛は意外そうに笑みを消した。白珠の両頬に手を添えると、じっとその瞳を見つめ始める。


「本当ね?」


 脅すように確かめる彼女に、白珠は頷いた。


「――はい」

「そう」


 金剛は低く肯くと、懐から小瓶を取り出した。

 蓋を開けるなり、濃厚な蜜薬の香りが流れ出る。口にしてはいけないと月花の本能が訴えてくるその小瓶を、金剛は白珠の口元に押し当てた。


「飲みなさい」


 その短い命令に、白珠は縋るように従った。


 蜜薬の甘みが口の中を侵し、すでに溢れていた自分の蜜と混ざり合っていく。そしてそれらをすべて喉の奥へと押し込んだとき、白珠は実感した。

 これでもう、後戻りはできないのだ。


 甘い味の感触がじわじわと体に浸透していくのを感じながら、心の深い部分が書き換わっていくのを白珠は感じていた。自由奔放な花の精霊であり続けることはもうできない。

 金剛の見守られながら、白珠はその絶望を受け止めていた。


 しかし、後悔はなかった。

 大人になって以来、ずっと守ってくれた恋人を今度は自分が守るためならば、何だっていい。傷だらけで自由を奪われ、瑠璃は今も眠り続けている。自分がここへ来なければ、彼女はそのまま食べられていたのだ。

 最悪、自分が殺されるかもしれない。だが、この屈服が瑠璃を助けることになるかもしれない。その期待だけでも、白珠には有難いものだった。


「いい子ね」


 急に優しい声になって、金剛は白珠の頭を撫でた。


「白珠。今日からお前は私の花よ。愛する胡蝶を生かしてほしいのなら、怠けずに尽くしなさい。お前ひとりの頑張り次第で、瑠璃の明日の運命が決まる。まずは私の教えることをすべて覚え、その後で私のために働きなさい」


 白珠は金剛を見上げた。

 蜜薬が馴染みだすと、頭の中で声が囁いてきた。この人こそが新しい主人である。大いなる慈悲をもたらす女神に等しい御方。瑠璃を助けてもらうために、その命をなげうってでも仕えなければ。

 気付けばそんな奇妙なほどの使命感が心の中にべっとりとくっついていた。


「分かりました、魔女さま」


 茫然と答えながら、白珠はふと我に返る。


 ――蜜薬を飲めば、従うしかない。


 瑪瑙の言葉を思い出し、白珠は納得した。

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