10.癒しを求める者
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寒気を感じて瑠璃は目を覚ました。
周囲を見渡し、そこが何処なのかをしばし考える。痛む身体の傷を一つ一つ見つめ、そして動こうとして不自由さに気づいた。
両手首に蔦が絡まっている。引っ張っても抜けそうにない。中途半端に吊り下げられて、全身が悲鳴をあげていた。夢の中にいた方がむしろ楽だった。だが、どうしてこんな状況に陥っているのだろう。
混乱の中で、じわじわと記憶が蘇っていった。
――ああ、私は囚われたのだった。
だが、状況は思い出せても、その居場所を把握するのには時間がかかった。
覚えている限りでは、自分は朱花の家にいたはずだった。そこで蜜薬を飲まされ、具合が悪くなり、その後は、さんざん弄られた。
花の魔女――金剛。その姿を思い出すだけで鳥肌が立つ。朱花の寝室で思う存分玩具にされてから、瑠璃は金剛の秘蔵品を見せつけられた。そこには加工され、美しさを留めた花の亡骸と共に、変わり果てた友人がいた。
――朱花。
思い出すだけで涙がこぼれた。長く親しんだ花との別れがこんな形になってしまうなんて。そして何よりも怒りがこみ上げてきた。花たちを弄び、自分勝手な欲望の玩具にするなんて。
しかし、その怒りをそのままぶつけられるだけ、自分が強くないことを瑠璃は自覚していた。こうして起きることが出来るのも、金剛の機嫌次第なのだと理解できていたのだ。
――ここは何処なの?
ぼんやりとする頭で周囲を見渡した。
壁の様子、蔦の様子、地面の様子、置かれた物品たちの様子。それらはすべて朱花の家のものとは違う。
最初は全く見当がつかなかった。だが、粘り強く観察していくと、段々と記憶が結びついていった。そして気づいた瞬間、瑠璃は小さな悲鳴を上げてしまった。
「そんな!」
一度分かってしまえば、もう間違えたりはしなかった。
そこは、瑠璃が白珠に贈った二人の家の一室だったのだ。使い道の決まらない空き部屋の一つ。自然のものが主に置かれているだけの部屋。
その壁に、瑠璃は吊るされていた。
「白珠……白珠は……?」
声を震わせ、瑠璃は嘆いた。
金剛が我が家に来てしまったのならば、ここに住んでいた白珠はどうなったというのだ。
朱花の末路が頭をよぎり、瑠璃は怯えた。もしも彼女が薬の材料にされてしまったら。想像するだけで恐ろしく、吐き気がこみ上げてきた。
そんな時、瑠璃の耳に足音が届いた。聞きなれない足音だった。
白珠のものではないことは明白だ。ならば誰が近づいてきているのか。姿が見える前から誰が来るのか想像でき、瑠璃は両目を瞑ってしまった。
逃れる術もないまま、彼女はやってきた。
「目が覚めたのね、瑠璃」
話しかけられて、瑠璃はびくりと震えた。目を開けるのが怖い。
だが、姿が見えないのはもっと怖い。恐る恐る瞼を開くと、金剛の神秘的な姿がすぐに目に入った。近づいてくる恐怖に耐え、触れられる恐怖に耐え、瑠璃はどうにか自我を保った。
「お願い、やめて……」
「すっかり嫌われたようね。まあ、無理もないわ」
呆れたように彼女はそう言った。
「とても痛かったのよね? 御免なさいね。捕らえた獲物で遊ぶのが私の悪い癖なの。好みであればあるほど、追い詰めたくなる。でも安心して。しばらくの間、お前を傷つけたりはしないわ。そう約束したの」
「……約束?」
瑠璃が訊ねると、金剛は目を細めて頷いた。
「お前の愛する月花――白珠のことよ」
「白珠――」
一体どんな約束なのか。瑠璃は一気に不安になった。
震える彼女の身体を、金剛は増えていく。訊ねる勇気の出ない瑠璃に、金剛はわざと言い聞かせた。
「今日より、あの子は私のモノよ。生きた材料として、道具として、そして慰み者として、これからの私の暮らしを支えてもらう。その代わりにお前を生かし、会わせてあげると約束したの。ねえ、悪くないでしょう? 朱花のように冷たいお人形にはしないわ。従順な花でいてくれる限り、お前たちの身体を傷つけたりはしない」
それを聞いて、瑠璃の息が上がった。
安堵も落胆も出来なかった。生かしてもらえるにしても、この状況は大変まずい。
二人きりで平和に暮らしていた頃とは全く違う。ひとりの大精霊の奴隷であり続けよという事なのだ。それは、野生に暮らす精霊にとって、この上ない屈辱でもあった。
「白珠は……それを受け入れたの?」
泣きそうになりながら問う瑠璃を、金剛は抱きしめた。
愛のある抱擁とは瑠璃には思えなかった。ただただ捕食する者が、おいしい獲物を食べたくて仕方がない気持ちを表しているに過ぎない。
ますます緊張する瑠璃に、金剛は優雅に囁いた。
「そうよ、お前を助けたい一心で。自分の命すらいらないという態度だったわ。それだけお前は愛されていたのね。そこまで月花の心を盗むなんて、たいしたものよ」
全く嬉しさを感じないその称賛に、瑠璃は項垂れた。
金剛はその反応を喜ぶように笑い、さらに言い聞かせた。
「お前を生かしておくメリットなんて本当はないの。それでも、可愛い月花の要求だもの。聞いてあげなくては大精霊として大人げないわ。だけど、瑠璃。よく聞いて。この約束はお前の態度次第でもある。お前がもしも、勝手な行動をしたならば、私はお前たち二人を罰することになるでしょう。その時にはあの子の従順さも意味を失くす。でも嫌でしょう? あの子が人形になってしまうなんて――」
「嫌に決まっているでしょう!」
朱花の亡骸を見た衝撃が忘れられず、瑠璃は思わず叫んでしまった。
そして、泣きながら懇願した。
「お願い、白珠には乱暴しないで。あの子を傷つけないで」
その涙を指で拭い、金剛はにこりと笑いかける。
「傷つけて欲しくないというのなら、そのためにお前が出来ることを教えてあげる」
「どうしたらいいの?」
「私を楽しませて」
短く、そして、威圧的な答えだった。
不機嫌そうな表情を浮かべ、金剛は語る。
「大精霊の世界はね、お前たちが想像する以上に殺伐としているの。決して広くないこの地域で拮抗した力を持つ者同士が睨み合う日々。遠く離れた月の女神の膝下で今も存在する脅威の事。花の魔女となって何年も経つけれど、この私でも生きることにほとほと疲れてしまうことが多々あるわ。だから――」
瑠璃の身体を撫でまわし、癒え始めている傷跡に触れていく。
「だから、私は癒しが欲しい。自分だけの玩具。生きた反応をくれる人形が欲しいの。可愛がりながら思わず食べてしまいたくなる危うさに震えたいの。このまま食べられてしまうのではと怯える胡蝶の姿を見たい」
そして手を離すと、金剛はもう一度、深いため息をついた。
「好ましい刺激は無駄に長く生かされる大精霊の嗜みでもある。一瞬で終わる殺しの悦楽よりも、一緒に長く楽しめる方がいい。だから、お前を養う事にした。お前のその鱗粉で、ひと時だけでも煩わしいこの世界を忘れさせてくれるような夢を見たくて……」
淡々とした声に、瑠璃は困惑した。
大精霊という偉大な力を持ちながら、その目は疲れ切っている。
ただの胡蝶である瑠璃にとってその世界は想像すら出来ないほど遠いものだが、金剛のこの反応だけで相当厄介なものなのだと分かった。
何であれ、この頼みは貴重なものに違いない。白珠の待遇がかかっている。捕まってしまった間抜けな自分のために奔走する白珠の事を思うと、瑠璃の答えもまた一つでしかなかった。
「分かったわ」
瑠璃は頷いた。
「努力する。この鱗粉の力であなたを楽しませてみせるわ。煩わしい日常なんて、きっとどうでもよくなるでしょう。だから、お願い……白珠の事は――」
縋る先の金剛の目は鋭いままだ。心を見通すようなその眼差しに、瑠璃はさらに緊張した。黙り込む金剛の反応を待ち続けることしばらく、その右手がそっと伸ばされる。空中で横一文字に手が払われると、途端に瑠璃の身体が軽くなった。手首を縛り、つるし上げていた頑丈な蔦が切られたのだ。
いきなり解放され、戸惑う瑠璃を支えながら金剛は囁く。
「お前の誓いを確かに受け取ったわ。衣食住は保障してあげましょう。いい子に過ごせたら、私の月花の蜜を直接吸わせてあげる」
――白珠……。
その言葉に苦い思いを抱きつつ、瑠璃は歯向かわなかった。
蜜薬も飲まされ、言葉で誓わされ、主従関係が完全に決まってしまったのだ。今更、白珠を取り戻す権利などあるはずがない。
「ただし、私の許可なくあの子の蜜を吸っては駄目よ。普段のお前は蜜薬を飲むの。分かったわね?」
「……ええ」
白珠が犠牲にならないのならば、瑠璃も多くは望まない。
それがあらゆる花たちの――長年の友人であった朱花の命で出来ていたとしても、せめて最も愛する月花の待遇が約束されるのならば、口にする覚悟が瑠璃にはあった。
――ごめんなさい、朱花。
悔やむのは、最後に優しくしてあげられなかった事だった。こんな時期でなければ、もっと優しくしてあげられたのに。だが、詫びる相手はもうこの世にはいない。
魂は大地に返り、亡骸は永遠に存在し続けることになる。しかし、会話することは二度と出来ないのだ。その虚しさに、瑠璃は震えていた。
ともあれ、こうして瑠璃は助かった。捕食されて終わるはずだった命運が、白珠の存在によって救われたのだ。
この状況で生きることがどんなに恐ろしいものなのか、瑠璃にはきちんと想像できない。今はまだ、未知の恐怖に怯えていることしか出来なかった。
――それでも、私は生きられる。
主人となった恐ろしい魔女を前に、瑠璃は静かにそう感じた。白珠と共に明日を生きられる。その喜びと有難みだけが、今の瑠璃の希望となっていた。




