11.大精霊の悩み
◇
これまでとは大きく違う毎日に、白珠はほとほと疲れていた。
金剛の教えは膨大で、かつ、これまでの白珠には未知の領域のものばかりだ。その具体的な内容とは、蜜食精霊たちを虜にする魅惑の技。月花にとっては不要であるその技の会得は、白珠にとってあまりにも難しく、そのせいか金剛の指導も厳しかった。
しかし、弱音を吐いている暇はない。一日でも早く覚えて物にしなければ、瑠璃が傷つけられてしまうかもしれないのだ。金剛に教わりながら、白珠は一つ一つを身につけ、時には叩き込まれ、少しずつではあるが、あらゆる蜜食精霊の心を揺さぶるだけの花へと成長していた。
そして、十日ほど経ったある日、金剛はいつものように白珠を食事に同席させ、いつになく優しい口調で語り掛けたのだった。
「お前は物覚えがいいわ。賢い子ね」
何の含みも持っていない褒め言葉だったが、白珠は俯きながら手元に握る杯を眺めた。
水に日光、温かな土より伝わる月の女神の精気。そういったものが白珠の食料である。だが、金剛との同居が始まって以来、そこにほんの少しの蜜薬が加わった。
瑪瑙がかつて教えてくれた通り、飲めば飲むほど金剛には逆らえなくなっていく。その脅威を覚えてはいたが、強要されれば拒絶は出来ない。
覚悟を決めて少しずつ飲みながら、白珠は金剛を見つめた。
「魔女さまの教えの賜物です」
控えめにそう言うと、金剛は微笑みを浮かべた。
「世辞も上手くなったものね。その調子で一日でも早く表舞台に立てるようになりなさい」
「はい、魔女さま」
そっと頷いて、白珠は再び杯に視線を落とした。
金剛の食事に付き合うことも白珠にとっては拷問のようだった。彼女が食べるのは肉である。それが何の肉なのかを知らなければ、こんなにも心苦しくはならないだろう。だが、白珠は知っていた。
あれは精霊の肉なのだ。
たくさんあった空き部屋の一つが食糧庫になっている。そこでは解体された蜜食精霊たちの肉がいくつもぶら下がり、食べられる日を待っている。その光景を嫌でも見せられることがあり、白珠の心には深い傷が出来ていた。
だが、もっと怖い事がある。あの肉を食べ尽くせば、金剛の食べるものがなくなる。そうならないように、金剛自身が気を付けて、出来るだけ少しずつ食べてはいる。それでもいつかは全て消費されてしまうだろう。
消えたものは補充しなければ。しかし、今の金剛が期待しているのは、これまでとは違う新しい狩りの方法だった。鍵を握るのは他ならぬ自分なのだだ。
白珠は緊張していた。あまりにも覚えが悪ければ、金剛もまた狩りの仕方を変えなくてはならないだろう。
そうなれば、誰の身に危険が迫るのか――誰がもっとも危険な立場に置かれることになるのか、白珠には分かっていたのだ。
――早く……早く覚えなきゃ……。
金剛の教えは、とても厳しい。しかし、それは理由あってのことだった。彼女が白珠に期待している役割は、それだけ危険なものだったのだ。
それは、囮という役目だった。
あらゆる技を身につけて、一人前と認められれば、早くてその次の日から白珠は外に出ることを許される。そして肉付きのいい魅力的な蜜食精霊を誘惑し、ここまで連れ込むことこそ白珠の使命である。
金剛が新たに作った部屋の中に、特別な食堂が設けられている。そこで白珠は連れ込んだ精霊に身を捧げることを命じられていた。
白珠の仕事は単純そうでいてとても複雑なものである。初対面の精霊たちに気に入られ、疑われることなく食堂まで連れ込まなくてはならない。
そして、金剛の準備が整うまで、己の蜜と技によって彼らの注意を惹きつけておかねばならないのだ。とても恐ろしく、愛のない仕事だ。それでも、白珠は承諾した。
全ては瑠璃のためである。
――早く覚えて、表舞台に立たないと。
瑠璃の身を按じ、焦っていた。
けれど、その一方で逃げ出したくなるような拒絶感も無視できなかった。
気が重いのは、瑠璃以外の精霊に蜜を吸われることだけではない。
白珠の仕事は誘惑して油断させることだけだ。だが、その先に何が待っているのか、金剛からしっかりと教えられていた。
蜜食精霊の血肉は、肉食精霊である花蟷螂にとって貴重な食材である。食糧庫にぶら下がる保存肉が切れないようにするためには、出来るだけ多くの獲物を捕らえなくてはいけない。それこそが、日々の営みであった。
つまり、白珠が体を許す相手は、遅かれ早かれ皆すべて金剛の食欲を満たすための獲物であるのだ。
――ああ、なんておぞましいの!
白珠は俯いたまま心の中で嘆いていた。
肉食精霊が他の精霊を襲うのは、神々の定めた残酷な掟である。大地に栄える精霊たちには到底抗えない血の掟であり、否定しようがない。
それでも、白珠は恐れを感じていた。月花の精霊である自分が生き残るために強い者に力を貸して何も知らない蜜食精霊たちを陥れる行為は罪ではないのかと。
瑠璃とふたりで生き残るために、知らない誰かを犠牲にし続ける。その途方もない罪の大きさを予感し、白珠の心を震え上がらせる。
騙された者たちは、きっと自分を呪うだろう。今まで向けられたこともないような侮蔑の眼差しを受けることになるのだろう。
――でも、仕方ないわ。
金剛の食事が終わり、白珠もまた杯を返す。
蜜薬の材料のことも、もうすでに理解している。同胞たちの血と肉で出来た薬を口にした以上、自分はもはや純粋無垢な月花ではない。
今更、純情ぶっているわけにもいかないのだ。
「魔女さま、わたしは後どのくらいで表舞台に立てるのでしょうか」
「せっかちな子ね。身体が疼いているの? 心配せずとも五日もあれば立てるでしょうね。もっとも、お前の努力次第ではあるけれど」
優しげな頬笑みを向けられ、白珠は頷いた。
「もちろん、努力いたします。魔女さまの月花として、多くの精霊たちを呼び込めるような魅惑的な花を目指します」
「お前なら、きっと大丈夫よ」
「有難うございます。頑張ります」
白珠は必死だった。
瑠璃に甘えることさえも、誰かの許可を取らねばならないなんて、これまでは考えられなかった。しかし、こんな日々が続くにつれて、白珠の精神は崩れかかっていた。
瑠璃に会わせてくれる金剛の事が、女神のようにすら思えたのだ。
蜜薬のせいだろうか。はたまた彼女の態度による混乱のせいだろうか。瑠璃の待遇を度外視しても、白珠はすっかり魔女のために咲く花としての自覚を持ち始めていた。
金剛はそんな白珠の姿を見つめ、ほくそ笑んでいた。蜜薬の効果はいつだって高い。けれど、蜜の誘惑に抗えない蜜食精霊たちはともかく、誘惑が利かず、逃げる意思のある花の精霊たちを騙して飲ませるのは至難の業だった。その点、この白珠という月花は自らの意思で蜜薬を飲み続けている。
殺さずとも言う事を聞いてくれる月花。その存在は、金剛にとって、非常に都合のいい財産だった。
「昼頃に、これまでの努力の成果を見せてもらうわ。その結果次第で、夕暮れ時は瑠璃に蜜をあげてきてもいい」
金剛の言葉に、白珠は目を輝かせた。
先の見えない不安な日々の中での愛する人との時間は、たとえ制限があろうとも白珠にとっては慈雨に等しかった。自ら頑張ろうと思わせる技を金剛は心得ている。それによって自分が手玉に取られていることなど、今の白珠にはどうでもよかった。
「分かりました!」
瑠璃に会える。それだけで白珠は幸せだった。
嬉しい気持ちは隠しきれない。頑張れば、瑠璃に会わせてもらえる。彼女に自分の蜜を吸ってもらえる。楽しみで仕方なかった。
「良い子ね、白珠」
金剛はにこりと笑い、静かに命じた。
「それではさっそく、練習部屋に行きなさい」
白珠は快く、それに従った。
教えて貰ったことを復唱し、言葉遣いから立ち振る舞いまで徹底的に心身に叩き込む。全てが蜜食精霊に気に入られるための技であるらしいが、生みの母からは一切教えてもらわなかったことがない。
呼び込まなくたって、誰かが見つけてくれる。むしろ、見つからない方が良い事もある。母からはそう教えられていたのだ。瑠璃と二人で暮していたときだって、誰かに気に入られる必要はなかった。瑠璃が好いてくれればそれでよかったのだから。
だが、これからは違う。
出来るだけ多くの精霊に気に入られ、呼びこまなくてはいけない。
狩りの際は金剛も見守るそうだ。食事に誘うふりをして強引に攫おうとする野蛮な者から白珠を守るために。
それほどまでに際どい立ち位置であることを思うと、今からでも緊張するものだった。しかし、白珠は練習を怠らなかった。金剛の守護を信じて、ただひたすら蜜食精霊たちに気に入られる努力を重ねる。
呼吸するのと同じように、魅惑的な仕草を自分のものにしていった。
朝食からしばらく、白珠はひたすら練習に打ち込んだ。自信のないことから始め、満足いくと自信のあることも確認する。知識では教えられても、未知の事も多い。とくに、精霊の男たちとの食事というものは、これまでずっと瑠璃の愛花として過ごしてきた白珠にとって想像しにくい事柄だ。それでも、とりあえず金剛に言われた通りに練習し、頭に入れなおしていった。
だが、ひとりでし続けるのには限界があった。退屈になることもまた、問題である。昼が近づく前に、白珠はとうとう練習を止め、そっと練習部屋を出た。
金剛はまだ顔を出していない。黙って瑠璃に会いに行こうだなんて思ってはいない。勝手なことをすれば、自分だけでなく瑠璃の努力までも無駄にしてしまう。この状況に置いて、それは相当な裏切り行為だった。
だから、瑠璃のいる地下への入り口には近づかず、他の部屋の周辺をぶらついた。
地上にある部屋は、何処も胡散臭い空気が漂っている。
日当たりの悪い食糧庫は勿論、その近くにある人形や蜜薬の保管された部屋もまた不気味だった。自分も逆らえば、あの部屋の住人にされてしまうだろう。そう思うと近づくことさえ白珠には躊躇われた。
白珠が好んでいるのは数少ない日当たりのいい部屋だった。東側に位置する部屋の数々は、明り取りの天窓が必ずといっていいほど開いており、昼の間はとくに明るい。一番端にある部屋などは、高い位置の壁に大きな穴が開いているため、空を飛ぶことのできる金剛が出入りをするのに使っていた。
昼の間、この部屋はとにかく明るい。
金剛の目を盗んで、裏玄関ともいえるこの部屋になんとなく居座ることが、白珠の気晴らしでもあった。朝に限っては、日光浴室として金剛に指示された部屋よりもいい光が浴びられるからだ。
今日も白珠は無意識にその部屋に向かっていた。光を浴びて、金剛に呼ばれるまでを過ごそうと思ったのだ。だが、近づいてみれば、そこには先客がいた。もちろん、金剛である。日の当たる場所から穴を見上げていた。
すぐに隠れ、白珠はそっと窺った。
――何処かへ出かけるのかしら?
しかし、その視線を追って見上げた時、白珠は息を飲んだ。
思わぬ客人がいたのだ。それも、よく見知った人物が。
「調子はどうです? 魔女さまほどの御方ならあっという間に手懐けられたのでしょうね」
愛らしく笑いながら金剛にそう言ったのは、小鳥の精霊。その人物を白珠はよく知っていた。見間違うはずもない。親切にも白珠に瑠璃の危機を報せ、恐ろしい魔女の元まで案内してくれたはずの瑪瑙であったのだ。
「手懐けはした。けれど、育つには時間がかかるわね。と言っても、あの子は賢いからお前よりはだいぶ早い」
「ちぇっ、手厳しいなあ。でも、魔女さま、一人前になった後のボクはお役に立っているはずですよ。なんたってボクはあなたの為に飛び回っているのですから」
「当然でしょう。お前は私の愛鳥なのだから」
――愛鳥ですって?
白珠は驚愕した。思いがけない二人によって、思いがけない会話が繰り広げられている。
助けようとしてくれたはずの彼。何度も話しかけに来てくれた彼。どうして彼が金剛の元まで案内してくれたのか。白珠はじわじわとその裏の理由に気づいてしまった。
はめられたのだ。
「えへへ、魔女さまのためなら西へ東へですよ。これからも命を懸けて頑張ります!」
瑪瑙は上機嫌でそう言った。金剛は呆れ気味に首を傾げる。
「別に命を懸けなくていいわ。これからも安全な場所から奴らを監視しなさい。お前はこの理想的な要塞を見つけてくれただけで十分仕事をしたわ」
「気に入っていただけて何よりです。ここなら胡蜂どもも簡単には攻め込めませんからね。瑠璃や朱花に感謝しなくちゃ。あ、彼女たちを見つけたのがボクだってこともお忘れなく。ついでに瑠璃の囲っていた世間知らずの月花もね」
にやりと笑う瑪瑙を見て、白珠の心に怒りの炎が宿った。
すべて、彼の仕業だったのだ。愛らしい外見と麗しい声色に誤魔化されているだけで、その内面はあまりにも醜い。白珠はぐっと怒りを堪え、彼らのやり取りを見守った。
「勿論、忘れはしないわ」
金剛は気怠そうにそう言って、手を差し伸べた。
「お前を手に入れて以来、情報集めには困らなくなった。お陰で迫りくる危険も察することが出来たし、友人とのやり取りもだいぶ楽になったわ。ただし、瑪瑙、覚悟しなさい。私が死ねば、お前もただじゃ済まないでしょう。私に加担すればするほど、あの胡蜂どもを敵に回すことになる」
「分かっていますとも」
胸を張って瑪瑙は答える。
「お忘れですか、魔女さま。ボクは裏切れない。魔女さまと運命を共にするしかないのです。なんたってボクは蜜薬を飲んでしまったのですから」
「――そうね。でも、お前はそれ以上の働きをしているわ。今日だってこれから偵察に飛んでくれるというのだから」
感心するように金剛は言い、そして静かに付け加えた。
「それで、何が欲しいの?」
目を細める彼女に、瑪瑙は苦笑いを浮かべた。
「欲しい、ってそんな。ボクはただ魔女さまに喜んで欲しいだけで……んまあ、強いて言うならば、かねてから言っている通り、ボクに魔力を授けてくれるような大精霊の殿方との縁を結んで欲しいかなってくらいで」
照れながら言う彼を見上げ、金剛はため息をついた。
「出会った時から相変わらず諦めていないのね。でもいいわ、そこまで望むのなら。喜びなさい。その機会は約束できるわ」
そう言って、金剛はさらに声を潜めてから瑪瑙に告げた。
「ついさっき伝令がきたの。胡蜂の動きを巡って、ここに親しい大精霊の友人が駆けつけてくれることになった。紅玉という名前よ。蜻蜓の男で、気に入った精霊を捕らえて操る魔力を継承しているの」
白珠はぎょっとした。いつの間に、そんな予定が決まっていたのだろうか。この家にまた違う精霊がやって来るなんて信じられない。それも、蜻蜓だなんて。
肉食精霊が二人になる。それは、白珠にとって不安でしかない事だった。
――ここは、瑠璃とわたしの家なのに。
「紅玉さま、ですか。前に確か伝令を任せていただきましたよね。へえ、魔女さまによく似たお力を持っているのですね」
「ええ、そうね。厳密には違うけれどね。彼の力はもともと手に負えない乱暴者を制御したいと懇願した蜉蝣の男に、月の女神がお与えになった神力だそうよ。それが巡り巡って、いつの間にか蜻蜓に受け継がれた。紅玉はその力でかつて蜉蝣男のものだった領地を治めているの。きちんとした後継者は領地にいるそうだけれど、大精霊というものは後継者を最低でも三人ほど確保するものよ。そのうちの一人は手放して放浪させるのが私たちの常。空を飛べるお前ならば、きっと気に入られるわ」
「ぜひとも、そうであって欲しいです」
にこにことしながら頷く瑪瑙に向かって、金剛は目を細めた。
「私の紹介次第でもあるわね。良い紹介をされたいのなら、奔走しなさい」
「勿論です」
胸を張って応えると、さっそく瑪瑙は外へと向いた。
「さてと、ボクはそろそろ偵察に行ってきます。胡蜂たちの様子や、周辺の花々の噂話をかき集めてきましょう。報告はまた夕暮れ時に」
「ええ、気を付けて」
「はい、魔女さま。行ってきます」
そうして、瑪瑙は飛び立っていった。
彼の気配が遠ざかるのを感じながら、白珠はたったいま生まれたばかりの怒りや恐れの感情を必死に抑え込んでいた。
まさか瑪瑙が彼女の配下だったなんて。彼がいなければ、自分たちはこうならなかった。瑠璃と自分の生活は変わらないままだったのに。
遅れて悔しさがこみ上げてきた。少しの間でも、彼を信じた自分がバカだった。
だが、その感情も長続きはしなかった。
「白珠、おいでなさい」
金剛の声が聞こえてきたのだ。
はっと我に返り、白珠は中を窺った。金剛は迷いなく白珠の隠れている場所を見つめている。気づいていたのだ。驚く彼女に向かって、金剛は呆れたような表情で言った。
「あなたの蜜の香りが分からないと思って?」
白珠は観念して姿を現した。金剛の前へと向かい、そして跪く。
「すみません、魔女さま。盗み聞きするつもりはなかったのです」
「別にいいのよ。盗み聞きであってもね」
短くそう言って、金剛は白珠の頭を撫でる。
「お前もいずれは知っておかなくてはならないことだもの」
頬に触れ、金剛は白珠の目を見つめる。白珠は後ろめたさを感じながらも勇気を出して彼女に訊ねてみた。
「魔女さま……あの、胡蜂たちと何かあったのですか?」
だが、金剛は首を振る。その指先で白珠の唇を閉ざし、言い聞かせた。
「今はとにかく教えたことを覚えなさい。いずれ分かる時がくる。嫌でも巻き込まれる日が来るでしょうから」
白珠は金剛を見つめ、そのまま押し黙った。
いつになく金剛の気迫が感じられない。疲れ切っているような、面倒くさがっているような、倦怠感でいっぱいだった。だが、それだけだろうか。少なくとも白珠は感じ取っていた。
金剛は何かに怯えている。何かを怖がっているのではないか。そんな不安が頭をよぎったのだ。




