第58話 証言より先に命を守れ
扉の前で一番信用されないのは、正しいことを言う人間だ。
三階の共用廊下は狭い。
音が逃げにくい。
だから、階段を上がってきた足音は余計にはっきり聞こえた。
二人。
片方は重い。
もう片方は止まり方が短い。
玲司は扉の前から半歩だけずれた。
覗き穴の正面を外す位置だ。
「下に二」
ユラがイヤホンへ小さく落とす。
「住人の歩き方じゃない」
「一人は工具箱っぽいの持ってる」
カナデがすぐに言う。
「管理側の入館記録なし」
「この時間に補修は入ってないわ」
玲司は扉へ向けて短く言った。
「聞こえたか」
向こうの男は答えない。
だが息が近くなった。
チェーン越しに覗き穴へ寄っているのが分かる。
「証言はあとでいい」
玲司は声量を上げない。
「先に出る準備をしろ」
「……は?」
「今ここにいる理由は、それだけだ」
「話を吐かせるためじゃない」
「お前を生かして持ち帰るためだ」
扉の向こうで、短い沈黙。
その沈黙の間に、下の足音は二階まで来ていた。
男が低く言う。
「……ふざけるな」
「誰が信用するかよ」
「しなくていい」
玲司は即答した。
「今は信用じゃない」
「順番の話だ」
「順番?」
「喋るのは生きてからだ」
扉の向こうで、小さく息を呑む音がした。
その間に、ミオの声が静かに重なる。
「……裏階段、一本だけ使えます」
「二分くらいなら」
「一階の共用洗濯室、今は無人です」
ユラも続ける。
「外は軽トラ一台」
「さっきからエンジン切ったまま」
「待ち合わせ感すごい」
レナが壁に寄ったまま吐き捨てる。
「黒だな」
下の階で、金属が小さく鳴った。
工具箱か、チェーンキーか。
いずれにしても、善意の補修とは思えない音だった。
玲司は扉へさらに近づく。
「お前、正式窓口に出なかっただろ」
「……」
「出たら消されると思ってる」
「それはたぶん正しい」
男はまだ開けない。
だが、もう追い返すだけの声ではなかった。
「お前らも同じだろ」
「黒峰の名前を聞きに来たんだろ」
「聞きには来た」
玲司は認める。
「でも、それより先に切るものがある」
「この部屋だ」
男が覗き穴越しにこちらを見ている気配が変わる。
怒りじゃない。
測っている。
玲司はそこで、あえて一つだけ本音に寄せた。
「俺たちは証拠を拾う」
「でも、人を捨ててまではやらない」
「……」
「捨てる組織なら、最初から来てない」
階段の音が止まった。
二階と三階の踊り場の間。
止まり方が静かすぎる。
様子を見ている側の止まり方だ。
カナデの声が少しだけ低くなる。
「正面階段、停滞」
「来るわね」
ユラが廊下の窓から外を見たまま言う。
「軽トラの中、もう一人いる」
「ほんと嫌なチーム構成」
男の呼吸が少しだけ荒くなる。
「……何でそこまで」
「見えるからだ」
玲司は短く答えた。
「覗き穴の死角に立った跡」
「昨日の監視復旧」
「この時間にない補修」
「お前を守る準備じゃない」
向こうは黙った。
黙ったまま、たぶん理解している。
追われている人間は、追われる側の空気をよく知っている。
やがて、チェーンは外れないまま、扉が数センチだけ開いた。
暗い室内。
痩せた男の顔。
無精ひげ。目の下の隈。右足をかばう立ち方。
玲司は顔を見た瞬間、違法採掘現場の下っ端たちの装備を思い出した。
安い作業手袋。安いヘルメット。あの場にいた「使われる側」の一人なら、こういう顔をしていてもおかしくない。
「……五分だけだ」
男が掠れた声で言う。
「五分で帰れ」
「五分もいらない」
玲司は答えた。
「荷物をまとめろ」
「持つのは身分と薬だけでいい」
「かさばるものは捨てろ」
男が目を剥く。
「は?」
「出る準備をしろって言ってる」
「何で従う」
「従わなくてもいい」
「でも、あと一分で順番がなくなる」
その時だった。
下から、妙に丁寧な声が響く。
「管理ですー」
「三階、漏水確認でーす」
ユラが小さく舌打ちする。
「雑」
「でも来る」
カナデが言う。
「玲司。もう切って」
扉の向こうの男の顔から、最後の迷いがまだ消えない。
だから玲司は、それ以上説得を重ねなかった。
「一つだけ答えろ」
「……何だよ」
「違法採掘の現場で、黒峰の名前を聞いたか」
男の喉が動く。
「……聞いた」
「搬出側のやつが、そう呼んでた」
「腕章も見た」
それで十分だった。
十分だが、まだ今じゃない。
「じゃあ余計にここは駄目だ」
玲司が言うと同時に、廊下の端でレナが一歩前へ出る。
「玲司」
「分かってる」
男へ向き直る。
「今は証言じゃない」
「命だ」
廊下の向こうで、ノックが三回鳴った。
「管理です」
「開けてください」
やわらかい声だった。
だからこそ、余計に薄気味悪かった。
玲司は扉の隙間へ手を差し込む。
「出るぞ」
男はまだ完全には信用していない顔だった。
でも、ノックの二回目が鳴る前に、荷物袋を掴んだ。
遅かった。
でも間に合わないほどじゃない。
次は、話を聞く番じゃない。
口を塞ぎに来た連中より先に、連れ出す番だった。




