第35話 噂を集める耳
噂は、形がないくせに経路だけは残る。
翌日の昼休み。
玲司は図書室の奥、窓際でも出入口でもない中途半端な席に座っていた。
人が来ても不自然じゃない。長く話しても目立ちすぎない。
そういう場所を選ぶのは、もう癖だった。
ミオは返却本を棚へ戻し、貸出票の束を整えてから対面に座った。
音がない。
気づきにくいのに、そこにいると邪魔ではない。
図書室向きの動き方だと玲司は思った。
「昨日の続きだ」
玲司が言うと、ミオは小さくうなずく。
「はい」
「名前は知らないと言ったな」
「言いました」
「じゃあ、何を知ってる」
ミオはすぐには答えなかった。
手元の返却カードを揃えながら、必要な順番を選んでいるみたいな間があった。
「学院の中で、噂が自然に広がっているわけじゃないこと」
「具体的には」
「消え方です」
ミオの声は相変わらず小さい。
「普通の噂は、放っておいても薄くなるだけです。でも最近の事故絡みは、薄くなる前に切られてます。掲示板の投稿が消えるのも、非公式チャットの話題が別の話に流されるのも、速いです」
「非公式チャットまで見てるのか」
「図書委員は、そういうのが回ってきやすいので」
それはあり得る。
図書委員は目立たない。文化部系の連絡網にも、勉強組にも、学内の端の方にも自然に出入りできる。
中心にいないからこそ、端の話が集まる。
「他には」
「話す人の偏りです。噂を広げる人と、止める人が、毎回ちょっと違います」
「違う?」
「同じ人が全部やってる感じじゃないです。事故の種類で、反応する人が変わるので」
玲司は眉を寄せた。
それは重要だった。
学院の中に一人の密告者がいるのではなく、複数の“反応点”がある可能性。
まだ仮説でしかないが、放っておくには危うい線だ。
「設備事故に詳しい人」
ミオが指を一つ折る。
「生徒会まわりに話が早い人」
もう一つ折る。
「それと、外の探索者掲示板をわざわざ見てる人」
「……何でそこまで分かる」
「語彙です」
あまりに静かな即答だった。
「学院の人しか使わない言い回しが、外の匿名掲示板に混ざってます。逆に外の言葉を、学院内で急に使い始める人もいます」
玲司は一瞬だけ言葉を失った。
見ている場所が細かい。
現場の痕跡じゃない。
人の書き癖。話題の流れ。消されたあとのズレ。
そういう“痕跡以外の網”の芽みたいなものを、もうこの後輩は拾っている。
「先輩」
ミオが言う。
「この前の、影の救助班の噂も」
玲司は目を上げた。
「何だ」
「最初は普通に広がってました。でも、学院の中でだけ変な止まり方をしてます。怖がって黙るんじゃなくて、“話しても仕方ない”って空気に寄せられてる感じです」
「誰が寄せてる」
「まだ切れてません」
ミオは首を横に振る。
「でも、放っておかれてるんじゃなくて、触られてるのは確かです」
外から入ってきた情報が、学院の中で都合よく整えられる。
それはつまり、学院の側にも見張る理由があるということだ。
玲司は椅子の背にもたれないまま、短く息を吐いた。
「……危ないな」
ぽつりと出た言葉に、ミオは少しだけ首を傾げた。
「わたしが、ですか」
「お前も。見てるものも」
ミオはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「先輩も、同じだと思います」
言い返さなかった。
その通りだったからだ。
「どうして俺に言う」
そこを聞くと、ミオは返却カードを揃える手を止めた。
「先輩は、消えたあとの話じゃなくて、消える前の方を見てたので」
「……」
「あと、事故の本を読む人はいても、設備年報まで一緒に見る人は少ないです。だから、たぶん同じ場所を疑ってるんだろうなって」
静かな観察だった。
こっちのことを好意で見ているわけじゃない。
必要な線を拾って、繋げているだけだ。
それが、逆に厄介でもあり、信用できる部分でもあった。
図書室の入口で、数人の一年が笑いながら入ってくる。
ミオはすっと立ち上がり、貸出カウンターの方へ戻った。
さっきまでこっちに座っていたことすら、誰も気にしないだろう。
一年たちの手続きを終えて、また戻ってくる。
今度は本を二冊持っていた。
「これ、先輩向きです」
一冊は去年の学院年報。
もう一冊は、図書委員会の備品入れ替え記録だった。
玲司がそれを見ると、ミオは小さく続ける。
「図書室の噂って、本のことだけじゃないので」
「どういう意味だ」
「鍵です」
その一言で、玲司の視線が変わる。
「鍵?」
「保管庫と資料室と、倉庫の貸出記録。最近、少し変です」
玲司はそこで本を閉じた。
鍵まで見ているなら、もうただの観察者じゃない。
学院の中にある偏りへ、自分から手を伸ばし始めている。
「神谷」
「はい」
「お前、自分で分かってるか」
「何がですか」
「その耳は、放っておくには危ない」
ミオは少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。
「だから、昨日から考えてました」
「何を」
「外にいる方が危ないか、中に入る方が危ないかを」
玲司は無言になる。
図書室の空気は静かなままだ。
けれど次の一言で、たぶんもう戻らない。
ミオは本を抱えたまま、いつもの小さな声で言った。
「黙っていてほしいなら、わたしも使ってください」




