第33話 廊下ですれ違うだけ
おかしいと思ったのは、静けさじゃなくて自然さだった。
違法採掘の件が一部で噂になってから、学園内の空気は少しだけ変わっている。
誰もTRACEなんて名前は知らない。けれど、“正体不明の救助班”という言葉だけは、匿名掲示板や探索者系の短い動画経由で、じわじわ学院の内側まで滲み始めていた。
だから玲司は、朝から何度も周囲を見ていた。
見張っているわけじゃない。見られている前提で、どこまで普通に見えるかを測っていた。
二年の廊下。
朝比奈ユラは友人たちの輪の中心で笑っている。
冬月カナデは風紀委員の腕章をつけたまま、掲示物の位置を直していた。
どちらも玲司の方なんて見ていない。
それでいい。
それなのに、同じ空間にいるだけで少し疲れるのは、たぶんこっちが“知っている側”だからだ。
「水城、プリント」
担任に呼ばれ、玲司は前へ出た。
教卓脇で配布物を受け取る。その時、すぐ横をユラが通った。
「先生、それ後ろ足りないかもー」
いつもの明るい声。
玲司には一瞥すらくれない。
「朝比奈、気づいたなら配ってくれ」
「はーい」
差し出された紙束が、玲司の手元をかすめる。
触れない。ぶつからない。立ち止まらない。
見事なくらい、ただのクラスメイトだった。
玲司は自分の席へ戻りながら、少しだけ眉を寄せた。
やりすぎだな。
昼休み、今度はカナデだった。
廊下の角で資料を抱えた玲司の前に立ち塞がり、彼女はいつもの冷たい顔で言う。
「水城くん。通路の中央で立ち止まらないで」
「……悪い」
「最近、資料室の利用が多いようだけれど。返却期限は守っているのかしら」
周囲の何人かが、また風紀委員に目をつけられてる、くらいの顔でこっちを見る。
玲司は肩をすくめた。
「守ってるよ」
「ならいいわ。次は気をつけて」
それだけ言って去る。
刺々しい。だが不自然ではない。
むしろ、少し距離がありすぎる優等生そのものだ。
玲司は背中を見送りながら、内心で小さく息を吐いた。
カナデは徹底しすぎる。
でも、あれくらいでちょうどいいのかもしれない。
学院は記録で動く場所でもあるが、それ以上に噂で広がる場所でもある。目線と立ち位置だけで、関係性は浮く。
午後、さらにもう一人。
階段踊り場を曲がったところで、三年の制服が視界を横切った。
橘レナだ。
「あ」
言いかけた誰かの声を潰すみたいに、レナは玲司の肩を軽く押した。
「邪魔」
ぶっきらぼうな一言。
そのまま通り過ぎる。
だが玲司は、押された位置を見て少しだけ目を細めた。
すぐ後ろの掲示板の角が緩んでいる。さっきまで誰かが作業していたらしい。あのまま立っていれば、金具が落ちてきていた可能性があった。
玲司は振り返らない。
レナも振り返らない。
周囲から見れば、ただ雑に先輩にどかされた後輩だ。
それで済むなら、その方がいい。
放課後。
旧校舎側の階段裏に、時間差で三人が集まった。
最初に来たユラが、壁へ寄りかかりながら言う。
「いやー、今日すごかったね。わたしたち、仲悪いグループみたいになってたけど」
「実際、表ではそのくらいでいい」
玲司が返すと、ユラは口を尖らせた。
「玲司さ、たまにそういう言い方するよね。人の心とか置いてくやつ」
「置いていくつもりはない。見せないだけだ」
「似たようなもんでしょ、それ」
そこへカナデが来る。
足音まで静かだ。
「見せない方がいいのは事実よ。今日だけでも、例の噂を話している生徒を三組見たわ」
「もうそんなに?」
ユラが目を丸くする。
「“影の救助班”がどうとか、“学院の生徒じゃないか”とか。その程度だけれど」
玲司は壁にもたれず立ったまま、短く言う。
「ならルールを増やす」
ユラが嫌そうな顔をした。
「また?」
「まただ」
玲司は指を折るように、必要なことだけを並べた。
「学校では必要以上に話さない。視線を合わせすぎない。同じ場所から同時に消えない。庇う時も、今日みたいな分かりやすいやり方は減らす」
「今日、分かりやすかった?」
ユラが聞く。
「朝のプリント」
「え、あれ?」
「自然だったけど、寄せ方がうまかった。うますぎると逆に目立つ時がある」
ユラが少しだけ笑う。
「褒められてんだか怒られてんだか」
「両方よ」
カナデが即答した。
「朝比奈さんは、見せ方が上手い。でも、上手い人ほど“見せている”ことに気づく人もいる」
「冬月さん、その言い方だとわたしだけ危ないみたいじゃん」
「あなたは危ないわ。良くも悪くも、人の目を集めるから」
「はいはい、人気者はつらいねえ」
軽口に戻したのは、空気を少し緩めるためだろう。
玲司はそれ以上触れなかった。
「レナにはあとで俺から伝える」
「先輩、ちゃんと守るかな」
ユラが言うと、玲司は少しだけ考えた。
「守る。あの人は雑に見えて、線は外さない」
カナデが静かにうなずく。
「問題は学内の観測よね。噂だけじゃなく、記録の方も動いている気がする」
「俺もそう思う」
違法採掘の件以来、学院内で何かが速い。
噂の収束も、教師側の反応も、妙に早い。
黒峰が外から嗅ぎつけてくる気配までは、まだ玲司たちは知らない。
それでも、“こちらを測る目”が増え始めていることだけは、肌で分かった。
「しばらくは学校を現場だと思え」
玲司が言う。
「ダンジョンほど危なくはない。でも、露見の線はこっちの方が細い」
ユラは壁から背を離した。
「了解、司令塔。廊下ですれ違うだけ、ね」
「それで十分だ」
「十分じゃないけどね」
小さくそう言ったのは、ユラの本音だったかもしれない。
だがそこへ踏み込む話じゃない。
三人は時間をずらして解散する。
玲司が最後に校舎へ戻った時、空はもう薄く暗くなっていた。
そのまま資料室へ向かおうとして、途中で足を止める。
今日は資料室じゃない。
図書室の方だ。
事故報告書の補助資料。過去の新聞縮刷版。学院外の小さな事故記事。
記録そのものじゃなく、記録の外側を拾うには、そっちの方がいい。
静かな図書室の扉を開けると、紙の匂いがした。
カウンターの向こうにいたのは、見覚えのない後輩だった。
小柄で、長い黒髪を耳にかける仕草だけが、やけに目につく。
彼女は玲司を見るなり、手元の本を一冊だけ持ち上げた。
「……先輩。これ、探してましたよね」
表紙には、先週の学院事故報告抄録とあった。
玲司は、その場でほんの少しだけ立ち止まった。




