第1話 崩れる実習場
最初におかしいと思ったのは、音だった。
低層実習区画の第三採掘通路。
蒼栄学院が外部クランと組んで行う合同実習で、生徒たちは班ごとに坑道へ散っていた。資源採集と簡易戦闘、現場判断の基礎。名目はそういうものだ。
鉄杭を打つ音。
工具箱の開閉。
教員の指示。
その全部の下に、細く乾いた軋みが混ざっていた。
玲司は足を止めた。
壁面の亀裂は浅い。
見た目だけなら、低層では珍しくもない。
だが、その周囲の粉塵が妙だった。通路奥へ吸われている。魔力の流れも、わずかに逆巻いている。床へ触れると、下から返る振動が一定じゃない。
負荷が一点に寄っている。
《痕跡鑑定》は、派手な未来視じゃない。
壁の傷。床の歪み。魔力残滓。靴跡の乱れ。
そういうどうでもいいものを拾い上げて、起きる前の事故の形だけを先に見せてくる。
今、玲司の頭に浮かんでいるのは最悪の順番だった。
最初に右上の補助梁。
次に右壁。
三秒遅れて床。
逃げ遅れるのは、指示待ちで足を止めた一団。
「おい、水城。何してる」
班の先頭にいた男子が振り返る。
玲司は返事をせず、床の継ぎ目を見た。新しい擦り傷がある。搬出ワゴンを無理に寄せた跡だ。左の退避通路側にも、資材箱が不自然に積まれていた。
逃げ道まで細くなっている。
嫌な予感じゃない。
形になった違和感だった。
玲司は巡回していた実習担当教員へ向かった。
「先生。この通路、止めた方がいいです」
教員が怪訝そうに眉を上げる。
「何を見た」
「壁の歪みです。床の沈みもおかしい。支柱に変な負荷がかかってる。左の退避導線も狭くなってます」
教員は通路を一瞥した。
それだけだった。
「目視で異常はない」
「今はそう見えるだけです。奥の採掘跡も掘り直されてる。自然な劣化じゃない」
「勝手な判断で実習を止めるな」
短く切られる。
玲司は奥歯を噛んだ。
その時、黒いジャケット姿の男が横から入ってきた。
黒峰クランの担当者。学院側が安全確認まで委託している、外部の現場責任者だ。
「どうしました?」
「水城が危険だと言っている」
男は玲司の足元を見て、それから薄く笑った。
「へえ。うちの安全確認より先に分かるんだ」
周囲の何人かが笑う。
玲司は笑わなかった。
「危ないです。今なら戻せます」
「根拠は?」
「床の振動と、粉塵の流れと、支柱の削れ方です」
「補助職気取りが口を出すな」
穏やかな声だった。
穏やかなまま、完全に切り捨てる声でもあった。
「現場は怖がりの勘で止めるものじゃない。経験と記録で回すんだよ」
「勘じゃない」
「なら証明してみろ」
言われて、玲司は喉が詰まる。
《痕跡鑑定》の見え方を、この場でどう説明する。説明したところで実技下位の自分に信用が乗るわけもない。
後ろで小さく声がする。
「また始まった」
「水城ってたまにこういうのあるよな」
「怖いなら後ろいればいいのに」
軽い声だ。
悪意というほどじゃない。
ただ、信じる理由がないだけ。
玲司は通路を見た。
右上の補助梁。新しすぎるボルト。削られた支柱の縁。資材箱で細くされた退避導線。奥でわずかにズレた養生ネット。
噛み合いすぎている。
事故じゃない。
そう思った瞬間、背中が冷えた。
「先生、退避だけでも」
「しつこいぞ、水城」
教員の声が強くなる。
周囲の視線が一気に集まり、玲司だけが浮く。
ここで言い募るほど、警告の価値が落ちる。
信頼のない人間の正論は、回数を重ねるほど雑音になる。
玲司は黙った。
黙りながら、退避に使える場所だけを頭に入れ直す。
左は半分塞がれている。
右の細道は狭いが、今なら三人ずつ流せる。
先頭を止めるなら、採集棚の手前だ。
そこを越えたら遅い。
進行合図の笛が鳴った。
班が動く。
教員も、黒峰の担当者も、予定通りの顔で前へ出る。
玲司は息を吸った。
三秒後に落ちる。
もう警告じゃ足りない。
そう理解した瞬間、自分が叫ぶしかないと腹が決まった。




