滅びなかった世界
第十六話(IF) 世界は滅びなかった
「……イヴ。現在のインフラ崩壊率は?」
『マスター・佐紀。地上世界のインフラ崩壊率は0.0%です。各インフラ、電力、通信、交通網、すべて正常に稼働しております』
地下150メートルの絶対要塞。白磁のラウンジに設置された巨大ホログラムモニターには、雲一つない快晴の秋空の下、平然と行き交う首都高速の渋滞と、平和そのものの街並みが映し出されていた。
「……時刻は?」
『崩壊予定時刻と計算されていた2026年9月2日、19時45分を通過いたしました。現在、19時46分です』
静寂。
あまりにも残酷なまでの、平和という名の静寂がラウンジを包み込んでいた。
佐紀の手から、結晶ガラスのワイングラスが滑り落ちそうになるのを、彼女はかろうじて踏みとどまった。
三十年。
かつての自分が惨殺され、肉を削ぎ落とされたあの凄絶な夜から、時間跳躍のスキルを得て過去へと戻り、今日この日のために生きてきた。
地下要塞の建設、幾千機もの戦闘ドローンの製造、数百万人が何十年も生き延びられる食料の【空間収納】への蓄積、そして「あの三人」を確実に地獄へ叩き落とすための完璧な復讐シナリオ。
そのすべてが――完璧な「空振り」に終わったのだ。
「そんな……バカな……。私の計算が間違っていたというの? 歴史の改変によって、世界の崩壊そのものが回避された……!?」
『分析結果を表示します。マスターが過去30年間に渡って行った巨額の資金投入、先進技術の特許公開、および環境・エネルギー関連の裏工作により、旧世界で発生するはずだった資源枯渇と大規模紛争のトリガーが事前に消滅したものと推測されます』
人工知能イヴの声は、相変わらず淡々としていた。
『結論として、マスターご自身の圧倒的な準備行動そのものが、世界の終末を未然に防いでしまいました』
「私が……世界を救ってしまったの……!?」
佐紀は頭を抱えた。
復讐のために世界滅亡に備えて莫大な投資をし、裏から社会構造を強化し続けた結果、地球は滅びるどころか、歴史上稀に見る「超・安定期」へと突入してしまったのだ。
「冗談じゃないわよ……! じゃあ、この地下150メートルの超要塞は!? 【空間収納】にぎっしり詰まった缶詰と乾パン数億人分は!? 数万台の殺戮兵器ドローンはどうするのよ!?」
『地下要塞の維持費および減価償却費は年間約1200億円と試算されます。地上世界が法治国家のままである以上、固定資産税および地権関連の課税が継続して発生いたします』
「平和って……平和ってこんなに惨めなものだったかしら……!?」
佐紀の悲痛な叫びが、何の意味もなくなった防音仕様の壁に虚しくこだました。
第十七話 平和な世界の「加害者」たち
終末が来なかった以上、佐紀が思い描いていた「極限状態での心理実験」も「狂気に満ちた殺し合い」も成立しなくなった。
法治国家が厳然と存在する世界で、誰かを監禁したり殺害したりすれば、ただの「猟奇殺人犯」として警察に追われるだけだ。
佐紀はラウンジのソファに深く身体を沈め、ホログラムモニターに映る「ターゲット三名」の現在の日常を観察していた。
一人目、佐藤(32歳)。
彼はしがない中小企業の営業マンとして、上司に平頭を下げ、サービス残業に追われる毎日を送っていた。
「申し訳ありません! すぐに修正して納品いたしますので! 何とかご容赦を……!」
モニターの中で、居酒屋で泥酔したクライアントに頭を下げ続ける佐藤の姿。
二人目、小林(24歳)。
彼女は大学を卒業したものの就職活動に苦戦し、ドラッグストアのレジ打ちパートで客の理不尽なクレームに耐えていた。
「申し訳ありません、クーポンのお取り扱いは次回からとなっておりまして……はい、すみません……」
三人目、渡辺(28歳)。
新米の消防士としてレスキュー隊に所属しているが、過酷な訓練で先輩に怒鳴られ、毎夜筋肉痛にうめきながらシップを貼っていた。
「……ハァ。明日も5時起きか……」
画面の向こうにいるのは、人を襲う凶暴な悪魔でも、己の肉を貪るケダモでもない。
現代社会の底辺でひたすらへこたれ、胃を痛めながら真面目に生きている、ごく普通の「疲弊した小市民たち」だった。
「……何よこれ」
佐紀は頬杖をつき、呆れ果てた溜息をついた。
「あんなに惨めな日常を送っている連中を、わざわざ要塞に閉じ込めてドローンで威嚇して何になるっていうの? 私が虚しくなるだけじゃない」
『マスター。ターゲット三名の抹殺または精神的に追いつめる作戦を実行しますか? 現在の法制度下ではリスクが極めて高くなりますが』
「やめなさい。くだらないわ」
佐紀はモニターを消した。
崩壊した世界だからこそ、かつての被害者と加害者のドラマが成り立ったのだ。
毎日満員電車に揺られ、手取り20万円前後でキュウキュウとしている彼らにとって、この日常そのものが緩やかな地獄のようなものだった。
「殺す価値すらないわ。……だけど、私のこの三十年と、余り散らかしたこの莫大なアセットをどうすればいいのよ……」
佐紀は頭を巡らせた。
【空間収納】の中に鎮座する無制限の超高純度レアメタル、完全自動化された未来型農業プラントの技術、常温核融合炉、そして医療用ナノマシン。
「……待ちなさい」
佐紀の瞳に、悪魔的なひらめきが走った。
「世界が滅びなかったのなら……『経済』でこの世界を完全に支配してしまえばいいんじゃないかしら?」
第十八話 メガ・コングロマリット『アーク社』の降臨
終末予定日から半年後。
世界のビジネス界に、彗星のごとく現れた一つの巨大企業が、地殻変動のような衝撃を与えていた。
その名は『アーク・インダストリーズ』。
CEOに就任したのは、一切の経歴が謎に包まれた若き大富豪――田中佐紀。
彼女が世に放ったイノベーションは、既存の産業構造を一夜にして破壊し尽くした。
第一弾は、地下要塞のエネルギー技術を転用した『超小型・超高効率常温核融合バッテリー』。
電気代は実質ゼロ、排気ガスもゼロ。世界のエネルギー危機は一瞬で解決した。
第二弾は、要塞の全自動栽培プラントを応用した『全天候型・超高密全自動農業システム』。
砂漠でも寒冷地でも、従来の百倍の効率で無農薬の作物が収穫可能となり、地球上から飢餓が完全に消滅した。
第三弾は、医療用ナノマシンによる『万能遺伝子修復治療薬』。
ガン、難病、老化の大部分が克服され、医療の常識が塗り替えられた。
「田中佐紀CEO! アーク社の時価総額が全米・全欧の主要企業を合計した額を超えました! 現在、世界長者番付の第1位ですが、ご感想は!?」
「佐紀様! アーク社が開発した『絶対安全クリーンエネルギー網』が国連で標準規格に採択されました!」
連日のように報道陣のフラッシュを浴びる佐紀は、漆黒の高級スーツを完璧に着こなし、優雅な微笑みを浮かべてカメラの前に立っていた。
「私が目指すのは、人類の完全なる脱・苦痛です。貧困も、病気も、エネルギーの奪い合いも、すべて過去の遺物として差し上げます」
その言葉に、世界中から雷鳴のような歓声が上がった。
かつて地下要塞のモニターで「地球の滅亡」を観察しようとしていた少女は、今や「現代文明の絶対的支配者」として、世界の頂点に君臨していたのだ。
時価総額、数千兆円。
主要各国の政府すら、アーク社からの技術提供と資金援助なしには立ち行かなくなっていた。
「ふふ……あはははは!」
夜、六本木ヒルズの最上階にあるアーク社本社役員室で、佐紀は眼下に広がる東京の夜景を見下ろしながら、高らかに笑い声をあげた。
「滅びないなら、買い叩けばいいだけの話じゃない! 政治家も、大企業も、みんな私の手の上に踊るコマよ!」
『マスター。アーク社の事業拡大に伴い、新規の人材採用シーケンスを提案いたします。特にセキュリティ部門、ロジスティクス部門、医療研究部門において増員が必要です』
「ええ、イヴ。人材の選定は任せるわ。……あ、そうだわ」
佐紀はワイングラスを揺らしながら、意地悪な笑みを浮かべた。
「せっかくだから、あの三人にも『手厚い求人票』を送ってあげてちょうだい」
第十九話 最高峰の「飼い殺し」
数ヶ月後。
アーク・インダストリーズ本社の豪華絢爛な応接室に、ガチガチに緊張した三人の男女が身を縮めて座っていた。
佐藤、小林、渡辺である。
「なあ……俺たち、なんで世界一の企業『アーク社』の特別スカウトに呼ばれたんだ……?」
佐藤が汗を拭きながらボソボソと囁いた。
「わからないわよ……私なんてドラッグストアのパートだったのに、いきなり『アーク医療研究所の管理事務職へ年収1000万でスカウト』なんて……夢でも見てるんじゃ……」
小林も膝を震わせている。
「俺なんて地方の消防士だったのに、いきなり『本社グローバルセキュリティ部隊の幹部候補・年収1500万』だぞ!? 絶対何か裏があるって……!」
渡辺が周囲を警戒するように見回す。
その時、重厚な自動ドアがスライドし、数十名のSPを引き連れた田中佐紀が入室してきた。
「お待たせしましたね、皆さん」
「あっ……!? た、田中佐紀CEO……っ!?」
三人は弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。世界中の誰もが知る、人類史上最も影響力のある女性が目の前に立っているのだ。
佐紀は優雅に革張りの最高級ソファに腰掛け、足組みをした。
「初めまして……と言いたいところだけど、まあ、いいわ。あなたたち三人を、私の直属の部下として特命採用することにしました」
「えっ……!? 理由をお伺いしてもよろしいでしょうか……! 私たちのような普通の人間が、なぜ……」
佐藤が恐る恐る尋ねた。
佐紀はクスクスと愉しそうに笑った。
「理由? そうね……あなたたちは『万が一、世界が滅びかけた時に一番愚かな選択をしそうな、ごく普通の人間代表』だからよ」
「は……はあ……!?」
訳が分からず首をかしげる三人。
「まあいいわ。佐藤くんには『国際流通物資の分配マネージャー』を命じます。世界中の困っている地域へ、我が社の食料を正確に配分する仕事よ。……いい? 1グラムでも横領したり、ズルをしたら即クビだからね」
「は、はいっ! 命に代えても正しく分配いたします!」
「小林さんには『医療ナノマシン臨床管理部』のデスクを。目の前の患者に誠実に向き合いなさい。あなたの判断一つで人の命が救われるわ」
「はいっ……! 精一杯がんばります!」
「渡辺くんは『アーク本社防衛隊』の副隊長。防衛ドローンの保守と治安維持を担当しなさい。力に任せた暴行は一切禁止。市民を守る盾になりなさい」
「了解しました! 命を賭してアーク社と佐紀CEOをお護りします!」
三人は感激のあまり、涙ぐみながら深々と頭を下げた。
どん底の日常から、一千万円以上の年収と、世界を救う誇り高き仕事を与えられたのだ。彼らにとって、佐紀はまさに「人生の救世主」そのものだった。
佐紀は彼らのひざまずく姿を見下ろし、心の中で冷ややかな快感を味わっていた。
(そう……それでいいのよ)
あの日、極限状態の中で狂気に堕ち、自分を喰らうはずだった未来の加害者たち。
だが平和な世界において、彼らは佐紀の圧倒的な資金と権力によって「絶対に正義を裏切れない忠犬」として飼い慣らされたのだ。
「私に感謝して、一生私のために働きなさい。……死ぬまでね」
「はいっ! どこまでもついていきます、佐紀様!」
三人は揃って声を張り上げた。
自分がかつて別次元の未来で佐紀を惨殺したことなど、一生知る由もなく。
第二十話 滅びぬ世界の永遠の女王
それから十年。
世界から戦争、病気、環境破壊、貧困の大部分が消滅した。
アーク・インダストリーズは地球のあらゆるインフラを統括し、人類社会はかつてないほどの繁栄と平和を謳歌していた。
新しく建設された軌道エレベーターの完成式典。
地上数千キロの上空に浮かぶ宇宙ステーションのメガ・ラウンジで、佐紀は地球の青い輝きを見つめながら、シャンパンを口に含んでいた。
背後から、規則正しい足音が近づいてくる。
「佐紀様。第3宇宙港の建設プラン、および火星テラフォーミング計画の第1期予算案がまとまりました」
重厚な書類を手にして現れたのは、アーク社最高執行役員にまで登り詰めた佐藤だった。
その表情にはかつての情けない冴えなさは無く、世界的企業の幹部としての威厳と、佐紀への絶対的な忠誠心が満ちていた。
「ありがとう、佐藤くん。置いといて」
「承知いたしました。……それと、小林と渡辺からも報告が入っております。小林のチームが開発した新型医療ナノマシンにより、人類の平均寿命が120歳を超えました。渡辺の警備隊も、地球全域での紛争発生率をゼロに抑え込んでおります」
「そう。二人にもよくやったと伝えておいて」
「はい! 佐紀様……本当に、あなた様はこの地球に降り立った奇跡です。あなた様がいらっしゃらなければ、世界はどうなっていたか分かりません」
佐藤は心からの敬意を込め、深々と頭を下げて退出していった。
静まり返ったラウンジで、佐紀は一人、青く輝く地球にグラスを掲げた。
「ふふ……本当にね」
もし、世界が予定通り崩壊していたら。
自分は地下要塞に閉じこもり、彼らを地獄へ引きずり下ろし、血生臭い復讐劇に溺れていたことだろう。
だが、世界は滅びなかった。
だからこそ、自分は復讐などというちっぽけな枠組みを飛び越え、この地球そのものを買い取り、人類すべての「絶対的女王」として君臨することを選んだのだ。
「復讐なんて、あまりにもコスパが悪いわ」
佐紀の瞳に、優雅で、そして圧倒的な支配者の光が宿る。
あの日惨殺された少女は、時間を超え、絶望を超え、ついには「平和な世界そのもの」を征服してしまった。
【空間収納】の中には、今なお無数の戦闘ドローンと三十年前の缶詰が眠っている。
だがそれらが日の目を見ることは、もう二度とないだろう。
「さあ……次は火星でも買い取ろうかしら?」
永遠の平和と発展が約束された世界で、田中佐紀の優雅な支配は、どこまでも続いていくのだった。




