メシア
第十六話(IF) 観客から「救世主」へ
地下150メートルに鎮座する『第一地下要塞・都心中継ブロック』。
白磁の壁に囲まれた漆黒のメインラウンジで、田中佐紀は冷えたシャンパンをグラスに注ぎ、無数のホログラムモニターに映し出される「地上世界の崩壊」を見つめていた。
信号が消え、暗闇に包まれた高層ビル群。
水と食料を奪い合い、路上で殺し合う人々。
悲鳴、怒号、そして絶望の叫び。
三十年前、かつての佐紀が死に瀕した時に耳にした狂躁曲が、今まさに地球全土で奏でられていた。
『マスター・佐紀。地上世界のインフラ崩壊率99.1%を確認。計画通り、ターゲットである『グループ・カニバル』(佐藤、小林、渡辺)の誘導および復讐シーケンスを開始しますか?』
人工知能『イヴ』の無機質な声が響く。
画面には、暗闇の部屋で震える佐藤、包丁を握りしめて錯乱する小林、暴徒に打ちのめされて絶望する渡辺の顔が映し出されていた。
佐紀はグラスを口元に運び、静かに目を閉じた。
胸の中に渦巻くのは、三十年前に彼らに肉を削ぎ落とされた時の凄絶な痛みと恐怖。
だが同時に、彼女の【空間収納】の中に眠る、何百万人もの命を何十年も支え続けられる果てしない物資と、時間を止める神のごとき能力、そして未知のテクノロジーの存在が、重く重く彼女の存在感を主張していた。
(私は三十年間、この日のために力を蓄えてきた。あいつらを地獄に突き落とし、惨めな殺し合いを演じさせ、最後に私が『絶対的な捕食者』として降臨するために……)
しかし、画面の向こうで母親にしがみついて泣く幼い子供の姿が、佐紀の視線に止まった。
その子の目は、三十年前、誰の助けも得られずに冷たい死体置き場で息絶えていった自分自身の目と同じだった。
「復讐……? ええ、あいつらに地獄を見せるのは容易いことだわ。私にその資格と力がある。……だけど」
佐紀はワイングラスをテーブルに置いた。
「ただあいつらを殺して、この世界が滅び去るのを高みの見物で眺めるだけ……? それが私の辿り着いた『最高峰の未来』なの?」
佐紀の瞳に、宿っていた漆黒の陰惨な光が消え、静かだが苛烈な意志の炎が宿った。
「もし世界が狂気に満ちているのなら、私が新しい『秩序』になればいい。絶望しか生み出せない神に代わって、私がこの世界を救う『唯一の救世主』として君臨してあげるわ」
『マスター……? 作戦計画の変更ですか?』
「ええ、イヴ。全要塞の完全隔絶モードを解除。防衛ドローン群および自動輸送部隊を【救護・平定モード】へと切り替えなさい。ターゲット三名の捕獲・復讐作戦も中止。彼らを私の『最初の信徒』として再教育・救済するわ」
『了解いたしました。作戦コード『メギドの誘い』を即時無効化。新作戦コード『創世記』を発動します』
地下要塞の駆動音が、それまでの冷酷な重低音から、力強く温かな鼓動へと変わった。
第十七話 堕ちかけた獣たちへの救済
崩壊から二週間。
佐藤の自宅マンションは、完全に地獄と化していた。
「佐藤……お水……喉が乾いたよ……」
「ごめんな……ごめんな……」
干からびた唇を震わせ、泣く気力すら失った娘を抱きしめる妻。佐藤自身も激しい胃の痛みに耐えかね、床にうずくまっていた。
玄関のドアの外からは、隣人たちが鉄パイプでドアを叩き割ろうとする不気味な衝撃音が響いている。
「開けろ佐藤! お前ん家、昨日までお米があっただろ! 出せ! 出さないなら殺すぞ!」
かつて親切だった近所の住人が、飢餓によって獣へと成り果てていた。
佐藤は震える手で包丁を握りしめた。
「来ないでくれ……! 来たら刺すぞ! 俺だって家族を守るためなら何だってやるんだ!」
正気を失い、ただの狂暴なケダモへと堕ちかける佐藤。
その時――
ドンッ!! という激しい衝撃音と共に、玄関のドアが外側から爆発的に吹き飛んだ。
「ひぃっ!?」
佐藤が悲鳴を上げて包丁を構えたが、入ってきたのは暴徒ではなかった。
漆黒の複合装甲に身を包んだ、高さ二メートルの二足歩行型人型ドローン『ガーディアン』が三機。
ドローンは瞬間的に暴徒たちの武器を叩き落とし、高電圧スタンガンで気絶させると、即座に玄関口を封鎖した。
『対象者の生命反応を確認。緊急救護処置を開始します』
機械的な声と共に、ドローンの背部コンテナが開き、そこから湯気を立てる温かいスープ、焼きたてのパン、そして清涼なミネラルウォーターのボトルが差し出された。
「え……? 食べ物……? 機械……?」
呆然とする佐藤一家の前に、空間が歪むようにして光のホログラムが展開された。
そこに現れたのは、白磁の美しい軍服に身を包み、気品と威厳に満ちた美女――田中佐紀であった。
『久しぶりね、佐藤くん』
「た……田中さん……!? 隣の……!?」
『絶望する必要はありません。私のもとへいらっしゃい。私があなたたちに、飢えることのない完璧な世界を与えてあげます』
佐紀の言葉は、まるで暗闇に射し込む救済の光のようだった。
同じ頃、自室に閉じこもって包丁を振り回していた小林の元にも、暴徒に襲われて死にかけていた渡辺の元にも、佐紀の救護部隊が降臨していた。
渡辺を襲っていた暴徒たちは、佐紀の【時間停止】とドローンの精密射撃によって瞬時に制圧され、傷ついた渡辺には【空間収納】から取り出された最高峰の医療ナノマシンが投与された。
かつて佐紀を喰らった惨劇の加害者たちは、殺し合って獣になる前に、佐紀の手によって完全に「保護」されたのだった。
第十八話 神罰と奇跡の降臨
崩壊から一ヶ月。
首都圏は巨大な暴徒集団と化し、自衛隊や警察の組織的な機能も完全に消失していた。
各地で「強者が弱者を奪う」無法地帯が形成され、人々は明日の命すら諦めかけていた。
その日、東京上空の雲が割れた。
ゴーという重厚な推進音と共に、全長一キロを超える巨大な空中浮遊要塞『アーク・アーセナル』が姿を現した。
「な……なんだあれは!?」
「宇宙人か!? 軍の兵器か!?」
地上で殺し合いをしていた生存者たちが、一斉に空を見上げる。
空中要塞の底部から眩い光が照射され、街全体に佐紀の声が響き渡った。
『愚かな生き残りたちよ、聞きなさい』
その声は優しく、そして逆らいがたい神聖な威圧感を伴っていた。
『奪い合い、殺し合い、尊厳を捨ててケダモとして死ぬことが、あなたたちの望みですか?』
「ふざけるな! 食い物がないんだよ! 水がないんだ!」
暴徒の首領らしき男が、空に向かって自動小銃を乱射した。
佐紀は冷ややかな目を向け、静かに指を鳴らした。
【時間停止】。
世界からすべての音が消えた。
放たれた銃弾は空気中で停止し、暴徒たちの動悸も、風の音も完全に停止した。
佐紀は空中要塞からゆっくりと舞い降り、停止した世界の中で暴徒の首領の目の前に立った。
彼女が手をかざすと、首領が手にしていた銃は一瞬にして消滅し、代わりに彼らの足元に「山のような食料と水」が出現した。
そして、佐紀が再び指を鳴らす。
【時間解除】。
「がっ……!? 銃が……ない!?」
「おい見ろ! 食い物だ! 膨大な食い物と水があるぞ!!」
突如として目の前に出現した奇跡の山に、群衆は狂乱しかけた。
しかし、佐紀が静かに右手を挙げると、彼女の背後から数千機の防衛ドローン群が空中を埋め尽くし、絶対的な威圧感で場を支配した。
『与えましょう。服従と秩序を誓う者には、豊かな食料と安全な暮らしを。……ですが、力で弱者を踏みにじろうとする者には、容赦のない神罰を与えます』
佐紀の瞳が怪しく光ると、先ほど銃を撃った暴徒の首領の身体が、一瞬にして見えない圧迫力によって膝をつき、平伏させられた。
「あ……神様だ……」
「救世主様だ……! 救世主様が降りてこられた!」
一人が膝をつくと、波のように周囲の人間が次々とひざまずいた。
飢えと恐怖に絶望していた人々にとって、圧巻の力と膨大な食料を携えて現れた佐紀は、まさにこの世に降り立った「神」そのものだった。
第十九話 理想郷『新エデン』の誕生
崩壊から一年。
佐紀の手によって、東京湾岸エリアを中心に巨大なドーム状防護都市『新エデン』が建設されていた。
要塞の地熱発電と地熱プラントから供給される無制限のエネルギー。
完全自動化された農業プラントから生産される新鮮な野菜と肉。
最新の医療カプセルによって、病気や怪我は即座に治療された。
街には再び灯りがともり、人々は恐怖に怯えることなく、安全な屋根の下で眠ることができた。
かつて惨殺の加害者となるはずだった三人は、いまや新エデンの重要幹部として佐紀に仕えていた。
佐藤は「生活物資分配局」の長として、人々へ公平に食料を行き渡らせる仕事に奔走し、その誠実さから市民に深く慕われていた。
小林は「医療衛生部」のリーダーとして、傷ついた人々や子供たちのケアに情熱を注いでいた。
渡辺は「新エデン自衛警備隊」の隊長として、治安維持と外部からの暴徒侵入を防ぐ防波堤となっていた。
ある夜。
佐紀は新エデンの中心に立つ『創世の塔』の最上階で、三人を呼び出した。
「佐藤、小林、渡辺。都市の復興状況はどうかしら?」
三人は誇らしげに、そして深い敬意を込めて礼をした。
「はい、佐紀様。今月の食料自給率は120%を達成し、周辺の孤立集団の受け入れも順調に進んでいます」
佐藤が報告する。
「医療ユニットも正常です。幼少期の生存率も崩壊前以上の水準まで向上しました」
小林が微笑む。
「警備隊も完璧です。佐紀様の掲げる『絶対不殺と秩序』の理念のもと、犯罪率はゼロを維持しています!」
渡辺が胸を張る。
佐紀はワイングラスを傾けながら、三人の顔を見つめた。
(ええ……これでいいのよ)
あの日、極限状態の中で狂気に堕ち、佐紀の肉を貪るはずだった者たち。
だが、適切な環境と救いを与えられた今、彼らは誰よりも正しく、誰よりも他人のために尽くす「善人」として生きている。
「人間は環境の生き物……。飢えと恐怖さえ取り除けば、化け物にならずに済むのね」
佐紀の呟きに、佐藤が不思議そうに尋ねた。
「佐紀様、何かおっしゃいましたか?」
「ううん、何でもないわ」
佐紀は優雅に微笑んだ。
「あなたたちの貢献に感謝しているわ。これからも私を支えなさい」
「はい! この命に代えても、救世主であられる佐紀様に忠誠を誓います!」
三人は揃ってひざまずき、心からの敬意を捧げた。
第二十話 新世界の戴冠と永劫の未来
崩壊から三年。
『新エデン』はもはや単なる避難所ではなく、地球上で唯一機能する「新文明の中心地」となっていた。
人口は五十万人を超え、周辺地域にも第二、第三の防護ドームが建設されつつあった。
人々に言葉を授け、食料を与え、秩序をもたらした田中佐紀は、全人類から『創世の母』『絶対の救世主』として崇め奉られていた。
新エデンの大聖堂。
ガラス張りの天井から暖かな太陽光が降り注ぐ中、数万人の市民が集まっていた。
壇上に姿を現した佐紀は、純白と金の装飾が施された至高のドレスに身を包んでいた。
その姿はあまりにも神々しく、会場全体から雷鳴のような歓声と祈りの声が上がった。
「佐紀様! 救世主様!」
「我らに命と平和を給うたお方に祝福を!」
佐紀はゆっくりと手を挙げた。
一瞬にして大聖堂内が静まり返る。
「私の愛する子供たちよ」
佐紀の声が、超空間音響システムを通して街全体、そして全世界の避難所に響き渡る。
「かつての世界は、欲望と愚かさによって崩壊しました。人は互いを奪い合い、傷つけ合い、暗闇の中で消え去ろうとしていました」
人々は固唾をのんで佐紀の言葉に耳を傾ける。
「ですが、恐怖の時代は終わりました。私があなたたちの盾となり、光となりましょう。我が【空間収納】には無尽蔵の恵みがあり、我が【時間停止】の力はあなたたちをいかなる災厄からも護ります」
佐紀は傍らに立つ佐藤、小林、渡辺に視線の光を投げかけた。
彼らは誇らしく胸を張り、佐紀の「最初の騎士」として市民たちを見守っている。
「復讐も、憎しみも、この新世界には必要ありません。必要なのは秩序と、互いを慈しむ心だけです。私に従いなさい。そうすれば、永遠の平和を約束しましょう」
地鳴りのような歓声が巻き起こった。
「佐紀様万歳! 新エデン万歳!」
「救世主佐紀様に栄光あれ!」
市民たちが一斉に膝をつき、彼女に向かって祈りを捧げる。
佐紀は高壇の上から、ひざまずく無数の人々を見下ろした。
(三十年前……私は死体置き場で、ただ惨めに喰らわれて死んだ)
(だが今、私はこの世界のすべてを統べ、救う存在となった)
佐紀は優雅にワイングラスを掲げ、心の中で静かに笑った。
(復讐のために彼らを無惨に惨殺し、肉を削ぎ落として永遠に苦しめるのも一興だったかもしれないわね。……でも、世界ごと救い上げて、私なしでは生きられない『絶対の信徒』にしてあげる方が、ずっと優雅で、最高に気持ちいいわ)
彼女は【時間停止】のスキルをコンマ数秒だけ作動させ、静止した美しく平和な世界を愛おしそうに眺めた。
傷つけられた悲劇の少女は消えた。
いまやここにいるのは、滅びかけた世界をその手で再生させ、永遠の頂点に君臨する「絶対の救世主」田中佐紀であった。
朝焼けの光が新エデンのドームを照らし出し、新たな時代の幕開けを告げていた。




