第16話 綺麗なIF
「……っ」
最初に動いたのは、シーツの上に投げ出された指先だった。
ピクリ、と。痙攣するように、あるいは何かを掴もうとするように。
「……ロイズ?」
ミーナが、息を詰めた声で呼ぶ。
部屋中の空気が張り詰める。
次の瞬間。
ロイズの瞼が、ゆっくりと、重たげに持ち上がった。
濁った灰色の瞳が、見慣れない天井を映し――そして、ゆっくりと焦点を結ぶ。
「……うるさい、よ……」
掠れた、枯れ木のような音。
でも、間違いなく、あの冷静で皮肉屋なロイズの声だった。
「……ここ、どこ……」
「ロイズ!!」
ミーナが叫び、ベッドに駆け寄る。
「生きてる! 生きてるよ!!」
「ミーナちゃん! 揺らしたらダメだって……っ、まあ、気持ちはわかるけどさ!」
エルケが叱りながらも、その目は赤く充血している。
リザリアは両手で口を押さえ、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
ダンは――。
少し離れた壁際で腕を組んだまま、深く、長く息を吐いた。
張り詰めていた糸が切れたような、重い溜息だった。
「……よく頑張った。ロイズ」
短い言葉。
声は微かに震えていた。
ロイズはぼんやりと周囲を見回し、やがて苦笑した。
「……なんだよ……全員そろって……葬式みたいに……」
「縁起でもないこと言うんじゃないよ!」
ミーナが涙声で怒鳴る。
そこへ、医師たちが慌ただしく割って入った。
「そこまでに!」
医師はロイズの瞳孔を確認しながら、感心したように呟いた。
「意識は戻りましたが、まだ予断を許しません。……しかし驚いた。やはりエルフの生命力というのは、人間とは作りが違うようですな」
医師の言葉に、ロイズの眉がピクリと動く。
けれど、言い返す気力もないのか、すぐに目を逸らした。
医師は気づかずに続ける。
「この回復力なら峠は越えるでしょう。ですが、絶対安静が必要です」
追い立てられるように、俺たちは部屋を出ることになった。
ミーナは名残惜しそうに何度も手を振り、
エルケは「また来る」と呟き、
リザリアは小さく「……よかった……」と神に感謝するように囁いた。
ダンは、何も言わずに一度だけロイズと視線を合わせると、逃げるように踵を返した。
俺も、最後にロイズの顔を見てから、部屋を出た。
◇
夜。
城は静まり返っていた。
回廊に響くのは、遠くの松明が爆ぜる音だけ。
俺は、水の入った木杯を片手に、治療室の前で立ち止まった。
……迷った。
今さら、何を話すんだ。
お前を見捨てて生き残った俺が、どんな顔をして会えばいい。
でも。
気づいたら、扉を押していた。
きい、と小さく音を立てて開く。
中は、薄暗い。
ランプの明かりの下で、ロイズは目を閉じていた。
呼吸は浅いが、安定している。
「……寝てるか?」
「……起きてる」
即答だった。
目は開いていない。でも、意識ははっきりしている。
「……なんだよ。夜這い?」
「ぶっ殺すぞ」
俺は椅子に腰掛け、木杯を置いた。
「水持ってきた」
「……助かる」
ロイズは俺の手を借りて水を飲み、ゆっくりと喉を鳴らした。
再び、沈黙が落ちる。
俺は、言葉を探していた。
モルディアスに言われた言葉が、ずっと胸につかえている。
「……なあ」
声が、少し震える。
「もし……俺たちが盗賊じゃなかったらって、考えたことあるか」
ロイズの眉が、わずかに動く。
「……は?」
「俺たちが、もっと普通の家に生まれてるか、拾われるかして……学舎で真面目に勉強してさ……仕事して……」
「そうやって普通に生きてたら、こんな目に遭わなかったのかなって」
しばらく、何も返ってこない。
ただ、規則正しい呼吸音だけが聞こえる。
しばらく間を空けて、ロイズは、鼻で笑った。
「……くだらないな」
「は?」
「いくらなんでも夢見すぎ」
ロイズは、ゆっくり目を開いた。
その瞳に、いつもの冷静で静かな光が戻っている。
「俺の両親は」
「ただ愛し合っただけで、掟によって殺された」
「駆け落ちで逃げ出した両親を、わざわざ見つけ出して処刑して……子供の俺は“雑種”扱いだった」
「逃げなきゃ、殺されてた」
淡々とした声。
感情を削ぎ落としたみたいな語り口が、逆に重い。
「お前は赤ん坊で拾われて、ずっとダンに守られてた。だから分かってないんだ」
「孤児に未来なんてない」
「野垂れ死にか、奴隷か、犯罪者か」
「俺たちには、その三つしかないよ」
俺は、何も言えなかった。
モルディアスの提示した「綺麗な世界」が、ガラガラと崩れていく。
「学舎? 騎士?」
「笑わせるな」
「そんな道、俺たちの前には一本も用意されてない」
ロイズは、小さく息を吐く。
「……お頭はさ」
「俺たちに、“生き残る術”を教えてくれた」
「こんな世界でも、誰にも頼らずに生きていける力をくれた」
「それが答え、だろ?」
俺の胸が、ぎゅっと締まる。
「不器用で、無愛想で、説明も下手くそ」
「でもさ」
「俺たちに『生きる場所』をくれたのは、世界でたった一人、あの人だけだ」
「……最高の親父だろ」
ぽつりと。
そう言った。
俺は、俯いた。
視界が滲むのを隠すように。
「……俺さ」
「最近、お頭が怖くてさ」
「あの塔で見た幻影のこととか……ペンダントのこととか……信じたいのに、疑っちまうんだ」
「俺たちを道具として見てるんじゃないかって」
「……馬鹿野郎」
ロイズは、弱く、呆れたように笑う。
「お前、16年も一緒にいてまだ分かってないのな」
「お頭がそんな器用なことできるわけないだろ。ただの脳筋だぞ?」
「……え」
「ライオ。お前、ここでちょっと贅沢な生活して、浮かれてるんだよ」
「風呂に入って、ふかふかのベッドで寝て……身の丈に合わない生活して。だからありもしない『もしも』なんて考えるんだ」
ロイズの言葉が、胸に刺さる。
そうだ。俺は、モルディアスの用意した「綺麗な服」に着せられて、目が曇っていただけなのかもしれない。
「ちゃんと話した方がいい」
「殴り合ってでも」
「家族なんだからさ」
長い沈黙。
俺は、深く息を吸った。
肺の中の澱んだ空気が、少しだけ晴れた気がした。
「……なあ、死ぬなよ」
「それはこっちのセリフだ」
「……さっさとこんな傷治して、お前が死なずに済む方法探しに行かないと、な」
かすれた声で返ってきた。
こいつは、こんな状態でも俺のことを考えている。
俺は、立ち上がった。
「また来る」
「ああ、ちょっと待ってよ、ライオ」
出て行こうとしたところで、ロイズに呼び止められた。
「……ガスがうるさいんだ。爆弾が一個足りないとか騒いでて」
「はあ? なんだよそれ」
「……探してやってくれないか。あいつが落ち着かないと、こっちも眠れない」
自分が大怪我してるってのに爆弾の心配なんてガスらしい。医者に没収されただけじゃないのか?
「わかった、探しとく」
「……うん」
俺は笑いながら部屋を出た。
手のひらに、体温が戻ってくる感覚がした。
◇
廊下に出る。
冷たい空気が肺に入る。
綺麗な服を着た自分が窓ガラスに映る。
違和感を覚えた。
こんなのは、俺じゃない。
俺は盗賊だ。
泥棒の親父に育てられた、泥棒の子供だ。
それだけが真実だ。
(……話そう)
ちゃんと。
全部。
小難しい理屈は抜きにして。
俺は、拳を握りしめた。
ダンのいる部屋の方向を、真っ直ぐに見つめて。




