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後編

四、


 僕は坂本が座っている机に、真っすぐに向かった。坂本の向かい側に座っているサングラスをかけた男性が、田中なのだろう。近くに来てみると、その男性は、かなりいかつい体形をしていることに気が付いた。ソファに腰掛けているからわかりづらかったが、そのどっしりと聳え立つ上体のシルエットから察するに、身長180センチくらいはありそうだった。肩幅も、普通の人よりもはるかに広い、。黒いテーラードジャケットからのぞいた手もごつごつとしており、その中指の付け根には、拳ダコも観察できた。


 僕は、坂本が座っている側のソファか、その男性がもたれかかっているソファか、どちらに座るべきか迷ったのだが、男性は黙ったまま手を差し出して、坂本の側のソファに腰掛けるように促した。


 「タバコは吸いますか?生憎、ここは禁煙なので、どうしてもタバコを吸いたければ一度外に出てもらわなければなりません。」


 男性は僕が席につくなり、野太い声でそう話しかけてきた。(声と体形の間には一定の相関関係があると思うが)それは、こういう外見の男性がいかにも発しそうな声だった。幸いにして、そのときの彼の口元は緩んでいた。そのことが唯一の救いのように思えた。


 僕が「いいえ」と答えると、男性は、


 「はじめまして。田中と申します。夢実現カウンセリングのマスター・カウンセラーをさせて頂いております。」


 と言って、恭しく頭を下げた。僕もつられるように、


 「田村と申します。よろしくお願いします。」


 と、頭を下げた。その後、顔を上げながら田中の様子をそれとなく観察してみると、彼は青のジーパン(膝のあたりは破れていた)に、白い無地のTシャツをインナーに着て、その上に黒のテーラードジャケットという出で立ちをしていた。シャツやジャケットには皺一つなかったし、決して清潔感がないわけではなかったが、彼のようにどっしりした体形の人が白いシャツをインナーに着ていると、どこかだらしないような、微妙な違和感があった。その違和感は、彼の角刈りのヘアスタイルにも、鰓が張った顎にうっすらと生えている髭(おそらく無精髭ではなく、手入れはしているのだろう)にも、見て取ることができた。本人はばっちり決めているつもりなのだろうが、どこか間延びしたような印象を受けたのである。


 もちろん僕は、そんなことは微塵も、口にも表情にも出さなかった。横に座っている坂本を横目で見ると、彼女は背筋を伸ばしたまま、微動だにせずに前方のテーブルに目をやっていた。ラウンジを包む、コーヒーやアルコール飲料などの匂いが雑多に混じった香りの中で、僕は、前回彼女に会ったときと同じ香水の香りを、探知することができた。


 僕たちはドリンクを注文すると、会話の続きに入った。田中は単刀直入に、


 「彼女から話は聞いています。大島ラボに入会されたいということですね?」


 と言って、サングラス越しに僕の目を覗き込むようにした。僕がそれに対して「はい」と答えると、田中は「わかりました」と言い、身を乗り出しながら僕の方に少し身を乗り出すようにして、


 「それで、いくら払えます?」


 と耳元で囁いた。僕は、ドクン、ドクン、と心臓が高鳴るのを感じていた。いずれ会話の流れの中で、その言葉を聞かされるだろうと思ってはいたが、こんなに即座に言われるとは思いもしなかったのである。僕は息を詰めて下を向いたまま、


 「とても、正規の料金は無理です。しかし、100万円ならどうにか。」


 と言った。それを聞いた田中は、渋い顔をして再びソファの背もたれにもたれかかりながら、


 「もちろん、正規の料金が、世間一般の人々にとってはかなりの金額だということは、私もよくわかっています。」


 と言って腕組みをして、一旦間を置いた。そして再び、


 「でも、よく考えてください。大島ラボに入ることで、あなたの人生は変わるんですよ?お金だって、たくさん稼げるようになるでしょう。普通では得られないような、貴重な人脈も手に入ります。そう考えたら安いものではないですか?本当に無理なんですか?ご両親からお金を借りることは検討されましたか?なんなら、一ヶ月5万円ずつのローンにしても良いです。それでも駄目でしょうか?」


 と、探りを入れてきた。僕は、両親との関係が悪いとまではいかなかったが、だからと言ってあの保守的な僕の両親が、このようなことに出資するとは、とても思えなかった。はた目から見れば、ねずみ講や詐欺のように見えても仕方がないことは、この時点の僕にもわかっていた。


 田中の話し方には威圧感があったが、僕はそれをはねのけるように声を振り絞り、


 「すみません、100万円以上はどうしても出せません。それが、僕の全財産なんです。それに、僕の今の給料では月5万円の支払いは、とてもじゃないが追いつきません。本当にすみません。僕は自分でも、大島ラボの正規のメンバーになれると思ってここに来たわけではないのです。ただ、坂本さんに『お金が足りなくても相談の余地はある』と言われていたので、物は試しという感じで、とりあえず来てみたというのが本音なんです。ただ、大島先生の教えを吸収したいという熱意があることだけは、間違いないです。一度あの講演を聞いてしまったら、もう本だけでは満足できそうにないです。何か、本以外に、お金がなくても学びを深める方法はないでしょうか?」


 と、思いのたけをぶちまけた。田中は再びこちらの方に身を少し乗り出して、テーブルに頬杖をつきながら、少しの間、考える素振りを見せた。そして目線をこちら側に向けると、


 「・・・あなたの熱意はよくわかりました。私たちも、無理にお金を搾り取ることは考えていません。そこはご心配なく。ただ、いくら熱意があるとはいえ、あなただけを特別扱いするわけにはいきません。他の会員たちの手前もありますし、ルールはルールですから。わかりますね?」


 と声を和らげて話しかけてきた。僕がうなだれて「はい」と力なく答えると、田中は、


 「ご希望に添うことができず、申し訳ございません。しかし、ここまで来ていたいて、何の収穫もなしで帰すのは、こちらも望むところではありません。これはあくまでご提案として聞いて頂きたいのですが、夢実現カウンリングのセッションを実際にお受けになっては、いかがでしょうか?本来なら月一回のセッションを1年間150万円で提供しているのですが、ちょうどお隣に座っている坂本は、夢実現カウンセリングの、準カウンセラーです。彼女のセッションなら正規のカウンセラーよりもお安く提供できます、10か月間100万円でいかがでしょうか?」


 と持ち掛けてきた。その場合でも、僕は文字通り全財産を失うことになってしまうわけだが、僕としてもここまで来て手ぶらで帰ることは気が引けたので、その提案を受諾することにした。僕が提案を受け入れる返事をすると、田中は「これであなたも、我々の仲間ですね」と言わんばかりに、表情を綻ばせた。隣にいた坂本も、喜んでいるらしかった。


 夢実現カウンセリング、か。僕の深層意識には、一体どのような願望が隠されているのだろうか?また、仮にその隠された願望を引き出せたとして、それを叶えることが本当にできるのだろうか?さらに、正規のカウンセラーではない坂本は、僕が願望を叶えることを、どのようにしてサポートしてくれるのだろうか?色々な疑問が頭を駆け巡ったが、その日はさらに一時間程、田中の、彼が大島に同行することで知った、大島にまつわる色々なエピソードを聞いて、お開きになった。


五、


 ホテルのラウンジでの会合の数日後、大島ラボから書類が郵送されてきた。そこには、カウンセリングの契約書や、カウンセリング料の振り込み先などが書かれた書類も含まれていた。カウンセリングの契約書には、カウンセラーがカウンセリング中に知り得たクライアントの情報をいかなることがあっても開示しないことや、逆にクライアントの側にも、カウンセリングを通じて知り得た情報や技術に関して守秘義務が発生する、と言う内容のことも書かれていた。


 「守秘義務」と言われると、なんだか重大で、危険な響きがした。日常的には、まず使わない言葉である。きっと、夢実現カウンセリングには色々な秘密のノウハウが使われているのだろう。僕は、粛々と書類にサインし、指定の口座に代金を振り込んだ。一括払いだった。学生時代から貯めてきたわずかばかりの貯金を、すべてつぎ込むことになった。


 翌日に、坂本から振り込みの確認が取れたというメールがあり、初回のカウンセリングの日時を決めることになった。田中との会合で用いた都内のホテルのラウンジまで、毎回来て欲しいということだった。とても平日には行けないので、初回のカウンセリングは二週間後の日曜日を希望することにした。


 そして初回のカウンセリングの日が来て、僕は再び電車を乗り継いで、例のホテルのラウンジへと向かった。坂本は、前回と同じ席に腰掛けて、僕を待っていた。何かその席に、ジンクスでもあるのだろうか。そんなことを考えながら、僕は坂本と向かいの席についた。


 僕が席について姿勢を整えると、坂本は微笑んだ表情で、


 「先日はありがとうございました。田村さんが大島ラボの正規の会員になれなかったことは残念でしたが、本日から私が、大島メソッドを駆使して、田村さんの夢を実現するお手伝いをさせて頂きたいと思います。絶対に後悔はさせません。ただし、お約束して頂きたいことが二つかあります。」


 と勢い良く言って、一息ついた。僕は黙って頷いて、彼女の次の言葉を待った。


 「田村さんにお約束して頂きたいことは、まず、この場では一切を包み隠さずに、私の質問に対して思いついたことを何でも話して頂きたいということです。ご存知の通り、夢実現カウンセリングは、クライアントの深層意識にある秘められた願望を意識の表層に出し、それを実現するお手伝いをしていくというものです。契約書にも記載がありましたように、私は田村さんがここでお話しされたことを口外することは決してありませんので、安心して正直に、私の質問にお答えください。質問に関連して、思いついたことがあったら、どんどん自由に話して頂いても結構です。二点目に、」


 坂本は微笑んだ表情を崩さずに、活舌よく話を続けた。


 「私が田村さんに宿題を出すことがあるかと思いますが、それを必ずやって頂きたいと思います。私が田村さんにお会いできるのは、月一回しかありません。もちろんこの月一回、一時間のカウンセリングの間も私は色々なテクニックを使って田村さんの意識状態をコントロールしていきますが、何もしなければ、意識状態はすぐに元に戻ってしまいます。毎日一定時間を、私が宿題としてお出しするワークに取り組んで頂くことで、カウンセリングで調整した意識状態を維持することができ、カウンセリングの効果は何倍にも膨らみます。以上が、カウンセリングを開始するにあたって、田村さんにお約束して頂きたいことです。何かご質問はありますか?」


 と言って、坂本は一旦話を終えた。僕は素直に、


 「その宿題のワークというのは、どのくらい時間がかかるものなのでしょうか?私には仕事もありますので、そんな何時間もかかるようなことは難しいのですが。」


 と、思っていたことを口に出した。坂本は変わらず微笑んだままで、


 「ご心配なさらなくても大丈夫です。状況によってどのワークを選ぶかは変わってくるのですが、いずれのワークも20分もあればできますので。」


 と、迷うことなく答えた。そして少し間を置いて、


 「では、他にご質問がなければ時間も限られていますので、早速カウンセリングに入りたいと思います。繰り返しになりますが、私の質問に対して、隠し立てすることなく、思いついたことを素直に、すべてお話しください。最初の質問は、『あなたの現時点の夢は、何ですか?』です。」


 これは、想定通りの質問だった。大島の著書にも、「大きな夢や目標を持つことが大切だ」ということは何度も書かれていたし、その「大きな夢や目標」を見つけることこそ、夢実現カウンセリングの第一歩と言えることだからだ。僕は少し考えて、


 「・・正直、今の僕には夢らしい夢はありません。今までの僕は、色々なことから逃げるように、ただひたすらに『傷がない人生』を歩んできました。でも、そういう自分を変えたいと思っていて。だからこそ、大島先生の本に感銘を受けたし、こうして夢実現カウンセリングを受けてもいます。」


 と素直に答えた。僕は自分でも、自分は大した能力のない人間だと思っていたし、そういう人間が、大きな夢なんか語る資格はないと思っていた。でも大島の著書によると、人間は誰しも、かなりのポテンシャルのある脳を持っており、脳の使い方を変えることで、通常では考えられないようなパフォーマンスを発揮することも十分に可能である、ということだった。坂本は、どのような手法で、僕に正しい脳の使い方を教えてくれるのだろうか?僕は少しドキドキしながら、坂本の返事を待った。


 「わかりました。大丈夫ですよ。そういう方は、かなり多いので。大島先生(このときは、彼女は『トッシー』とは言わなかった)が本に書かれているように、皆さんが夢を持てないのは、学校教育など、『名前を呼んではいけないあの人たち』が作り上げた社会システムの中で、皆さんが『自分は無力だ』と信じ込まされているからなのです。『自分は無力だ』と思っている人が、大きな夢や目標を持つことなんて、できるわけありませんよね?今から私たちが目指していくのは、田村さんが成長するにつれて失ってしまった、『自分への信頼感』を取り戻していくことになります。ちなみに、大島先生の夢をご存知ですか?」


 坂本は唐突に、僕に問いかけた。その答えは、彼の著書を通して僕もよく知っていた。


 「愛のある世界を作ること、ですよね?」


 僕がそう言うと、坂本は軽く頷いて、


 「その通りです。ここまで大きな夢を、いきなり見つけることは難しいかもしれません。でも、例えば『音楽で人々に愛を届けたい』とか、『小説で人々に感動を与えたい』とか、特定の自分の活動のフィールドで、人々を幸せにする素晴らしい夢を持つことは、誰にでもできるはずです。田村さんにだってできますよ。ちなみに田村さんには、『やっていて幸せだ』と感じる趣味はありますか?・・・」


 初回のカウンセリングはこんな感じで、僕の関心や特技などについて聞かれているうちに、終わった。そこで浮き彫りになったのは、僕はもともと本を読むのが好きで、子供の頃は作家になりたいという夢を持っていたらしい、ということだった。坂本は、


 「それは、田村さんらしい夢ですね。そもそも本が好きじゃなかったら、大島先生の本も読もうとは思わなかったはずですものね。もう、方向性は決まってきたかもしれません。」


 と嬉しそうに言って、では、仮に作家になるのが僕の夢だったとして、作家としてどのような状態が達成できたら幸せかを、次回までに考えてくるように、と指示した。それがどうやら、彼女からの宿題らしかった。


 僕は帰りの電車の中で、その日のカウンセリングで彼女に言われたことを反芻していた。確かに自分でも忘れていたが、僕には「作家になりたい」と言う夢があった。いきなりこんな、眠っていた夢を引き出してくれたのだから、彼女のカウンセリングの腕前は、多分本物なのだろう。それも当たり前かもしれない、なにせ彼女は、「大島メソッド」の訓練を受けた人間なのだから。また一ヶ月後に彼女に会えることを考えると、ワクワクする気持ちを抑えることができなかった。そしてそのワクワクは多分、これから自分の夢が実現することに近付いていける、という希望からなのだろう。僕は、そのように考えることにした。


六、


 それから僕は、坂本のカウンセリングを月に一回、受け続けた。初回こそ感動したものの、そこからしばらくは、新しい気付きとか、感動と呼べる体験はほとんどなかった。一応は「作家になりたい」という昔の夢を掘り起こすことはできたのだが、今の僕には仕事があるので、そもそも小説の執筆に充てる時間や体力がなかったのである。当たり前の話だが、「小説を書かない作家」というのはあり得ない。まずは自分の作品を書いて、新人賞に応募したりして日の目を浴びなければ、作家としてのキャリアを歩むことなど最初から不可能である。


 僕がそのことを率直に告げると、坂本は、


 「今の人生を続けるか、それとも夢に向かって新しい人生を歩み始めるかは、田村さんの決断にかかっています。今のお仕事は、本当にご自分のやりたいことですか?公務員のお仕事が悪いとまでは言いませんが、所詮は『名前を呼んではいけないあの人たち』が作り出した社会のシステムの歯車になっているだけです。人生は短いです。田村さんがおっしゃる『不完全燃焼の人生』を続けていたら、あっという間に人生が終わってしまいますよ。」


 こんな内容のことを繰り返すばかりだった。まるで、「仕事を辞めろ」と遠まわしに言われているかのようだった。その上自分の仕事を見下されているようで、不快な気持ちになった。もちろん、芽が出るかもわからないような道にかけて今の仕事を辞めるなどということは、とてもじゃないができない。しかし坂本に会うたびに、僕は、「自分は間違っているのだろうか?」と自問せざるを得なかった。それは、とても辛い作業だった。


 そうこうして、三、四か月が過ぎた頃である。大島の弟子で、夢実現カウンセラーの一員でもあった人物が、突如として大島に反旗を翻し、ネット上で大島の数々の悪行を告発する、という事件が起こった。


 大島本人がその事件に触れることはなかったし、僕も事件が起こった当初はそんなことが起こっているなんて、知る由もなかったのだが、事件の後に僕がSNSでフォローしていた大島の高弟たちが、「あのブログの信憑性について」とか、「あの事件について思うこと」というタイトルのブログ記事や動画を頻繁に上げるようになっていたので、僕の意識も、そちらへ向かざるを得なかった。


 気になった僕は、ネット上をくまなく探して、件の告発が書かれたブログを探し当てることができた。そこに書かれていたことは、大島のイメージを根本から変えてしまうようなことばかりだった。僕はそのブログを読んでいて気分が悪くなったし、それらが事実であると、俄かには信じられなかった。僕は、(直接会ったこともなかったのだが)大島利信という人物を心の底から崇拝していたのだから、当然だった。


 そこに書かれていたいくつかのことを抜粋すると、


1、大島には著名人の知り合いが何人もいるが、彼らが大島と仲良くしている理由は、大島が女性の弟子たちを、そういう著名人たちに上納してきたからだ。


2、大島が立ち上げたプロジェクトはそのほとんどが張りぼてのようなもので、金を集める口実にしかなっていない(そう言えば、例のアフリカの子供たちに食料を提供するというプロジェクトも、その後の進展については何の報告もなかった。確かに僕自身、本に記載されていたメールアドレスに連絡してみたことがあったのだが、何の返事もなかったのである)。


3、大島には詐欺の嫌疑がかかっていて、過去に民事で裁判を起こされたことも、何度かある。


4、告発者本人は夢実現カウンセラーとして活動しているが、ライセンス料と称したお金の上納システムがあり、当初に想定していた程の利益は得られていない。そして、ここまで横暴な大島のやり方を見てられなくなったので、このような告発をした。


 と言うことだった。僕もこのブログを見たときは、どこにも証拠がないことばかりだと思って信用していなかったのだが、やがて大島への集団訴訟をするための有志を募るSNSアカウントや、他の告発者なども出始め、大島の周囲から急速に人が離れていっていることを、ネット上からでも見て取ることができた。その後はテレビ出演なども、目に見えて減った。


 この事件があってからというもの、カウンセリングで会う坂本の表情には、見るからに元気がなくなっていった。僕の方も大島には幻滅して、もう坂本からのカウンセリングにも何も期待していなかった。カウンセリング中に、二人ともしばらく黙り込んでしまうことも、しばしばだった。しかしお金を払っている手前、「もう、こんなことは辞めにしましょう」とは、とても言い出せなかった。返金を請求することも考えたのだが、坂本の何かに怯えたような表情を前にすると、そんな気も失せてしまった。


七、


 そうこうしているうちに、十回目のカウンセリングの日がやってきた。契約上は、僕と坂本の付き合いは、ここで終了である。もう十回も会っているというのに、僕と坂本の心理的な距離は、一向に縮まる気配がなかった。考えてみれば、同い年なのにいつまでも敬語で話し合っているのも、違和感があった。大人同士の付き合いとは、そのようなものなのだろうか?だが、それを抜きにしても、坂本はカウンセラーという立場を隠れ蓑にして、本当の自分を僕に見せようとしていない感覚が、確かにあった。坂本がどのようにして大島ラボの高額な入会料を支払えたのかということでさえ、まだ聞けていなかったのである。


 その日のカウンセリングで、「調子はどうか?」とか、「ワークはやれているか?」と言った通り一遍のやり取りを十分程した後で、少し間ができた。そのときに僕は意を決して、坂本に入会料の件を聞いてみることにした。もうこのときの僕は、大島に対して何の権威も感じていなかったし、どのみち彼女に会うことも最後なのだから、例えこの後気まずくなってしまっても、どうでもいいという気持ちだったのである。僕が、


 「大島ラボの入会料は、とても高いですよね?ずっと気になっていたんですけど、坂本さんはどのようにして、それだけのお金を手に入れることができたのですか?」


 と切り出すと、坂本は素早くそっぽを向いて、頬杖をついた。明らかに、聞かれたくないことを聞かれてしまったときのリアクションだった。僕も動揺したが、視線をぶらさずに、彼女の答えをじっと待った。すると、彼女は下を向いて、


 「私には、年上の彼氏がいました。その人に払ってもらったんです。」


 と呟くように言った。「いました」ということは、今はその人は彼氏ではないということなのだろうか?僕がそんなことを考えていると、彼女は目を閉じて、


 「・・きっとその人は、私がそのうち自分で気が付くだろう、と思っていたのでしょう。でも、私がその後もトッシーから離れなかった上に、彼まで大島ラボに入会するようにしつこく誘い続けたことで、彼との関係は、完全に壊れてしまいました。私は、ずっと疑問に思ってきました。女性だというだけで差別されて、平等な機会が与えられない今の社会を。トッシーはそういう世の中の矛盾を解決する力がある人だと、信じていたんです。」


 と言って、ため息をついた。その目には、涙が光っているようだった。


 「私は、とんでもない間違いを犯してしまったのかもしれません。でも、今の私にとっては、トッシーがすべてなんです。私は大島ラボにいて、おかしいと思うことにもたくさん耐えてきました。もう後には引けないんです。今の私には何も残ってはいないし、色々な辱めも受けて・・」


 僕は聞くに堪えなくなって、そこで彼女の話を遮った。自然と、彼女の肩に手を置いていた。僕はただ、彼女のことを気の毒に思ったし、彼女を守ってあげたいと、心の底から思った。今までに感じたことのない情熱が、僕の中で沸き上がってくることを感じた。なんとも皮肉なことだが、大島の自己啓発メソッドに幻滅したことでむしろ、心の底から情熱を感じるチャンスが、訪れたのである。僕は、涙を流している彼女を真っ直ぐに見据えて、力強く言った。


 「大丈夫です。坂本さんには、僕が付いています。僕が、あなたのことをずっと守っていきます。僕には安定した仕事もあるし、例え単調な毎日でも、あなたを守るためなら、きっと頑張り抜けます。」


八、


 「いらっしゃいませ。」


 それから十五年後の、都内の深夜のコンビニに、20歳前後の若い男性の四人のグループが、足を踏み入れた。学生のグループだろうか、髪を金髪に染めた者も混じっている。彼らは店に入る前も、入ってからも、隣の者を小突いたりしながら、何やら楽しそうに談笑していた。その中の一人が、レジに一人で立っている老人を目にすると、


 「おい、あのじいさん、どこかで見たことないか?」


 と声を潜めて、他の者に話しかけた。


 「ああ、あのじいさん、昔テレビに出て、堂々と陰謀論を語ってた奴じゃね?YouTubeでネタにした動画上がってるから、見たことあるわ。そうそう、確か大島とか言う名前だったような・・・」


 四人が恐る恐るその老人の名札を遠目で見つめると、そこには確かに「大島」という文字があった。顔の方も、昔の黒黒とした頭髪はすっかり雪のような白髪に変わり、頬は随分やせこけてしまったようにも見えたが、やや垂れ下がった太い眉毛や、丸みを帯びた鼻には確かに、大島利信の面影があった。


 四人はクスクス笑いながら、ジャンケンを始めた。その後、四人の中で一番小柄な、髪の毛の逆立ったやんちゃそうな青年が、「ちえっ」と舌打ちをしながら、売り場からチョコレート菓子を手に取って、その老人がいるレジへと歩み寄って行った。他の三人は、ニヤニヤしながら売り場から遠巻きに、事の成り行きを見守っていた。


 老人は、青年からチョコレート菓子を手渡されると、


 「320円です。」


 と、力のない声で答えた。これがあの雄弁に語っていた大島利信と同一人物とは思えない程の、か細い声だった。青年は一瞬躊躇したが、気を取り直して、支払いをしながら、



 「あなたの夢はなんですか?」


 と、老人に問いかけた。他の三人は、吹き出しそうになるのを必死で堪えていた。すると、老人は少し間を置いて、


 「・・愛のある世界を作ることです。」


 と答えた。その目には、急に光が戻ったように見えた。青年は、笑いを堪えた引きつった顔で、


 「じゃあ、なんであなたは今、ここで働いているのですか?」


 と再び問いかけた。老人は、その問いかけが聞こえたのか、聞こえなかったのか、しばらく呆気に取られた表情で瞬きを繰り返して、


 「お釣りをお取りください。」


 と言いながら、自動レジに残っていた釣銭を指さした。そこには現実と、自分の世界観とが大きく乖離してしまっていることに驚いた様子を、読み取ることができた。青年たちは、それから何も言わずに、コンビニを去った。


 その老人が、果たして大島利信本人であったのか、また、田村や坂本たちが今、どうしているのかを知る者は、誰もいない。確かなのは、その、名札に「大島」と書かれた老人が、今でもそのコンビニで働き続けているということだけである。

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