9-2.歪んだ幸福
ステルス機能を維持したまま白銀の街へと潜入したガロングの一行は、バイブルの支配下にあるこの世界の構造を把握するため、中心部へと向かって静かに移動を続けていた。
ガラスの向こうに広がる赤黒いバグの濁流とは裏腹に、ドーム内部の街並みはあまりにも美しく、あるいは異様だった。
「……なぁ、ここの人間ども、全員まともじゃねえぞ」
移動の最中、ローガンがバイザー越しに周囲の住人を見やりながら、低く警戒の声を漏らした。
ローガンの言う通りだった。行き交う人々は誰もが、まるで作られたかのような満面の笑みを浮かべている。物質的に満たされているだけでなく、精神の根底から幸福感で満たされているかのように、一分の不安も曇りもない顔で、バイブルへの感謝を口々に語り合っているのだ。
あまりの幸福の過剰さに、サカキやアルも、背筋に冷たいものが走るような気味の悪さを覚えていた。
そんな中、一行の最後尾を歩いていたリュウの足が、ピタリと止まる。
「……え?」
「どうした、リュウ」
すぐに気づいたオッドが目を向け、隣を歩いていたブラッドも足を止めて振り返る。
リュウは困惑したように、自身の頭を軽く押さえた。
「いま……声が、聞こえた」
「声だと? リリスの通信ノイズか?」
サカキが周囲を警戒しながら問いかけるが、リリスは『ううん、私のセンサーには何の音声信号も引っかかってないわよ?』と翼を震わせた。
「違う。通信じゃなくて、頭の中に直接……ぼんやりとした、掠れた男の声で……『こっちだ…助けてくれ』って」
リュウのその言葉に、オッドの目元が微かに険しさを増した。
「お前にしか聞こえない声か。……リュウ、その声の主がどこにいるか分かるか」
「……あっちだ。おれを呼んでるような、引っ張られるような感覚がある」
「よし、行ってみよう。バイブルの中枢を探す手がかりになるかもしれん」
オッドの判断により、ガロングの一行はリュウの先導のもと、幸福な住人たちで賑わう大通りを外れ、ドームの隅へと続く静かな路地裏へと足を進めた。
リュウの感覚に引き寄せられるようにして辿り着いたのは、近代的な高層ビル群の影に隠れるようにしてひっそりと佇む、一軒の古びた家だった。周囲の白銀の文明からは切り離されたような、どこか懐かしく、温かみのある佇まいの平屋だ。
ガロングが警戒しながらその家に近づようとした、その時。
静かに家の扉が開き、中から一人の老婆が姿を現した。
長い白髪を後ろで結び、深く刻まれた皺の奥にある瞳で、老婆はステルスを解除した黒き鉄の戦士たちを見つめる。その表情には、突如現れた武装集団に対する恐怖も驚きもなかった。それどころか、まるで彼らが来ることを最初から知っていたかのように、穏やかな笑みさえ浮かべている。
「……さあ、中へお入り」
サカキとブラッドが視線を交わし、武器に手をかけながら慎重に敷居を跨ぐ。
家の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。最低限の家具だけが置かれた薄暗い部屋の奥に、一台の古びたベッドが置かれている。
そこには、一人の老爺が横たわっていた。
衣服の隙間から見える身体は酷く痩せ細り、自力で起き上がることすらままならないほど、深く衰弱して寝たきりになっている。呼吸は浅く、かすかに胸が上下しているだけで、いつ命の灯火が消えてもおかしくない状態だった。
「……っ!?」
その老爺に近づいた途端、リュウの身体が激しく硬直した。
全身の血が逆流するような、凄みのある衝撃。
特訓を経て馴染んでいたはずの体内の『蒼き力』が、目の前の老爺が放つかすかな残響と、狂ったように共鳴を始めたのだ。
白髪に覆われ、深く皺が刻まれたその顔。衰弱しきって、見る影もなくなってしまっているその老爺の輪郭。だが、その魂の波形が、その存在の根幹が、他の誰でもない、自分自身のものであることを、リュウの本能が理解した。
(この人、は……おれだ。おれと同じ……リュウ、なんだ……)
目の前で寝たきりになっている、哀れに老いさらばえた「もう一人の自分」。
あまりの衝撃に言葉を失う若きリュウの後ろで、オッドは隻眼を細め、その老爺と老婆の姿を、張り詰めた沈黙の中で見つめていた。




