5-4.偽りの救済
視界が、一瞬で純白のノイズに飲み込まれた。
肉体の感覚が希薄になり、代わりに左腕の痣を通じて、怒涛のようなデータが脳内に直接流れ込んでくる。リリスのナビゲートを受けながら、リュウの意識はスラムの混沌を突き抜け、エナが厳重に秘匿していた個人サーバーへとダイブした。
『バイパス接続完了。……これより、エナの非公開ファイルを展開します』
ノイズが晴れ、目の前に展開されたのは、リュウが「エナの部屋」で見ていた彼女の研究日誌とは似ても似つかない、冷徹な実験記録の山だった。
「これは……被験者記録……?」
そこには、培養槽の中で胎児のように丸まる「自分」の画像が並んでいた。
「個体識別番号:L-015。エネルギー体『01(ゼロワン)』への適応指数、極めて安定。……記述修復の『苗床』としての成熟を確認。管管理者の裁定により、個体呼称を『リュウ』、01の呼称を『ジン』に設定。本日、疑似記憶のインプラントを開始……」
指先でファイルをめくるたびに、リュウの血の気が引いていった。
「リュウ」も「ジン」も、彼女が実験体と燃料に付けたラベルに過ぎなかったのだ。
スラムのゴミ溜めで震えていた自分を、彼女が拾ってくれた。泥だらけの手を引いて、温かいスープを飲ませてくれた。……その唯一の心の支えだった記憶すら、個体L-015を安定させるために打ち込まれた「偽の記述」に過ぎなかった。
「俺の人生は、全部……書き換えられたゴミデータだったのか……っ」
『否定します。あなたはスラム出身ですらありません。……あなたは、エナによって、01のエネルギーを純粋化するためのバイオ・サーバーとして生み出された存在です』
リリスの淡々とした告知が、リュウの心を粉々に打ち砕く。若き天才研究員としてプロジェクトを任されたエナにとって、リュウは愛すべきパートナーなどではなく、丹念に育て上げた「高性能な部品」に過ぎなかったのだ。
その時、サーバーの奥底から警告音が鳴り響いた。
『緊急警告。……エナによる逆探知を確認。……来ます!』
サーバー空間が歪み、聞き慣れた、だが今までになく冷徹な彼女の声が、頭の中に直接響き渡った。
『――リュウ? なぜ、そこにいるの?』
それは親しい女性の声ではなく、迷子になった道具を呼び戻す、飼い主の声だった。
『ダメよ、そんな汚い場所に触れちゃ。せっかく綺麗に書き換えてあげたのに。……今すぐそこから引き抜いて。私がすべて、元通りにしてあげるから』
リュウは激しい吐き気に襲われた。彼女の「優しさ」は、リュウ個人に向けられたものではない。自分に都合の悪いノイズを消し、手元にある「作品」を完璧な状態に保とうとする、狂気的なまでの管理欲。その底知れぬ暗闇に触れた気がして、リュウは震えた。
現実世界の感覚が、急激に戻ってくる。ジャンクションに轟く金属音、そしてサカキの怒声。
「クソッ、転送反応! 三機同時に来やがった!」
スラムの重い空気を切り裂き、管理局から転送されてきた三機の「クリーナー」――銀色の球体から無数のレーザー刃を伸ばした殺人ドローンが、殺気を持って急降下してきた。
「ブラッド、右の一機をビルから引き剥がせ! ローガン、左は任せたぞ、正面は俺が止める!」
ブラッドの高エネルギー弾が空中で火花を散らし、ローガンが咆哮と共に重機関銃をゼロ距離で叩き込む。だが、三機目のクリーナーが、その細いレーザー刃をリュウの首元へと伸ばした。
「アル!リュウを死守しろ!」
サカキのナイフがクリーナーの装甲を削り、激しい火花がリュウの頬を焼く。
「リリス……続けろ。エナに……この『記述』を返してやる!」
リュウは絶望を怒りに変えた。狙うは都市の麻痺だけではない。エナの管理下にある「L-015と01を縛る制御コード」の奪還だ。
激しい銃火と爆音の中、リュウは再び、データという名の深淵へと深く沈んでいった。




