暁王宮の一日
同じく六年後の成都。
王宮の庭で、瀟洒な衣装を身に纏った女性と一人の少女が、鞠遊びに興じていた。
鞠を手にして、少女に向かって軽くそれを蹴り上げたのは耀春だった。
すらりとした長身と細面の美貌。
耀春は、すっかり大人の麗人へと成長していた。
少し離れた庭の隅では、季煌と小媛が跪いて二人に眼を遣っていた。
そこから少し離れた場所では、大きな白い狼が二人を見護るように端座していた。
「おい、大丈夫なのか。耀耀はあのようにはしゃぎ回って…。相手は帝妃様だぞ。昔の耀春ではないのだぞ。」
「良いんじゃないの。その帝妃様が、耀耀を連れて来なさいって、自ら仰って下さったのだから…。それに帝妃様になられたと言っても、耀春はずっと耀春のままよ。」
その時、並外れた身の丈の大男が庭に入って来た。
金髪で碧眼のその大男は、耀春の前で跪いた。
「外出の準備が出来ました。着替えをなさったら直ぐに出発できます。」
辿辿しいながらも、きちんとした中華語でそう言ったのはシドニウスだった。
「分かりました。直ぐに着替えて来ますね。耀耀、今日は写生に連れていってあげます。こんな天気の良い日の写生は、本当に気持ちが良いものですよ。」
耀春にそう言われた耀耀は、嬉しそうに頷いた。
動き易い七分袖の上衣とゆったりとした洋袴に着替えた耀春は、側に控えた数人の女官達に向かって微笑んだ。
「では、出発しましょうか。」
「今日も護衛は、シドニウス様だけで宜しいのですか?」
一人の女官がそう尋ねて来たが、耀春は笑ってそれに応えた。
「この方以上の護衛がいますか?例え百人の賊が襲って来ても、シドニウス殿ならば、一瞬で打ち払うでしょう。それに露摸も一緒です。この二人に勝てる相手など、想像もつきませんね。」
出発した一行の先頭にはシドニウスが立ち、一番後方では露摸がその白い毛並みを輝かせながら、周囲に睨みを効かせていた。
「どちらに出掛けるのですか?」
そう尋ねる耀耀に、耀春は前方に見える小山を指差した。
「あの小山の向こうに草原があって、そこに秋桜が群れ咲いているのです。とても気持ちの良いところですよ。耀耀も、今日は絵筆を取ってみましょうね。お花を上手に描くこつを教えてあげましょう。」
耀春の言葉を聞いて、後ろから歩いていた季煌が、期待するように顔を挙げた。
それを見た小媛が、季煌の脇腹を突いた。
「あんたが期待してどうするの。帝妃様は、耀耀に教えて下さると仰っているのよ。」
「そう言うな…。耀春、いや帝妃様から画法を教えて頂くなど二年ぶりなんだぞ。しかも帝妃様の絵は、最近になって益々洗練されて来ている。新しい画法を目の前で見てみたいと思うのは当然ではないか。お前だって、そう思っているんだろう。」
「そうそう…。今日はお弁当もあるのですよ。シドニウス殿が、私の父様の店に取りに行って下さいました。きっと美味しいものが、沢山詰まっていますよ。楽しみですね。」
耀春がそう言うと、耀耀は期待に眼を輝かせてシドニウスを見た。
シドニウスは大きな笑みを浮かべて、背負った葛籠をぽんと叩いた。
「今日の潘誕殿は、物凄く張り切っておられましたよ。帝や重臣の方々の分も一緒に持たされたので、先程届けておきました。新作料理も入っているそうですよ。」
やがて一行は、小山の坂道に辿り着いた。
「此処から先の道は、耀耀にはちょっときついかも知れませんね。シドニウス殿、耀耀を肩に載せて下さいますか。」
それを聞いた耀耀が、びっくりしたようにシドニウスを見た。
「大丈夫。怖くなどありません。以前は、私もシドニウス殿の肩によく載せて頂きました。とても高くて、風景が違って見えるのに感動しました。最近は載せて頂くことも無くなってしまいましたが…」
耀春の言葉に、シドニウスは困った表情になった。
「帝妃様になられたお人を肩に載せるなど…。そのような不敬なことは出来ません。」
シドニウスの肩に座った耀耀の歓声を聞きながら、一行は小山を越えて目的地である草原に辿り着いた。
そこには見渡す限りの秋桜の海があった。
女官達が画帳と絵具を取り出し、耀春と耀耀に絵筆を差し出した。
露摸が、その二人を見守るように腰を下ろした。
「先ず、絵の構成を決めましょうね。耀耀は、一本の秋桜と群れ咲く秋桜、どちらを描きたいですか?」
「一杯に咲き誇る秋桜を描きたいです。」
「それでは、絵に深みを出す為に、紙の上方四分の一は空けましょう。此処の部分が向こうに見える丘の頂です。この頂から下に行くに従って大きく花を描いて行くと良いですよ。そうすると遠近感が強調されて、描き手がお花畑の中にいるようになります。色合いは、下に行くほどに濃く、上に行くほど薄くしてみて下さい。」
そう言いながら手本の絵を描いて行く耀春の手元を、季煌と小媛が真剣な眼で覗き込んでいた。
一刻ほど絵を描き続けた後、耀春が筆を止めた。
「そろそろお腹が空いて来ましたね。お楽しみのお弁当にしましょうか。」
シドニウスが、葛籠から三段重ねになった大きな弁当箱を取り出して蓋を開いた。
弁当箱の中身を覗き込んだ一堂から、一斉に歓声が上がった。
その匂いを嗅ぎつけけた露摸が、相伴を求めて耀春達の側に歩み寄った。
その頃、王宮の庭の縁台では、志耀が重臣達と共に、潘誕から差し入れられた弁当の木箱に箸を延ばしていた。
「相変わらず、潘誕殿の料理は見事なものだ。それに盛り付けが素晴らしい。益々腕が上がっているのではないですか?」
「誠にそうですな。いやぁ、この焼き魚は実に絶品ですな。上にかけられた黄金色の汁と横に添えられた果実の輪切りが一体となって、濃厚でありながら爽やかさも感じる。新作料理が入っているとシドニウス殿が言っていたが、これがそうでしょうか?」
姜維が弁当箱の一角に詰められていた焼き魚の切り身を口に運んで、顔を綻ばせた。
「牛酪と言うのだそうです。羅馬の料理人から教えて貰ったとか。牛の乳を容器に入れて振ると、脂肪が分離してくるそうです。それを練って作ったのが、牛酪と聞きました。魚の切り身に小麦の粉と香辛料を塗してから、牛酪で焼いたのがこの料理だそうです。何とも食欲を唆る香りですね。」
それを聞いた志耀が、ほぅと驚きの表情を作った。
「華真の兄様は、何故そのような事を知っているのです。もしや最近、潘誕殿の店に行ったのですか?」
華真が頷くのを見た志耀は、少し拗ねたように言った。
「どうして一緒に連れて行ってくれなかったのです。狡いではないですか。」
志耀にそう言われた華真は苦笑した。
「店の定休日に、華鳥から招待されたのです。飛仙の父から、久々に会いたいと言われて…。普通の日は大勢の客で混み合っていて、とても店には入れないですからね。帝をお誘いする事までは、思いが回りませんでした。」
それを聞いた志耀は、不貞腐れたように横を向いた。
そこで思い出したように、王平が口を開いた。
「潘誕の店と聞いて思い出しました。あの店に中々入れず癇癪を起こした大店の道楽息子が、愚連隊を雇って店に嫌がらせを仕掛けた話、もう耳にされていますか。」
それを聞いた志耀が膝を乗り出した。
「ほぅ…。それはまた向う見ずな事を。それでどうなったのです?」
「潘誕殿とシドニウス殿が二人で立ち向かったようです。一瞬で決着したそうですよ。店に押しかけた二十人余りの連中が、あっという間に叩き伏せられて、地面に伸びたそうです。」
「さもありなん。あの二人にたった二十人で挑むなど…。百人部隊でかかっても勝てるかどうか分からないというのに。自業自得ですね。」
「その場には、露摸もたまたま一緒にいたそうですが、欠伸をしながら二人の活躍を見ていたそうです。」
「流石ですね。自分の出番などないと、最初から分かっていたのでしょうね。」
大笑いする一堂の中で、呂蒙が、急に居住まいを正して志耀に向き合った。
呂蒙の様子を見た志耀が、首を傾げた。
「はて、私は何か、呂蒙爺に叱られるような事をしたか?」
呂蒙は、真剣な表情のまま志耀に尋ねた。
「帝が、耀春妃を后に迎えられたのは、いつの事でしたかな?」
「うむ…。一年半ほど前になるか。それがどうかしたのか?」
「どうしたではありません。後継ぎはどうなっているのです。一番大事な事ですぞ。」
呂蒙に詰め寄られた志耀は、神妙な顔になった。
「分かった。努力する…。」
「また、そのような通り一遍の言葉を…。もっと真剣になって下さい。政務など、ここに居られる姜維殿と華真殿に任せておけば良いのです。帝は、儂が生きている間に、後継ぎのお顔を見せて下さる気はないのですか?儂も老い先が短い身なのですぞ。」
そう言われて志耀は苦笑した。
「呂蒙爺からそのように言われるのは心臓に悪い。しかし大丈夫だ。」
「何が大丈夫なのです?」
「爺は、未だ心身共に矍鑠としているではないか。後十年は大丈夫だ。」
「十年…。そんなに待てと仰るのか。これは、儂への虐めですぞ。」
「今日の爺は、随分と絡むのだな。分かった、分かった。鋭意努力する。」
「努力して下さいませ。今後は陽が落ちて後の執務はおやめください。姜維殿も、華真殿も宜しいですな。」
そう言われて呂蒙に睨まれた姜維と華真は、下を向いて笑いを堪えた。
その時、何処からともなく風に乗ってきた秋桜の花びらが、弁当の料理の上に舞い降りた。
潘誕の店は、今日も朝から忙しい。
「おぅい、恭舜。魚籠の魚の鱗取りを頼む。亮苑は、料理で出す器を確認してくれ。」
恭舜と亮苑。
この二人は、潘誕が新たに店に雇い入れた者達だった。
そうは言っても、まだ二人共に子供である。
潘誕の店の繁盛を眼にした常連客達が、自分達の身内を競うようにして推薦して来た中から、華鳥が選んだ二人である。
子供とはいえ、かなりませた二人だった。
「亮苑、もたもたするな。今日は年に一度、帝妃様が里帰りされる日なんだぞ。しかも帝まで御一緒なんだ。ほうら、愚図愚図するな。」
恭舜に急かされた亮苑が、ついつい愚痴を漏らした。
「今日は、本当は定休日なんだぞ。帝妃様だけなら、普段通りの父上の料理が良いと必ず仰る筈だ。それが帝まで一緒に付いて来られるなど。自分よりも先に華真様が新作料理を口にしたのが、余程お気に召さなかったらしい。」
それを聞いた恭舜が不思議そうな顔になった。
「何でお前が、そんな事を知ってるんだ?」
「前に潘誕様が、新作の魚の焼料理を弁当に入れて帝にお届けした時だ。華真様が、その料理が何なのかを説明した途端に、帝が不機嫌になったそうだ。どうして一緒に店に連れて行ってくれなかったのかと、帝が拗ねたらしい。」
それを聞いた恭舜は、一旦は納得顔になった。
「今度こそは、華真様に先駆けて新作料理を口にしたいという事か。しかしお前。何故そんな事を知っている?ははぁ、耀耀だな。そんな事は王宮の人間しか知りようがない。耀耀の母者から耀耀が聞いた話の受け売りだな。また会いに行っていたんだな。しかし、耀耀は未だ幼い娘ではないか。そんな娘に、お前はもう懸想しているのか?」
恭舜にそう指摘された亮苑が口籠った。
それを見た恭舜が小さく笑った。
「図星という事か。」
そんな二人の後ろから、華鳥が急かすように声を掛けた。
「二人共、無駄口を叩いてないで先ずは手を動かしなさい。ぼぅっとしたままならば、昼の賄いからおかずを減らすわよ。」
それを聞いた二人は、慌てて立ち上がった。




