志が羽ばたく先
マルクスが部屋から辞した後、華真と司馬炎は互いの顔を見合わせた。
「さて、どうしたものですかな。帝にはお知らせせねばなりませんが、先ずは炎翔と胡蝶の意志を確認せねばなりませんね。司馬炎殿は、どうお考えですか?」
司馬炎は、もう一度窓の外に眼を移した後に、静かな声音で答えた。
「炎翔は、間違いなく羅馬に行くと言うでしょう。彼奴の見つけた志が、暁だけに止まらず遠く羅馬にまで繋がるのですから。それは、父としては誇らしい限りです。しかし問題は胡蝶殿です。あのような若い娘を、遠い羅馬の地に追いやるのは如何なものか。そう思ってしまいます。」
考えあぐねる様子の司馬炎に、華真が問いかけた。
「司馬炎殿は、胡蝶が傍に居なければ、炎翔は半分しか力は出せないと言われましたね。」
華真の問いに、司馬炎は頷いた。
「相手が皇妃様ですからね。この成都においても、妊婦の治療に当たっては、常に胡蝶殿が炎翔の助けとなっています。男の医者では気付かぬ事でも、胡蝶殿が直ぐにそれを察して、患者に対応していました。華鳥殿も言っておられましたが、胡蝶殿は、医者であれ患者であれ、目の前にいる者が何を求めているかを瞬時に察する事が出来る稀有な才能の持ち主です。ですから出来る事ならば、羅馬でも炎翔を支えて貰えれば、と思ってしまいます。」
それを聞いた華真は、司馬炎の真意を探る眼で尋ねた。
「差し出がましいのですが、炎翔は胡蝶の事をどう思っているのでしょうか? 父である司馬炎殿に、その事について話をしたことはないのですか?」
華真の問いに対して、司馬炎は首を横に振った。
「胡蝶が炎翔に対して単なる好意以上のものを抱いているのは、司馬炎殿もお気付きでしょう? 炎翔の方はどうなのでしょうね。」
すると司馬炎は、小さく溜息をついた。
「炎翔という奴は、自分の傍に居る人が、自分にとってどれほど大切な存在なのかという事に鈍感なところがあります。潘誕殿、華鳥殿、華真殿、更には帝まで……。余りにも周囲に恵まれ過ぎて、胡蝶殿の大切さに気付いていないのかもしれません。」
「ならば、父である貴方様から、炎翔に話をされたら如何でしょう? 誰よりも賢い炎翔ですから、直ぐに司馬炎殿の真意は察するでしょう。」
「いや…。今後の羅馬との友好にも大きく関わる事案です。その当事者になる者の父が、直接炎翔に会って目立つのは避けたいのです。ましてや胡蝶殿の事となると、完全に当人同士の問題です。但し父として、炎翔に大切な存在を気付かせてやる事には手を貸そうと思います。」
「分かりました。その事については、司馬炎殿にお任せします。ところでシドニウス殿についてはどうしましょうか?」
司馬炎は、ふっと笑うと華真を見詰めた。
「あの饗応の宴の後、潘誕殿の店には、過去にはなかった程に大勢の客が押し寄せているそうですね。無理を言って店に割り込もうとする客も増えていると聞きましたが…。」
「そのようですね。そういう客を追い返すのに、潘誕殿が難渋していると聞いています。」
「ならば、店の近くに警備所を設けたらどうでしょう?」
司馬炎の提案を聞いて、華真がにこりと笑った。
「その警備所の担当に、シドニウス殿を…という事ですか。シドニウス殿ほどの武人には、どう見ても軽すぎる役割ですが…。しかしシドニウス殿は喜ばれるでしょうね。」
翌日、炎翔は父の司馬炎からの文を受け取った。
『お前が羅馬に行くことを決意したと、華真殿から告げられた。己が求める道を突き詰めようとするお前を父は誇りに思う。思えば私は、祖父から国を支える志を繋げる事を託された。その時、志とは国境すらも越えるものだと教えられた。その教えに従って、私は今の帝を奉じて暁が生まれた。志とは人の生きる糧だ。それをお前は、既に手にしている。その志が、嘗ての三国どころか遠い西域にまで及ぶのは素晴らしい事だ。恐れず翔べ。しかし、父には懸念事が一つある。今や羅馬に招聘されるまでになったお前だが、それはお前だけの力ではあるまい。誰の支えによってそれが為されたか、もう一度己の胸に問い直せ。今のお前を支えてくれているのは、一体誰なのだ? その人から、お前は離れられるのか?』
文を読み終えた炎翔は、暫く呆然としていた。
炎翔が文を読んでいた医療処の控え室に、胡蝶が顔を出した。
「あら炎翔様。此処にいらっしゃったのですね。今日の昼食は、は炎翔様のお好きな揚げ鳥だそうでですよ。」
明るく笑う胡蝶に、炎翔はそっと近づいた。
「胡蝶、話があるのだが…」
「何でしょうか? 午後に使う鍼と灸の準備なら、もう終わってますよ。」
炎翔は、胡蝶に近づくとその両肩に手を置いた。
炎翔の唯ならない様子に気づいた胡蝶も、表情を改めて炎翔に向き合った。
「俺は、羅馬に行く事にした。羅馬の皇妃様はお身体が虚弱で、御子を産むのが難しいらしいのだ。鍼治療をして欲しいと求められた。俺は行くと決めたのだが……胡蝶はどうする? いや…、遠い羅馬まで行かねばならぬので、そのような危険をお前には強いられぬ。華鳥様の元で修行を続けるのが良いのかもしれない。」
気後れするようにそう言った炎翔に、胡蝶が泣き出しそうな表情を見せた。
「どうして一緒に来いと言って下さらないのです。私は、それほどに頼りないのですか?」
半泣きをしながら訴える胡蝶を前にして、炎翔は狼狽えた。
「そんな訳がないだろう。お前が傍にいれば、どんな患者の治療も上手く行く気がする。実際これまでその通りになった。……いや、そういう事よりも、胡蝶がいてくれると、何より俺が癒される…。」
そこ迄言った炎翔は、一度言葉を切って改めて胡蝶と眼を合わせた。
「胡蝶、お前は何があっても俺が守る。だから…俺と一緒に羅馬に行ってくれないか?」
胡蝶はしっかりと頷くと、炎翔の胸に顔を埋めた




