シドニウスの決心
それから三日が経ち、ラサウスとパンデに退院の許可が下りた。
退院の連絡を受けて、シドニウスが医療処まで二人を迎えにやって来た。
病室で退院準備をしながら、パンデがラサウスに尋ねた。
「聞いていますか?シドニウス隊長が、明日から俺達だけじゃなく、あの晩に一緒に酒を飲んだ三人も此処に呼び出すらしいです。」
「ふうん。何の為にそんな事をするんだ?」
「おや。知らない筈はないですよね。明日から毎日、五人全員があの灸の拷問を受けさせられるんですよ。俺たちの周りには、毎日入れ替わりで兵達が見物に立つそうです。おまけに俺たち二人だけは、肩に置かれる艾の量が二倍って聞きましたよ。」
ラサウスは、パンデからそう言われてもさほど怯えた様子は見せなかった。
「副長。これだけ言っても、あんまり嫌そうな顔をしないって言うことは…。たとえ灸の拷問を受けても、明日からも胡蝶様に会えるのが嬉しいって、そう思ってるからじゃないんですか?」
パンデにそう言われたラサウスは、ぎくりと身体を硬直させた。
「な、なんでそれが分かる…?」
「バレバレじゃあないですか。副長の胡蝶様を見る眼、日を追うごとに熱くなってますもんね。まさか胡蝶様をローマに連れて帰りたいとか、逆に自分が此処に残りたいとか、考えてないでしょうね? もしそうなら、絶対に無理ですよ。叶わぬ恋って奴です。」
「な、何故だ…?」
パンデは、ラサウスを憐れむように見ると、はぁっと息を吐いた。
「胡蝶様って、炎翔様と一緒にいる時は、こちらから話しかけない限りは全く俺達なんか見てませんよ。あの人が見てるのは、炎翔様だけです。胡蝶様が炎翔様を見る眼は、想い人を見る眼です。副長なんかは、完全に蚊帳の外ですね。胡蝶様の視界には、副長など一切入ってません。一切です。」
パンデの言葉を聞いたラサウスの眼に、嘆願の色が宿った。
「お、お前…。どうしてそのように容赦のない物言いをするんだ…。少しくらい気遣いがあっても良いのではないか…。」
ラサウスの嘆願に対して、パンデは鼻を鳴らして応えた。
「曹長っていうのは、いびり専門の役どころですからね。でも今回ばかりは、悪い事は言ってません。ここで俺が、副長の一方的な片思いに引導を渡せば、貴方も諦めが付くでしょう? それでやっと、皆が一緒の覚悟で罰を受けられます。罰を受けている時に、副長一人だけ心の中でにやけているなんて、絶対に許されないですから…。」
ラサウスがパンデの言葉にがっくりと項垂れた時、シドニウスが部屋に入って来た。
二人を見たシドニウスが、唇の端を上げた。
「退院おめでとう。しかしお前達は、明日からも此処に通ってもらうことになるぞ。特にラサウス。お前はずっと此処に居たいと言っていたな。暫くの間だが願いを叶えてやるぞ。」
それを聞いたパンデが、縋るような眼付きでシドニウスを見上げた。
「副長はそうかもしれませんが、俺の方は…。それに灸はあまり得意じゃないんですが…」
「ほぅ、そうか。お前達、あれほどの愚行を犯しておきながら、何の罰も受けずに済むと思っていたのか。俺はそんなに甘くないぞ。明日からお前達五人が、灸を据えられて脂汗を流す姿。それを観るのを多くの兵達が楽しみにしているぞ。」
シドニウスの冷たい笑みを浴びて、ラサウスとパンデの全身が凍りついた。
青ざめた表情のラサウスとパンデを伴って宿営所に戻って来たシドニウスは、直ぐにマルクスに呼ばれた。
「あの二人の顔色が冴えなかったが、未だ本調子ではないのか?」
「なぁに、もう何の問題も有りませんよ。明日から受ける罰を前にして、緊張してるだけです。心配いりません。俺の最後の愛の鞭です。しっかりと受け取って貰いますよ。」
それを聞いたマルクスが、シドニウスの顔を覗き込んだ。
「その事なんだが、昨夜にお前の言った事、本気なんだな? 私は、本日の午後に華真殿と司馬炎殿の二人と会談をする。その時、お前の事も話さなくてはならないが、本当にそれで良いのか? 考え直すなら今だぞ。」
「俺の考えは変わりません。華真殿と司馬炎殿には、是非とも宜しくと頼んで下さい。」
「しかし、お前一人だけを暁に残すなど…。これではまるで人質のようではないか。」
「人質と言って貰った方が良いと思います。マルクス様が、本日華真殿達に話される大切な申し入れ。それを受け入れて貰う為には、人質があった方が良いですから。」
「しかし、そうは言ってもなぁ…」
まだ納得が行かない顔つきのマルクスに向かって、シドニウスは言った。
「俺が暁に残ると決めた本当の理由は、今日の申し入れとは関係がないんです。俺自身が、絶対に残りたいと思っているんです。暁に残って見届けたいものがあるんです。」
「見届けたいもの…?それは何だ?」
「二人の女神が歩む未来です。」
「女神…?あぁ、お前が入れ込んでいる耀春殿と華鳥殿か…。どう言う事だ?」
「あのお二人が常にぶれずに信念を貫く姿は、本当に神神しい。あのお二人が、医療と絵画、それぞれの道でこれから何を成し遂げるのか、それをこの眼で見届けたいのです。いや…ただ見届けるだけでなく、俺なりに護りたいと思っています。」
それを聞いたマルクスは、呆れたように言った。
「お前、それは惚れてしまったと言う事ではないか? しかし華鳥殿は亭主持ちだし、耀春殿は未だ子供だぞ。しかも親子だ。そんな二人に…。」
「惚れたのかと問われれば、その通りです。しかし決して色恋ではないのです。あのお二人が、きっと齎すであろう未来の姿に惚れています。こんな気持ちは、かつて皇帝陛下に初めて謁見[えっけん)させて頂いた時以来です。」
真剣なシドニウスの眼の色を見て、マルクスは息を吐いた。
とことん本気なのだな。分かった。しかし暁から人質など要らぬと言われたらどうするのだ?その時は諦めるか?」
しかしシドニウスは、今度は期待を込めた眼でマルクスを見上げた。
「そこを何とかするのが、マルクス様の交渉力ではないですか。伊達に皇帝陛下の側近を務めている訳ではないですよね。」
「こんな時だけ、都合の良い事を…。分かった。お前の男気、必ず伝えよう。」
その日の午後、マルクスからの面会依頼を受けた華真と司馬炎は、王宮の会議室でマルクスがやって来るのを待っていた。
「さて、どんな用件でしょうかね? 華真殿はともかく、私にまで依頼が届くとは…。」
司馬炎はそう言うと、窓の外へと眼を遣った。
「私にも見当が付きません。波斯国に対する条件や、我が国と羅馬の間で締結する協定の内容については、ほぼ合意が出来ていますから…。何か新たな交渉事が生じて、その相談かもしれませんね。」
その時、会議室の外から文官の声が掛かり、マルクスの到着が知らされた。
会議室に入って来たマルクスの眼には、今迄の交渉で見せていた以上の真剣な光があった。
「急な面会の申し入れに、快く応じて頂き感謝致します。我らは三日後に成都を離れ、ローマへの帰途につきます。その前に、是非ともお二人にお願いせねばならぬ事が出来たのです。」
マルクスの真剣な態度に、華真と司馬炎は居住まいを正した。
「華真殿には先日少しだけお話したのですが…。コンスタンティヌス皇帝陛下の皇妃様の事です。皇妃様はお身体が弱く、もし御子を孕めば出産に耐える力はない、と言うのが我が国の医師達の診断です。」
マルクスは苦しげな表情で言葉を繋げる。
「皇妃様は、ご自身の命が危険であっても陛下の御子を産みたいとお望みです。しかし陛下は、そのような無理をして、もし皇妃様を失うことになってはならないと仰り、絶対に首を縦には振られません。この葛藤は、陛下と皇妃様だけのものではなく、我ら側近一同の葛藤でもあるのです。」
そこまで話を聞いた華真と司馬炎は、直ぐにマルクスの意図を悟った。
「しかし、私は先日素晴らしい治療法を眼にしました。鍼治療というものです。自分自身でも体験しました。信じられないくらいに、身体が軽くなりました。我々の後に治療を受けたクイントスは、長年悩まされて来た腰痛から解放されたと感激していました。」
マルクスの声音には、強い興奮が混じっていた。
「しかも鍼治療は、虚弱で子が望めないと言われた女性をも無事に出産にまで導いたと聞きました。そうであれば鍼治療は、陛下と皇妃様を安寧に導く希望の糸なのです。」
すると華真は、確認するようにマルクスに尋ねた。
「つまりマルクス殿は、炎翔と胡蝶の二人を、皇妃様の治療の為に羅馬に招きたいとお考えなのですね。」
「炎翔殿だけでも結構です。だから父上である司馬炎殿にも同席をお願いしました。鍼治療を行うのは炎翔殿なのですよね。」
そう言うマルクスを見て、司馬炎は首を横に振った。
「炎翔だけでは無理でしょう。炎翔と胡蝶。今ではあの二人は一体の存在なのです。特に患者が皇妃様となれば…。胡蝶が欠ければ、炎翔は持てる力の半分も出せないでしょう。」
「ならば、あのお二人を揃ってローマに貸し出して下さい。伏してお願い致します。」
すると華真が、改めてマルクスに向き合った。
「これは、帝にもお伝えしなけばならない事案です。それ以前に、本人達にも覚悟を尋ねなくてはなりません。本人達が承諾し、帝もお認めになった時ですが、羅馬での二人の安全については、保証は頂けますね。」
「勿論です。お二人のローマにおける安全を我らが保証する証として、シドニウスをこの地に残します。」
「それは、二人の安全を担保する人質という事ですか?」
「そう取って頂いて結構です。」
華真は、あっさりと返事を返した。
「必要ありませんよ、そんな人質…。きっと帝はそう仰ると思います。ですから、人質の件は無かったことに…」
それを聞いたマルクスは、焦りを帯びた表情で声音を強めた。
「それは、困るのです。シドニウスについては、本人の強い希望もあり、是非とも暁の地にてお預かり願いたい。」
「何故シドニウス殿が、そのような事を望むのです?」
マルクスは、やや躊躇した後に、はっきりとした口調で言った。
「こんな事を突然言ってしまうのは不謹慎なのですが、シドニウスは、華鳥殿と耀春殿に惚れたと告白しました。」
それを聞いた華真と司馬炎は、呆気にとられた顔になった。
「但しあいつの場合には、色恋は一切関係ありません。あのお二人の未来に惚れたのだ、そうシドニウス言っていました。その感覚は、若き皇帝陛下に初めて拝謁した時以来だとも。若き頃の皇帝陛下というのは、誠に怖いもの知らずのお方でした。東西ローマの統一に向かって、がむしゃらに邁進する姿に、我らは心を震わせました。」
華真と司馬炎は、黙ったままマルクスの言葉に耳を傾けていた。
「しかし統一を果たした後のローマを安定させる為には、それまでのがむしゃらさだけでは通用しません。嘗て東西の正帝や副帝の座にいた者達との駆け引きには、裏取引や権謀術数も必要となりました。」
マルクスの言葉に、司馬炎が納得の表情を見せた。
「当然だと思います。広大な帝国を治める為には、綺麗事だけでは済みませんからね。」
「そんな政務に忙殺される陛下が、シドニウスの眼には痛々しく映っていたのでしょう。ローマに戻れば、そんな陛下のお姿をまた眼にしなければなりません。」
「しかし、それは…」
言葉を挟もうとした華真を、マルクスが遮った。
「分かっています。本来はそのような政務は、側近である我らが陛下に代わって行うべきなのです。しかし恥ずかしながら、陛下の英邁さに我らがついて行けないのです。軍人であるシドニウスには、それも歯痒く見えているのでしょう。」
「だからといって、羅馬には戻らず一人暁に残るなどとは…。」
マルクスは、嘆願の口調になっていた。
「直情径行で一途な男なのです。一度決めたら、その後は前に進む事しか知りません。しかし、私にはシドニウスの気持ちが良く分かります。あの男は、常に眩いものを追いかけているのです。シドニウスの願い、どうか受け入れてやっては頂けないでしょうか。出来るなら、あのお二人の近くに置いてやって頂ければ幸いです。」




