① 百道夫婦の新しい一歩ー3
もはや、伸一は何も言うことができずに、黙って妻の顔を見ることしかできなかった。もし、あの事故さえなければ、間違いなく妻の言う通りになっていただろう。
一見、幸せに見えるけど、本当はお互いに心が通じ合っていなくて、気付かれないうちにお互いを遠ざけてさえいた日々。
ただし、志恩がこの世界からいなくなった今、百道家の小さな世界は大きく変わった。もう、あの日々に戻ることはないだろう。そうは言っても、妻が完全に落ち着くまでは釣りも将棋もお預けである。
「確かに、そうだな…。まあ、『もし、○○だったら…』の仮定の世界ならいくつでも想像できる。しかし、どんな形であれ、現実の世界は一つしかないんだ。現実の世界にどんなに納得いかなくても、現実にあるものを受け入れて生きていくしかないんじゃないか?」
桃子は、夫があまりにも哲学的なことを言うので驚いた。ある時から、なあなあでのらりくらりと生きていくことを選んだ夫に失望していた。本当は二人とも野心的に育てたかったが、健芯はどこまでもマイペースだった。
そして、せめて志恩だけは野心的に生きて欲しいと思い、志恩だけを大切に育ててきた。その結果、志恩を事故で失ってしまった。一時期は、目の前が完全に真っ暗になった。
ところが、どこからか一筋の光が差し込んで来た。桃子が深い悲しみに暮れて、半ば自暴自棄になった時でさえも、伸一と健芯は桃子を見捨てなかった。二人がいたから、桃子は少しずつだが立ち直ることができたのだ。
志恩がいなくなったショックは未だに大きい。しかし、そのショックから立ち直るために家族が一つになれたのだから、人生はどう転ぶか分からないものである。
「桃子、どうしたんだ。急に黙り込んで…」
「いや、伸一さんが、あまりにも哲学的なことを言うから…」
「室見川先生の受け売りだ。俺の言葉じゃない…」
伸一は年甲斐もなく、照れながら言う。桃子はあえて気付かないふりをして、急に足早になった夫の後を追った。こんな日はもう二度と来ないと思っていた…。
今こうして、再び、二人で肩を並べて歩くことができるなんて…。桃子は人生の不条理な不幸と、突然舞い降りた小さな幸せに思いをはせた。




