空蝉と踏み切り 1
僕の住む町には踏み切りが一ヶ所だけある。
駅自体が地下に潜る計画がたてられているので、あと数年の光景だが、朝の通勤時間帯は閉まっている方が多いらしく、せっかちな人間にとっては煩わしくてたまらないものだろう。
僕の行動範囲上、利用することはほとんど無かったが、商店街で花屋を営む友人の手伝いで、久しぶりに遮断機が上がるのをジッと待っていた。
夏休み二日間限定の短期バイトだ。日当五千円。お盆の時期、人手が足りなくて困っているらしい。
毎日家でボーとしているのも飽きたし、丁度良い気分転換だと、バイトの誘いを引き受けたが、願わくば楽であってほしいな、と赤色の点滅をぼんやりと眺めながら考える。
カンカンカンと危機感を煽るような警報が午前中の商店街に響き渡る。ついで電車が轟音を響かせて通過した。前髪が突風に煽られる。
線路を抉る車輪の回転音が悲鳴みたいに鼓膜に貼り付いた。
最後尾の車両が通りすぎると、電車にさらわれた音がゆっくりと戻ってきた。
黄色と黒の遮断棹が上がり、僕は早足で踏み切りを渡った。
「……」
線路を挟んだ向こう側に棒立ちのまま動かない幼い少女がいた。信号に例えるなら青になったにも関わらず渡ろうとしない歩行者であり、後続者にとっては迷惑極まりない存在だった。
うざったそうに避けて通る人波に少女は肩をぶつけられて、丁度すれ違っていた僕の方によろけてきた。
「危ない」
咄嗟に庇い、手で彼女の転倒を防ぐ。
「大丈夫?」
「……ども」
短く言って、少女はふらふらと非常停止ボタンのすぐそばにしゃがみこんだ。
顔があまりにも青ざめていたので、心配になったが、僕にも事情と言うものかある。線路の外だし、そこまで気にかける必要もないのかもしれない。
花屋に急ぐことにした。
何度か手伝ったことがあるので、仕事内容は把握しているし、母の日を越える忙しさは無いはずだ、とタカをくくっていた僕の足元はものの見事に掬われた。
霊園が近くにある住吉フローリストでは、仏花や墓花などのお供えものの花が飛ぶように売れ、お陰で僕の意識も飛びそうになった。臨時アルバイトよりもよっぼど花に詳しい客のオバチャンの相手は酷く疲れる。
昼過ぎになって、ようやく開放された僕は、立ちっぱなしで疲れた足を引きずって帰宅の途についた。明日も同じ仕事をするかと思うと嫌気が差してくる。
行きとおなじように踏み切りを通る。
セミの声がぶつかり合う喧騒の中、遮断機が降りていた。早く帰りたかったが、バーを無理やり押し開ける訳にもいかず、朝と同じように、ぼんやりと警報灯を眺めた。
道路では車が数台踏み切りが開くのを待っている。夏の太陽に照らされ、陽炎が揺蕩っていた。
縁石にもたれ掛かるように、今朝の少女が座り込んでいた。小学校低学年くらいの幼い女の子だ。電車が好きなのだろうか。
長い髪を垂らして輪郭を隠すようにしている。
気分が悪そうだったが、声をかける勇気は無かった。
彼女の存在感は朧気で霞んでいる。
目を合わせないように僕は空を眺めた。
青空に白い雲が浮かんでいる。
昼過ぎの空は美しく、風情のある光景だった。
遮断機の警報が蝉時雨と入り交じり、独特な風情となって、僕の鼓膜を揺らし、
「おええぇぇぇ……」
嘔吐音が叙述的な雰囲気を台無しにした。
少女が人目を憚らず、吐いていた。
うずくまり、線路沿いの茂みに向かって、胃の内容物をぶちまけている。
最悪なものを見てしまったと、辺りを見渡すが、僕と彼女の他に人はいなかった。仕方ない。
電車が方向指示機通りにやって来て通りすぎて行く。
少し来た道を戻って、自販機で水を購入し、少女の吐瀉が収まるのを待ってから、ペットボトルを差し出した。
「大丈夫?」
「……ども」
短く礼を言ってから、少女はペットボトルを受け取り、キャップを外して、水をごくごくと美味しそうに飲んだ。
「……ありがと、です。美味しかった、です」
「どういたしまして」
たどたどしいお礼を言ってから、少女はモジモジと指を絡ませながら、僕を見つめた。
「いくらです?」
「お金はいいよ。無理しないね」
「そんな、悪い、です」
「子供はそういうの気にしちゃダメだよ。お大事にね」
その場を立ち去ろうとした僕の裾を彼女は掴んでいた。
「何?」
「あの、これ」
差し出されたのはセミの幼虫だった。生きている。思わず「ヒッ」と悲鳴をあげてしまった。
「お礼、です」
嫌がらせかな?
脱け殻しか見たことないセミの幼虫を受け取り、手の中でモゾモゾと蠢くそれを持って、僕は線路を渡った。
踏み切りと少女が見えなくなってから、街路樹の幹にセミの幼虫を離す。部長が昔、虫は宇宙からやって来た説を熱く唱えていたことをなんと無く思い出してゾッとした。
幼虫はモゾモゾと緩慢な動きで枝にしがみつくと動きをとめた。
小学生のときは平気で触れたのに、今はもう無理だ。虫が苦手なわけではないが、正直気持ち悪い。
早く手を洗いたかった。きっとセミの幼虫も人間に触られてお風呂に入りたいに違いない。
「おっよー、ヘータじゃん。なにしてんの?」
底抜けに明るい声をかけられた。目をやると黒江さんが日傘をさして立っていた。
「夏休みエンジョイしてるぅー?」
黒江さんは高校の一つ上の先輩だ。部長の友達で明るい性格をしているが、吸血鬼を名乗る不審人物だ。
薄手の長袖のシャツにロングスカートをはいていた。真夏なのに読者モデルは日焼け対策も大変そうだ。
「うわっ、アブラゼミの幼虫じゃんー。まだ昼間なのに珍しいにゃー」
僕の視線のセミの幼虫に気付いて黒江さんは大袈裟なリアクションをした。
「そうなんですか?」
「セミが羽化するのは夕方から夜にかけてだからねん」
「虫に詳しいんですね」
「虫博士とは私のことよぉん」
「へぇ、そうなんですか」
意外だ。
白い肌は屋外とは無縁といった風に太陽の光を浴びて輝いている。
「成虫になったセミの寿命は意外と長くて二週間くらいは平気で生きられるんだよん。だけど飼育が難しくてすぐ死んじゃうから儚いイメージがついて回ったのさ」
「聞いてないんですけど」
「鳴き声が油をあげたときの音に似てるからアブラゼミっていうんだって」
「だから聞いてないって」
「夜鳴きをする種としても知られていているねん。他のセミも夜鳴きはするけど、それらと比較してもアブラゼミは顕著なんだよん」
「話聞けよ、おい」
ヒートアップするどうでもいいセミの雑学を落ち着かせて、僕は黒江さんに商店街にいる理由を訊ねた。
「だって私の家、そこだもん」
細い指で差したのは喫茶店だった。
プラージュと記されている。
「お茶でも飲んでくぅ?」
にっこりと白い歯を見せて微笑まれた。
「お言葉に甘えたいんですけど、バイト上がりで疲れてるんで、今日は帰ります」
「そっかー、残念やなぁ。ん、つか、バイトってなにしてんの?」
「友達の花屋さん手伝ってました」
「住吉フローリスト? へぇ、友達なんだ。あそこには毎年お花頼んでるんだよ」
「あ、そうなんですね。有難うございます」
「明日取りに行くからよろしくねん」
ああ、お盆か。僕も妹を連れて墓参りに行かないとな。
商店街のほとんどのお店がシャッターを下ろしている。半分は閉店したからだが、もう半分は『お盆休みのお知らせ』と掲示を掲げている。
僕は黒江さんに頭を下げてその場をあとにした。
長く生きればそれだけ別れも多くなる。
幼馴染は病気で死んだ。
妹の知り合いは自殺した。
僕はこれ以上誰かと別れたくはない。




