夜闇は人の世にあらず
コンビニで夕食を購入し、どこへ向かうでもなく住宅地をふらつくことしばらく。
真っ赤な夕日の景色の中に、能天気な防災無線のチャイムが鳴った。一瞬の間を置き、淡々とした女性の声が続く。
『二月二十一日、金曜日。本日の日没予定時刻は十七時二十八分です。外出中の方は、ご帰宅をお急ぎください』
防災無線が『繰り返します』と続ける。百目鬼花帆は立ち止まり、制服のポケットから携帯電話を取り出した。待受画面の時計を確認する。
(あと二十分もある。……最近、日が伸びたなぁ)
携帯電話をしまいながら「もうすぐ春かぁ」と独りごち、マフラーに顔を埋めて歩き出す。柔い風が吹き、手首にかけたコンビニの袋がカサカサ音を立てた。
踏み出すごとに太陽が傾き、足元の陰が伸びていく。景色はより赤く。物陰の色彩はより暗く。
向こうに見える自動販売機の陰の中で、黒い何かがモゾモゾと動いた。花帆は気にせず歩き続け、その前を通過する。
しばらく歩いたところで、再び防災無線が鳴った。
『日没予定時刻まで、残り五分となりました。帰宅が困難な方は、最寄りの一時避難結界の利用をご検討ください』
その言葉に、花帆は「『ご利用』ねぇ」と鼻で笑う。
(『一時避難結界に行け』って言わないのは、そうと思って入った先が〈ロア〉の〈神域〉だった場合の、責任逃れかな)
そもそも、このアナウンスに意味はあるのだろうか。朝の天気予報で日没時間を確認することも、日没までに帰宅できるようにスケジュールを調整することも当たり前のことだ。
そうしなければ〈神隠し〉に遭って、ほとんどの場合、死ぬことになるのだから。
(しかも、ただ死ぬんじゃない。『無惨に』死ぬ)
向こうの街灯が点いた。真っ赤な陽光が色褪せていく。徐々に広がる陰の中に開いた無数の目が、その前を通る花帆を捉える。
花帆はのんびりとした足取りで街灯の方へ。太陽が沈みゆく。光が去った空白を夜闇が埋める。そこかしこの陰から黒い腕が、目玉が、脚が——数多の人間をぐちゃぐちゃに丸めて再びバラしたような『何か』が湧き出す。
道の左右、そこかしこから、際限なく。それは広がる夜闇を伝って花帆を追いかけ、血濡れの手を背中へ伸ばした。
触れる、直前。花帆が街灯の下に入ると、『何か』の指先が光に弾かれ、バチっと空気を裂くような音が響いた。
光が壁であるかのように。黒い何かが周囲に集まり、堆積していく。
夜闇は人の世にあらず。ここは異類(人ならざる者)の領域だ。
(今日も、その辺によくいるやつばっか……)
太陽が完全に沈み、『何か』だったものたちが真の姿へ変わっていく。
人の顔をつけた犬、赤い雨合羽を着た顔のない少女、子供の生首の集合体、エトセトラ。外見だけで本能的恐怖をそそるモノたちが、言葉にならない声を上げながら光の境界を叩く。
これは〈ロア〉。古くから存在する異類の内、歴史が浅く、人間に害を成す存在。人間の恐怖心と噂話が生み出した情報が実体化したもの。
花帆は群がるロアたちに視線を巡らせ、目当てのものを探した。鉛白色の髪の、浅葱色の瞳をもつロア。
(……いない)
それから耳を澄ませる。ロアたちの声は獣の鳴き声のようなものばかりで、人語を用いるものはない。
今夜もハズレだ。
「やっぱり、偽物の結界を探す方が早いかな」
独りごち、コンビニの袋をまさぐる。ふと視界に入った足元の陰の中で、何かがチラチラと動いている。「早くしろ」ということだろう。
「せっかちだなぁ」
カップ麺を食べる用にもらった割り箸を取り出し、端を持って前へ向ける。足元の陰から腕の陰が伸び、その先の割り箸の陰が街灯の外の夜闇に繋がる。
花帆の足元の陰で動いていたものが陰を伝って夜闇に至った瞬間——
横に一閃。瞬いた光は刃の反射光。上下に断ち切られたロアが霧散し、夜闇の中で朽葉色の羽織の背中が振り返る。
見た目は二十歳くらいの、濡羽色の髪の青年。黒い着流しを纏っていて、腰には朱色の鞘がぶら下がっている。そこへ太刀を戻す手慣れた動きは遠い昔の武士を思わせるが、
「なんでまたカップ麺買ってんだよ!」
ムスッとした顔で言い放つ様は現代人のそれ。黄金色の瞳が花帆のコンビニ袋を睨みつける。
「コンビニ飯っつったって、サラダも弁当も売ってるのに。なんでよりにもよってお前は一番健康に悪いもんを選ぶんだ!」
言動は完全に人間。しかし、顰めっ面の額には、親指ほどの長さの黒いツノが二本生えている。
花帆が彼と出会ったのは一昨年。中学三年生の冬。彼は最初からこの調子だった。
「別に、なんでもいいじゃん」
「なんでもいいなら弁当にしろ。『一日分の野菜が摂れる幕の内弁当』とか」
「お弁当だと片付けが面倒くさいんだもん」
「はあ? カップ麺と同じだろ」
「プラごみは洗ってから出さなきゃじゃん」
「カップ麺の容器もプラごみだ」
「紙のやつ選んでるから」
「お前っ、労力かけるとこおかしいだろ!」
青年が頭を抱えて叫び、その声が夜の静寂に消える。そこらのロアは彼がまとめて切り捨てたため、闇は停止していて静かだ。
花帆は街灯の下から出て歩き出す。青年が「おい、花帆、聞いてんのか」と不機嫌そうに言いながら隣に並ぶ。
彼の名前は亜久良。ロアではない異類——遠い昔の信仰が生み出した情報で構成される、今はもう消えゆくばかりの存在だ。
故に彼らを示すカテゴリ名はない。神、鬼、妖怪、モノノケ辺りが適当と思われるが、本人曰く、彼は神でも鬼でもないらしい。
額にツノがあるのに。
「いい加減、その面倒くさがり直せよ」
「面倒くさがりじゃなくて合理化だよ」
「なーにが合理化だ。昨日テレビで言ってたぞ。お前くらいの年頃の娘が食生活で適当かますと、骨粗しょう症ってのになる」
「知らないよそんなの」
「今知ったから、今後カップ麺は禁止だ。弁当……というか、お前料理できるだろ。やれよ」
「それこそ面倒くさい」
「やっぱり、合理化じゃなくて面倒くさがりだな」
「……うざ」
花帆が口をへの字に曲げてそっぽを向き、亜久良が勝ち誇ったように笑う。人間と異類。彼らは共に暮らしているが、決して家族というわけではない。
期間限定の協力関係。花帆は母を殺したロアへの復讐のために、亜久良は効率よくロアを殺して回るために、今日も夜を歩いている。




