小さな王子さま なぜ語るのか?ということ
手元に無いので、うろ覚えですが(危険なチャレンジですね 笑)、サン=テグジュペリ先生の『星の王子さま』。
原題の意味は、『小さな王子さま』で、『星の……』は、翻訳家の方の意訳だとか。
もう、定着してしまって、このタイトル以外は想像できません。
この意訳的なタイトルの定着ぶりと同じくらい、この物語をとても素晴らしい作品だと評価することに、異論を唱える方はいないと思います。
素晴らしい童話です。
でも、ボクがここで言いたいのは、とても素晴らしい童話であると同時に、とても素晴らしい“一人称の物語”だと思う、ってことです。
んー……。
この、論点の微妙な違いを、ちゃんと伝えることができるかどうか、不安なんですが……。
一人称の作品というのは、出来事、物語を、そこに居合わせることができた誰かの認知・認識で語ることです。
それで成立します。
でも、“レベルの高い一人称の作品”には、もう1つ条件があると思います。
それは、
「ああ、そうか、だから語りたかったんだな」
「ああ、そうか、だから聞いてほしかったんだな」と、
納得させる理由があることです。
うろ覚えの、『星の王子さま』の読後感なんですが。
不思議な物語を長々と聞かせてくれた幼い男の子が、ヘビに噛まれて、次の日に見に行くと、そこには何もなかった……。
味も素気もない冷徹な表現をすると、起きた出来事は、そーゆーことなんです。
でも、語り手もボクらも思います。
幼い男の子の不思議な話が男の子の空想ではなく、ヘビに噛まれたことで、ちゃんと星へ帰ることができていますように……。
星に帰ることができた男の子が、うっかり忘れることなく、大切なバラが今日も無事でありますように……。
そして、ボクらは納得します。
今、自分がそう願っているように、語り手は、みんなにも願って(祈って)ほしいんだ、と。
だから、語ったんだと。
一人称の物語は、誰かの目線で語れば成立します。
でも、レベルの高い一人称の物語は、“どーしても語りたかった理由”“語らずにはいられなかった理由”を、そこに感じることができると思います。
ただ単純に話を聞いてほしいってことなら、ヒマをもて余している、寂しくてかまってほしい、っていうレベルの理由でも成立します。
でも、世間話よりは少し表現が詳細で長くなる、一人称の物語という作品には、“できれば”、語らずにはいられなかった理由があることが、望ましいんだと思うんです。
だって、友だちの話でも長々と聞かされるのが苦痛の時って、あるじゃないですか?
ましてや、架空の人物の架空の話ですからね。
(架空の人物とはいえ)聞いてほしかったんだと納得できる情緒……語りに向き合う意義が……ほしいですよね。
語りたかったんだと納得させる、理由となる情緒を生む顛末。
そこに向かう流れ。
それを成立させるって、難しーですけどねッ。