勅命①
暁春は、途方に暮れていた。
約束の刻限まで、あと半刻。
けれども一向に目的地が分からないのだ。
「どうしてこの城は、こうも無駄に広いんだ…」
城の広さが原因か、生まれもっての方向感覚のなさが原因か、ともかくもうずいぶん長い間、同じような場所を行ったり来たりしている。
どこまでも真白く塗り込められた回廊を、ぐるぐるさ迷い歩いているうち、狐狸にでも化かされているような気がしてきた。
本当にここは、目的の城で良いのだろうか。
いや、そもそも、この城に招かれたこと自体が夢ではなかろうか。
どうにも地に足が着いていないようで、心許ない。
「だいたい私のような者が、本当にここへ足を踏み入れて良かったのだろうか」
広すぎる回廊をとぼとぼ歩きながら、誰にともなく独りごちた。
暁春は、都から馬で10日ほどかかる山間の出で、父親はしがない下級官吏である。
官吏とは名ばかりで、都に上がることなど数年に1度しかない。
共に育った若い娘たちの中には、きらびやかな衣装や宝飾品を欲しがり都に行きたがる者も少なくなかったが、暁春自身はそういった物にまるで興味がなかった。
衣服なら姉たちのお下がりで賄えていたし、宝飾など動くのに邪魔になるだけだ。
田舎暮らしとはいえ、食を詰めるほど貧しいわけでもなく、むしろ自給自足のおかげで食べ物に困ったことはない。
都に思いを馳せる暇があれば、その分、剣の稽古や、書物を読み耽ることに時間を費やしたかった。
それが何故、望んでもいないのに都に来ることになったのか。
そのうえ、官吏の父親ですら足を踏み入れたことのない、王の住まうこの城に参じることになったのか。
ーーー話は、10日前に遡る。
その日、父の旧友である估希惇という人物が、書簡を携えて来訪した。
估希惇は、立派な長い黒ひげをたくわえており、着ている物も一目で高価な品だと分かる一品で、乗っている馬でさえ、毛並みの美しい駿馬であった。
これはまた、ずいぶんと我が家に似つかわしくない人が来たものだと思いながら、暁春は自宅にある中で一番綺麗な茶器を取り出して茶を注いだ。
「お話し中、失礼致します」
盆を片手に客間の扉を開けると、
「おおっ、君が暁春かね」
估希惇が立ち上がり、すたすたと歩み寄ってきた。
そして、茶器の乗った盆を暁春からひょいと取り上げると、空いている席に座るよう促した。
「あ、あの……」
「まあまあ、良いから座ってくれ」
ただ茶を出しにきただけなのに、なんだか妙な雲行きだ。
だいたい、客人から「座ってくれ」などと言われるのも、おかしな話である。
ちらりと父親に視線をやると、なんとも言い難い複雑な表情で、うーんうーんと唸っている。
「君のお父上は、今少しばかり混乱しているのだ。私から話そう。ささ、座りたまえ」
仕方なく、言われるがまま席についた。
「さて、と」
估希惇は淹れたての茶を一口すすってから、厳格そうな相貌を崩して笑顔を見せ、話し始めた。
「君は、都に行ったことはあるかね?」
「いえ」
「行きたいと思ったことは?」
「ありません」
すっぱりと答えると、估希惇は少々驚いた顔をした。
「ほう…君の年にしては珍しいな。未知の物への憧れはないのかね?都には各地から色々なものが集まる。君の見たことがないものもたくさんあるだろう。こんな田舎暮らしで…狭い世界しか見ないままに一生を終える気かね?」
立て続けに質問をぶつけられて、返答につまってしまった。
人と話すのは、それほど得意ではない。
簡単な応答ならばともかく、初めて会う人間に、こう鋭い切り口で突っ込まれるとは思っていなかった。
「一生とまでは言いませんが、少なくとも今は、特段都に行きたいとは思っていません」
言葉を選びつつ、そう答えた。
估希惇の口ぶりだと、都に興味を持つことが正解のように聞こえる。
だが、変化が少ないとはいえ、家族と過ごせる穏やかな日々を変えたいと思わないのは事実だった。
「うーむ…」
今度は估希惇が、父と同じように唸り、立派な髭を撫でながら考え込んでしまった。
「……?」
暁春には、何がなんだか分からない。
「いやはや、私の考えが甘かったようだ。君の歳を知ったとき、きっと好奇心旺盛な年頃だろうから、これは簡単に話に乗ってくれるだろうと、正直そんなふうに考えていたのだ。しかしとんだ誤算だったようだ」
説明する気があるのかないのか。
估希惇のそれは、まるで大きな独り言のようだった。
暁春の怪訝な表情を見て、彼は苦く笑い、頭を掻いた。
「何を言っているのか分からない、という顔だな。すまなかった。私はどうも回りくどいのが苦手でな。結論から先に言おう。私と一緒に、都に来て欲しい」
「…………え?」
「希惇!!」
暁春が頭に疑問符を浮かべるのとほぼ同時に、父親がガタンと席を立ち、声を荒げた。
「暁春に妙な話を吹き込むのはやめろ。第一、私はお前の話を承諾した覚えはないぞ」
「勘違いするな、栄授。これは、私の意見ではない。勅命だ。王のご意向なのだ。誰にも阻むことは許されぬ」
(勅命…?)
ますます訳が分からず、暁春は眉間に皺を寄せた。
「あの…、まったくもって話が見えないのですが…。私にも分かるように説明していただけますでしょうか?」
估希淳と父親の顔を交互に見れば、双方とも深く溜め息を落とし、なにか苦いものでも含んでいるような、無理矢理な作り笑いを見せた。