第七話 渦巻く黒意
シルフィの魔力が淡い光の粒子となって溶け込むと、あれほど猛り狂っていたトロールの禍々しい気配が、嘘のように霧散していった。
岩石のごとき皮膚の硬質感はそのままに、荒れ狂っていた殺気だけが綺麗に拭い去られ、今や巨大な赤子が泥のように眠っているかのような、穏やかな寝息だけが街道に響いている。
「……な、なんと。あれほど荒ぶっていた大鬼が、これほどまでにおとなしくなるとは。しるふい殿の術、まさしく菩薩の慈悲にございますな」
杏四郎は刀を納めた姿勢のまま、信じられないものを見るように目を丸くした。力でねじ伏せることしか知らぬ武士にとって、心を鎮める魔法の輝きは、神秘そのものに映ったのだろう。
「驚くのはこっちの方よ、杏四郎」
シルフィは呆れたように肩をすくめ、未だに痺れの残る指先を振った。
「あなたの変わりようこそ、異常だわ。面を被った途端、あの無駄のない動きと、世界を凍らせるような殺気……。とても、さっきまで私の名前の発音に四苦八苦していた少年と同一人物とは思えない。もし、あれが『制圧』じゃなく『殺意』だったなら、今頃このトロールは物言わぬ肉塊になっていたでしょうね」
杏四郎は気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「いやはや、面映ゆい。武芸者として立ち合う折には、心を『無』に帰して臨むのが塚元古流の教え。拙者は未だ未熟ゆえ、面を当てることで辛うじて心の端を切り替えておる次第にございます。……なれど、ご安心を。しるふい殿に『命は奪うな』と厳命されておりましたゆえ、刃は一分たりとも急所を掠めてはおりませぬ」
照れたように笑うその顔には、先ほど街道を支配した「死神」の面影はどこにもない。
しかし、その爽やかな笑顔の裏側に、命令一つで巨大な魔物を精密に「解体」してみせる冷徹なまでの技量が同居している。
シルフィは改めて、この少年の「底」の深さに、背筋が薄ら寒くなるのを感じていた。
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しばらくして、トロールの意識が微睡から這い出すようにうっすらと浮上した。シルフィは鎮静の魔力を指先から流し続け、高ぶる野生を宥めながら、子供に言い聞かせるような穏やかな声音で問いかけた。
「……トロール、聞こえる? あなた、どうして街道で暴れていたの? 誰かに、何かされたのね?」
巨躯を震わせ、トロールは低く呻いた。知性の乏しい種族特有の、たどたどしい語彙を絞り出すようにして、彼は断片的な記憶を繋ぎ合わせる。
「おで……森の奥、歩いてた。そしたら……黒い影の、人間に、会った……」
恐怖を反芻するように、濁った瞳が大きく揺れた。
「黒い影……変な呪文、唱えた。おで、黒い霧、浴びた。……よく、わからなかった。でも、胸の奥、カッカして……怒り、抑えられなかった……」
その告白を聞いた瞬間、シルフィの表情から血の気が引いた。やはり、この穏和な巨獣が自らの意志で人を襲ったわけではなかったのだ。
(黒い影に、精神を侵食する黒い霧……間違いなく魔族の禁呪だわ。トロールを狂わせ、意図的に街道へと放逐した。これは魔物の不運な出現なんかじゃない。街を未曾有の混乱に陥れるための、明確な「テロ行為」よ)
背後に潜む悪意の深淵に、シルフィは戦慄した。この事件は、より巨大な災厄の序曲に過ぎない。
「……わかったわ。辛かったわね、もう大丈夫よ。あなたは森の奥へ帰りなさい」
シルフィが魔力の拘束をそっと解くと、トロールはふらつきながらも巨躯を抱え、感謝を示すように不器用な一礼を残して、森の深淵へと姿を消していった。
静まり返った街道で、シルフィは腕を組み、険しい表情でつぶやいた。
「ねえ、杏四郎。これは単なる魔物の暴走じゃない。魔族が人間を明確な『獲物』として、組織的な侵攻を開始しているわ」
彼女の瞳には、かつてないほど切迫した状況が映し出されていた。
「もしかしたら……。私たちが想定していたよりもずっと早く、魔族の四天将と刃を交える日が来るかもしれない」
その言葉を受け、杏四郎は既に『日常』の顔を捨てていた。鯉口を切り、抜き放つ一瞬の予感に指先を添える。
「鬼退治、にございますな。……御意。しるふい殿の導きあらば、いつでも供をいたしましょう」
少年の瞳の奥に揺らめくのは、得体の知れない邪悪への恐怖ではない。
未だ見ぬ強者──「呪われし強き者」との邂逅を渇望する、純粋にして苛烈な、武士の闘志であった。
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街道の喧騒を背に、二人は緩やかな坂を登り、この地方の要衝たる「第三王国」の門を潜った。
王国アレクサンドライト。中央の聖都を囲むように複数の分国が連なる、大陸最大級の版図を誇る国家である。
ここ第三王国を統治するのは、豪放磊落なアレクサンド王の弟、グランディ王。だが、真にこの国を形作っているのは「建築士女帝」の異名を持つ王妃ディディエラであった。
街並みは彼女の美学を反映し、白亜の石造りで統一された、簡潔ながらも気品溢れる佇まいを見せている。
もっとも、最近ではその女帝も病に伏せがちと聞く。白亜の街の管理は、今や彼女の娘たちがその才覚を継いで執り行っていた。
シルフィは宿に腰を下ろす前に、まずは騎士団の駐屯地へと足を向けた。
「シルバー・エルフの細剣使い」にして、高ランクの冒険者。その肩書きは、閉鎖的な軍組織においても絶大な信頼を誇る。彼女は隊長を前に、トロールの襲撃が魔族による組織的な「テロ行為」である可能性を、理路整然と説いた。
その警告は重く受け止められ、街の警戒レベルは即座に引き上げられることとなった。
テキパキと状況を分析し、澱みなく指示を出すシルフィの背中を、杏四郎は感嘆の眼差しで見つめていた。
(なんとも賢く、気高く、頼もしき御婦人。武家の正妻として、これほど完璧な逸材が他にあろうか……!)
「──ふぅ。お待たせ、杏四郎」
公務を終えたシルフィが、ようやく肩の力を抜いて振り返った。その端正な横顔には、流石に隠しきれない疲労が滲んでいる。
「今日はもう、これくらいにしましょう。あなたの働きで危機は去ったけれど、心身ともに消耗したでしょう? 宿へ案内するわ」
「かたじけない。しるふい殿のご配慮、痛み入りまする」
杏四郎が深々と一礼する。その律儀な姿に、シルフィは歩き出しながら、ふと根本的な懸念を思い出して足を止めた。
「そういえば……あなた、お金は持っているの? 宿代とか、食事代とか」
「はて。多少は懐にございますが……この南蛮の地の相場が、某にはまるで見当もつきませぬ。銭の価値が故郷とは、あまりに違いすぎて」
その言葉に、シルフィは呆れを通り越して、おかしな笑いが込み上げてきた。
「……あなたって人は、強い武器は戦利品として奪っても、金貨には目もくれないのね」
「それは、流石に」
杏四郎は、至って真面目な顔で首を振った。
「金のために刀を振るうは、武士の風上にも置けぬ所業。武芸者の道に、金銭欲は無用でございますれば」
(武器は武勇の証、金はただの鉄屑……ってわけね)
あまりに浮世離れした「死神」の論理に、シルフィはついに吹き出した。
「ふふっ……本当に、変わった人。まあ、いいわ」
シルフィは腰のポーチを軽く叩き、きっぱりと宣言した。
「今回、トロールを無力化した功績で、騎士団から相応の謝礼が出るはずよ。それに、四天将討伐の長旅には莫大な路銀が必要だわ」
彼女は、杏四郎の腕を親しみを持って軽く小突いた。
「いい? この旅における金銭管理は、全て私の役目。あなたは私の後ろについて、ただ戦うことだけに集中していなさい」
杏四郎は、この上ない信任を寄せられたと喜び、再び深々と頭を下げた。
「ははっ! しるふい殿の仰せのままに。万事、お任せいたします!」
こうして、大陸最強の一角たる剣士は、この日、一文無しの状態で「金銭感覚に長けた、あまりに美しい嫁候補」を手に入れたのであった。
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翌朝。
白亜の街を包む浅い眠りを切り裂くように、窓から差し込む鋭い陽光がシルフィの瞼を叩いた。
旅の疲れが澱のように体に沈んでいたが、ふと隣室──杏四郎が使っているはずの部屋の気配が、あまりに静かすぎることに気づく。
(……まさか、また勝手に出歩いてないでしょうね)
半ば呆れ、半ば心配しながら身を起こしたシルフィの鼻腔を、微かな薪の爆ぜる匂いと、嗅ぎ慣れないがどこか食欲をそそる芳醇な香りがくすぐった。
窓辺へ歩み寄り、宿の中庭を見下ろせば、そこには共同の火場を陣取る少年の背中があった。
昨日の「死神」の面影など微塵もない。杏四郎は寝癖のついた頭を気にすることもなく、マジックバッグから取り出した小釜を火にかけ、聖具でも扱うような真剣な眼差しで炎の加減を測っていた。
「……本当に、マメな人ね」
昨夜、彼が「米」と呼んでいた白い粒を、愛おしげに研いでいた姿を思い出し、シルフィの唇に自然と笑みがこぼれる。大陸を震撼させた凶戦士が、夜明け前からせっせと飯を炊いている光景は、どこまでもシュールで、それでいて不思議と温かかった。
やがて湯気が収まり、甘い香りが中庭に満ちる頃。杏四郎は炊き立ての白飯を大きな掌で手際よく結び、さらに昨日シルフィが市場で調達した瑞々しい野菜と、例の「味噌壺」から掬い上げた黄金色の泥を使い、手早く汁物を仕立てていった。
しばらくして、トレイを捧げ持った杏四郎が、少しだけ緊張した面持ちでシルフィの部屋をノックした。
「しるふい殿。……早うから失礼つかまつる。朝餉の用意が整いまして。某の国の、いささか粗末な献立ではございますが……」
部屋に招き入れられたシルフィの前に並んだのは、艶やかに輝く白い「おにぎり」と、立ち上る湯気の向こうに深い香りを湛えた「味噌汁」。そして、即席の色鮮やかな「漬物」であった。
昨日、壺から直接嗅いだ時には「鼻を突く」と感じたあの発酵臭が、温かい汁に溶かされることで、これほどまでに滋味深く、安らぐ香りに変じるものか。冷気が残る朝の空気の中で、その香りは何よりの馳走に思えた。
シルフィは椅子に腰を下ろし、まだ熱を帯びたおにぎりを、指先でそっと包み込む。
「ありがとう、杏四郎。これがあなたの国の『食』なのね。……いただくわ」
ほんのりと塩が効いた米の甘み。そして、一口啜れば五臓六腑に染み渡るような、滋味豊かなスープ。初めて口にする漬物の、鮮烈な酸味と歯応え。この世界の香辛料を多用した料理とは正反対の、素材の持ち味を活かした静かな味わいだった。
「美味しい。……なんだか、不思議と落ち着く味ね。体が内側から温まっていくわ」
シルフィが素直な感嘆を漏らすと、杏四郎は深く会釈を返した。返答こそなかったが、伏せられた視線の先、彼の耳の端が林檎のように赤く染まっているのを、シルフィは見逃さなかった。
昨日のトロールとの死闘や、魔族が蠢く不穏な情勢。
それら全てが遠い幻覚であるかのように、白亜の街の一角、二人の間には、穏やかで柔らかな朝の刻が流れていた。




