第五話 神速の一合と、三歳の記憶
朝露に濡れた草木が、静寂を取り戻した森に微かにそよいでいる。
先刻までの張り詰めた殺気は、一本の木剣が奏でた乾いた音とともに、霧消していた。
「……視線が甘うございましたな」
事も無げに、杏四郎は言った。
その声は、死線を潜り抜けた戦士の咆哮ではなく、門下生の癖を指摘する道場の師範代のように、穏やかで迷いがない。
「突く瞬間、貴殿の目は喉元に吸い寄せられた。そこに迷いなき『心』があるゆえ、拙者にはそれが最大の『隙』と見えたのです」
シルフィは、自分の喉元を抑えるようにして立ち尽くしていた。
王国でも指折りの細闘術、その奥義 《疾風連撃》が、木剣一本、それもたった一合で粉砕された。その冷厳な事実に、思考が追いつかない。
「しかし、見事な太刀筋でござる。女子の身でこれほどの練度……いやはや、恐れ入り申した。拙者などより、よほど筋が良い」
そう言ってシルフィを見つめる瞳には、皮肉も傲慢もなく、ただ心からの称賛だけが宿っていた。
シルフィは痺れた右腕をさすりながら、地面に深く突き刺さった愛剣レイピアを拾い上げた。その掌には、未だに杏四郎が放った衝撃の残響が、鈍い痛みとなって刻まれている。
(……次元が、違いすぎる。この少年、一体どれほどの修羅場を越えれば、この域に達するというの……!?)
「……あなた、本当に化け物ね。十五歳でその剣技なんて……この世界の理じゃ、あり得ないわよ」
絞り出すようなシルフィの声に、杏四郎は途端に「いつもの」少年に戻り、顔を真っ赤にして激しく手を振った。
「い、いえ! 滅相もございませぬ! 某など、未だに父上や兄上には手も足も出ぬ未熟者。精進が足りぬと、日々叱咤されておる身にございますれば……」
戦いの最中に見せた、万物を断ち切るような鋭い気配はどこへやら。そこに立つのは、ただの世慣れぬ内気な少年だ。そのあまりに極端なギャップに、シルフィの頭は再び激しい混乱に見舞われる。
「……父上や兄上? 彼らも、あなたと同じように戦えるの?」
「ははっ、某など足元にも及びませぬ。某は数え三つの頃より、木剣を握らされ、祖父上や父上に叩き直されて参りました。今日こうして貴殿に認めていただけたのも、ひとえに先祖代々の教えのおかげかと」
「……三歳から、毎日……?」
シルフィは、目の前の少年の背景にある、底知れない「積み重ね」を幻視した。
魔法による強化も、女神の加護も介さない。ただ純粋に、十五年という歳月の全てを「一振りの研鑽」に捧げた、異世界の武の結晶。
(この精密さ……この静謐な速さ……。)
それは、この世界のどの流派の系譜にも存在しない、異質の「究極」。
シルフィは、鞘に収まりきらないほどの才能を秘めたこの「死神」の正体を、もっと深く知らねばならないと、強く本能で感じていた。
(この強さ……制御できなければ災厄になる。でも、彼自身の根はどこまでも真っ直ぐだわ。だったら——彼には“正しく振るうべき標的”が必要ね)
シルフィは深く息を吐き出し、構えを完全に解くと、潔くその敗北を認めた。
「降参よ、杏四郎。あなたの剣は、私の想像を遥かに超えていたわ。……でもね、この広い世界には、あなたでも容易には届かないほど強大な敵が、まだ数多く潜んでいるの」
「おおっ……! それは、いずこに居られるのですか!?」
刹那、杏四郎の瞳に猛々しい光が宿った。
そのあまりに純粋な闘志——戦いこそが己の生の実感であると言わんばかりの輝きに、シルフィは気圧されそうになりながらも、声を落として告げた。
「この世界には、『魔族』と呼ばれる恐ろしい種族がいるわ。彼らは人間を脅かし、今まさに各地で戦乱の火種を撒き散らしている……」
「魔族……!」
杏四郎がその不穏な響きに眉を寄せると、シルフィは彼が最も納得しやすい言葉を選び、畳みかけた。
「ええ。あなたが戦の折に纏うその面と同じように、角を頂く異形の者たち。彼らは民を苦しめる、いわば『悪』の化身よ。杏四郎……あなたは、きっと菩薩様に選ばれたの。この地を蝕む魔族を討ち果たすために、呼び寄せられたのよ」
その論理は、杏四郎の倫理観と信仰心、そして武士としての使命感に、驚くほど滑らかに合致した。
「なるほど、角を持つ魔人……まさしく鬼の類でござるな! いやはや、南蛮の地にて鬼退治の任を授かるとは。兄上たちに話せば、腰を抜かして驚くやもしれませぬ!」
杏四郎は少年のような無邪気な笑みを浮かべた。だが、その晴れやかな横顔を見つめながら、シルフィは肌が粟立つのを禁じ得なかった。
——彼は、崇高な理念に燃える“正義の英雄”ではない。
——ただ、より強き者、より高き壁を斬り伏せることに至上の喜びを見出す、天性の戦闘狂なのだ。
「……ええ、そうね。なら、こういうのはどうかしら」
シルフィは意を決し、微かに頬を染めながら一歩前へ出た。それは、彼女なりの「賭け」であった。
「魔族を統べる四人の将、通称『四天将』。彼らは今、人間の領域を無慈悲に蹂躙しているわ。もし、あなたがその四人をことごとく討ち取ったなら——」
杏四郎の肩が、期待にぴくりと跳ねる。
「——あなたの“望み”を、聞き届けてあげてもいいわ」
杏四郎の目には、米でも味噌でもない、彼が心の奥底に秘めていたもう一つの切なる願いが再燃していた。
「の、望み……! も、もしや……某の、あの不埒な願いを……!?」
シルフィは銀の髪を揺らし、わずかに視線を逸らしながら、覚悟を込めた微笑を浮かべた。
「そうよ。四天将を全て倒したなら……私があなたの『嫁』になってあげてもいい。……まあ、私のような者で良ければ、だけどね」
その刹那。杏四郎の顔は、熟れた柿のように朱色に染まった。
「お、おおお……! そ、そんな……これほど腕が立ち、見目麗しき御婦人が……某の嫁に……!?」
容量オーバーでしどろもどろになった後、杏四郎は両拳を天に突き上げ、魂の咆哮を上げた。
「や、やりまする! 必ずや、やり遂げてみせますぞ! その四人の将、この杏四郎が命に代えても討ち果たしてみせましょう!!」
その爆発的な高揚感に、シルフィは思わず後退りした。
(……ちょろい。本当に、信じられないくらいちょろい男だわ……)
だが、その胸中には奇妙な安堵が生まれていた。
(でも、これでいい。この強すぎる力を“正しい敵”に向けさせる……。私が、彼の手綱を握って導かなきゃ。それに、もし魔族と共倒れになってくれれば……いえ、今はそんなこと考えちゃダメね)
シルフィは戦慄と決意を飲み込み、優しく、しかし確かな重みを持って告げた。
「じゃあ、約束ね。——行きましょう、世界を救う旅へ。杏四郎」
こうして、街道の死神を討つはずだった女剣士は、自らを「褒美」として差し出すという最大の打算(あるいは誤算)により、異世界の少年剣士とともに、世界の命運を懸けた奇妙な旅路へと踏み出したのであった。
「そういえば、名乗りがまだだったわね。私の名前はシルフィ・エルヴェーナ。シルバー・エルフ族の剣士よ」
シルフィはすっと背筋を伸ばし、高貴なるエルフの系譜に連なる者としての威厳を湛えて名乗った。
「人間のあなたには想像もつかないでしょうけど、これでもあなたよりずっと、ずっと年上なんだから」
「しるひい……えるばな殿……」
杏四郎は不慣れな異国の音節を、壊れ物を扱うように慎重に、何度も口の中で転がした。
「シルフィ! シルフィよ!」
「しるふい……」
やはり「ル」や「フ」の正確な発音は、日ノ本の武士にはいささか難儀なようであった。シルフィは小さく溜息をつき、肩の力を抜いた。
「まあ、いいわ。追々慣れてくれれば。……それより、私の種族のことも少しは驚いたらどうなの?」
しかし、杏四郎が感嘆の声を上げたのは、シルフィが予測もしなかった方向に対してであった。
「……やはり、左様でございましたか。これほどまでに武を極め、美しく、その上悠久の時を生きる御身とは……まさしく天女様そのもの。某には、あまりにも勿体なき存在にございます」
「そうよ。シルバー・エルフは種族の中でも特に希少で、人間と深く関わることすら滅多にないんだから」
本来、シルバー・エルフ族はその苛烈なまでの自尊心の高さゆえ、他種族からは「傲慢な貴族」と煙たがられることも少なくない。だが、杏四郎の瞳に宿るのは、鼻につくような卑屈さでも、身勝手な欲望でもなかった。
それは、ただただ汚れなきものを仰ぎ見るような、一点の曇りもない崇敬の念。
「なんとも気高く、美しい……。これほどの逸材、塚元家の嫁には二度と現れませぬぞ! 四男坊の身なれば、身命を賭して護り抜き、共に道を歩む覚悟にございます!」
杏四郎はその場で居住まいを正し、魂を込めて言い切った。
「お任せくだされ! 四将だろうが十将だろうが、ことごとく切り捨ててご覧に入れましょう!」
その、あまりに自信に満ち溢れた無垢な笑顔。
シルフィは射抜かれたように、わずかに胸の鼓動が速まるのを感じた。彼の腕は本物であり、その意志は、この世界の誰よりも純粋だ。
(……仕方ないわね。この危ういまでの力、私が正しく導いてあげなきゃ)
シルフィは密かな決意とともに表情を引き締め、柔らかく微笑んだ。
「心強いわ。ありがとう、杏四郎」
打算から始まった関係に、確かな「信頼」の芽が吹き始めた瞬間。
シルフィは彼という存在の深淵に、そしてその神速の剣技の秘密に、一歩踏み込むべく言葉を継いだ。




