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第四話 白銀の菩薩と勘違いの抜刀

 朝靄が木漏れ日に溶け、森が黄金色に染まり始める刻。

 先ほどまでの和やかな別れの一幕は、一転して、肌を刺すような緊張感に塗り替えられていた。


「……動揺して誤魔化そうとしても無駄よ」


 白銀の髪を朝風になびかせ、女剣士シルフィは鋭い声を上げた。その右手は、吸い付くようにレイピアの柄へと掛けられている。

 超一流の隠密(ステルス)を看破された驚愕、そして目の前の少年が放つ、あまりに無垢で隙だらけの佇まい。その相反する事象を前に、彼女の瞳には鋭い警戒と、拭い去れぬ困惑が複雑に混ざり合っていた。


「あなた、街道を血に染め、百人以上の腕利きを斬り伏せたという『死神』でしょう? これ以上、その剣を罪なき人々に向けさせるわけにはいかないわ」


 シルフィは一歩踏み込み、切っ先を杏四郎の喉元へと突きつけた。朝露を弾く銀髪が揺れ、ぴりついた殺気が辺りの空気を凍らせる。


「次はどこへ向かうつもり? ──いいえ、答えなくていい。私と勝負しなさい!」


 しかし、返ってきたのは予期せぬ猛抗議だった。杏四郎はまるで火に炙られたかのように大袈裟に両手を振り回し、必死の形相で後退りした。


「い、いやいや! めっそうもございませぬ! ご勘弁を! 女子(おなご)に刃を向けるなど、武家の末席を汚すも同然。先祖代々の名折れ、父上にも顔向けできませぬッ!」


 その叫びには打算も虚飾も微塵もなく、ただ純粋すぎるほど真っ直ぐな倫理観から漏れ出た、魂の拒絶であった。彼がこれまで退けてきた相手に、ただの一人も女性が含まれていなかった理由。そのあまりに単純で強固な「答え」を突きつけられ、シルフィは思わず剣先を震わせた。


(……本当に、あの『死神の凶戦士(デス・バーサーカー)』なの? どこに狂戦士(バーサーカー)の要素があるっていうのよ……)


 毒気を抜かれたシルフィの隙を突くように、杏四郎は改めて彼女を直視し、ごくりと喉を鳴らした。


「そ、それに……その輝く白銀(しろがね)の髪、そして一点の曇りもなき御面相。まるで夢枕に現れた菩薩(ぼさつ)の化身のようで……。不束者の拙者には、あまりに眩しすぎる次第……!」


 銀の髪は神域の象徴──そんな価値観を持つ日ノ本の武士にとって、目の前の女剣士は戦う対象ではなく、畏れ多くも尊い「神聖なる存在」そのものだった。


 シルフィは天を仰ぎ、頭を抱えたくなった。


「ボサツ……? ユメマクラ……? ええい、さっきから何を言っているのよ! 意味が分からないわ!」


 混乱に拍車がかかる中、彼女の視線は杏四郎の装備へと移る。腰に差した、見たこともない異国の剣。そして腰に提げたマジックバッグ──。


(あのバッグ……行方不明になった『牙』の隊長が愛用していたものと酷似している。それにあの靴も……。やっぱり、彼が“奪った”戦利品なんだわ……)


 凶戦士である物的証拠は、残酷なまでに揃っている。だが──目の前の男は、女性と目を合わせることすらできず、魔法の薬に子供のように目を輝かせ、挙句の果てには追跡者である自分を“菩薩”と崇める始末。


(何なの、この状況……。底知れない強さを持っているのは確かだけど、中身はただの、純粋すぎる異国の少年じゃない……?)


 杏四郎から放たれる「殺気」の欠片もない戸惑いに、シルフィは深い溜息をついた。戦う理由を見失いかけた彼女は、意を決して、静かにレイピアを鞘へと納めた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 シルフィは毒気を抜かれたように肩の力を落とし、レイピアの柄からそっと指を離した。

 このあまりに純粋すぎる反応を前にしては、剣を構え続けることすら馬鹿らしく思えてきたのだ。彼女は溜息混じりに、しかし慎経に一歩を踏み出す。


「……その“ボサツ”っていうのが何なのかは、さっぱり分からないけれど。あなたに戦う気がないなら、無理に斬り合うつもりはないわ」


 突きつけられていた切っ先が下ろされ、張り詰めていた殺気が朝の空気に溶けていく。


「ただ──少し話を聞かせてもらえないかしら。あなた自身のこと。そして、その剣についても」


 頬を林檎のように真っ赤に染め、所在なげに視線を彷徨わせる杏四郎の姿は、街道を震撼させている“死神”の虚像とは似ても似つかない。そこに佇んでいるのは、あまりに純朴で、世慣れぬ異国の少年に過ぎなかった。


「せ、摂、摂政……いや、某(それがし)の名は──姓は塚元、名は杏四郎と申す。齢(よわい)十五。武家の四男坊ゆえ、家を出て奉公と武者修行のため江戸へ向かう折……夢枕に菩薩が立ち──」


 杏四郎は、未だにシルフィの顔をまともに直視できぬまま、どこか必死な早口で語り始めた。その声音は至って真剣そのものだが、語られる内容はあまりに突拍子がない。


「──ちょ、ちょっと待ちなさい!」


 シルフィは、思わず彼の言葉を遮った。語られた物語の異質さ以上に、聞き捨てならない「事実」が耳に飛び込んできたからだ。


「あんた……いま、十五歳って言ったの!?」


 銀髪が激しく揺れるほどの勢いで身を乗り出し、シルフィは驚愕に目を見開いた。


(嘘でしょ……?)


 最初は、若々しい外見をした小人族(ハーフリング)の類かとも疑った。だが、街道を恐怖の底に叩き落とし、名だたる傭兵団や王国の騎士までもを一刀の下に斬り伏せたという、あの「怪物」。

 その正体が──精神的にも肉体的にも、まだ成人にすら達していない十五の少年だというのか。


 シルフィの背筋を、昨夜の寒気とは違う、正体不明の戦慄が駆け抜けた。


「あ、あなた……修行に行く途中で、ボサツ? それって……この世界でいう神様のような存在のこと?」


 混乱する頭を必死に整理しながら、シルフィはおそるおそる尋ねた。


「左様。菩薩様は『あるであ』と名乗り、某にこう告げられました。『……行きなさい。もし、其方がこの異土(いど)にて、“呪われし強き者たち”と相まみえる覚悟があるというのなら──。迷い歩くその足が止まらぬよう、尽きることなき『生(せい)の糧』を授けましょう』と」

「……アルデア? もしかして、この地の豊穣を司る“アルディア様”のこと?」


 シルフィは息を呑んだ。もし彼が女神の加護を受けた聖戦士(パラディン)のような存在ならば、あの常軌を逸した強さにも説明がつく──そう合点がいきかけた、その時。


「じゃあ、その底知れない強さは……アルディア様の恩寵によるものなのね?」


 しかし、杏四郎はきっぱりと、迷いなく首を横に振った。


「いえ、違いまする。拙者が頂いたのは“強さ”などではござらん。……これら一式の家財にございます」


 そう言って、杏四郎は腰のマジックバッグから、手慣れた様子でいくつかの道具を取り出した。


 一つは、古びているが艶のある革の袋。

 一つは、ずんぐりとした素焼きの小壺。

 そしてもう一つは、腰に下げるための小ぶりな瓢箪(ひょうたん)。


「これは、願えば米が尽きることなき皮袋。これは、味噌が無限に湧き出す小壺。そしてこれは、清らかな水がこんこんと溢れる瓢箪でござる」


 杏四郎は、家宝でも披露するかのように誇らしげに胸を張った。途端、小壺の隙間から、独特の力強い発酵香がふわりと辺りに漂い始める。

 シルフィは思わず鼻を押さえ、一歩後退した。


「うっ……ちょ、ちょっと待ちなさい! あなた、神様から“強大な力”を授かる代わりに望んだのが……食糧? しかも、その……すっごい匂いのするドロドロしたものなの!? ほんとに本気で言ってるの!?」


 呆れと驚愕が濁流となって押し寄せ、シルフィは危うく天を仰ぎかけた。

 だが同時に、彼女の胸の奥で、ある確信が静かに、そして強固に固まっていく。


(……ああ、そうか。この男……本当に、私たちの世界の人間じゃないんだわ)


 強大な力に溺れるでもなく、底なしの私欲に走るでもない。

 ただ「日々の健やかな糧」と「強者との真剣勝負」だけを純粋に求めた、異世界の少年。

 そのあまりに素朴で、あまりに真っ直ぐな願いが、世界の理(ことわり)を強引に捻じ曲げて彼をこの地へ引き寄せた──。

 そう得心せざるを得ないほど、彼の瞳は、朝陽を受けてどこまでも澄み渡っていた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 杏四郎は所在なげに指先をいじりながら、沸騰したように真っ赤になった顔をこれでもかと深く伏せた。


「そ、その……実を申せば、まだ菩薩様に乞うた……申し上げておらぬ望みが、ございまして……」


「え? まだあるの?」


 シルフィは背筋を走る嫌な予感を覚えつつ、警戒を解かずに眉を上げた。杏四郎は周囲をきょろきょろと不審者のようにうかがい、消え入りそうな声で白状した。


「菩薩様に……その……見目麗しき『嫁』を所望いたしました。ええと……その……まさしく、其方(そなた)のような……」


 最後の一節だけは、羽虫の羽音ほどに微かな声であった。しかし、添えられた視線は、この世の何よりも尊いものを見つめるような、崇拝と憧憬が入り混じった残酷なまでに純粋なものだった。


 シルフィの思考は、あまりの衝撃に完全に停止した。


(……は? 百人斬りの凶戦士の願いが『お嫁さんが欲しい』で……その条件が『ボサツに似てるから』って……何それ。怖いとか通り越して、意味が分からなすぎるんだけど!?)


 口を金魚のようにぱくぱくさせるシルフィの様子を、杏四郎は都合よく、かつ致命的に勘違いしたらしい。


「……はっ! もしや其方、菩薩様の使い……某(それがし)の『嫁を寄こせ』という不埒な望みを成すために遣わされた、天の御方では……!?」


「ち、違う!! 断じて違うから!! 一ミリも掠ってないわよ!!」


 シルフィは顔を真っ赤にして、全力の、魂からの否定を叩きつけた。

 杏四郎は「おお……左様でございましたか……」と目に見えて肩を落とし、しょんぼりと項垂れたが、武士らしい切り替えの早さですぐに面を上げた。


「ともあれ、某は気がつけば、あの禍々しき森におりまして。何をせよとも命じられず、誰を討てとも分からず……ゆえに、街の武芸者らに声をかけられれば、とりあえず手合わせを願っていた次第……」


 それが結果として、王国の精鋭すら震え上がらせる“百人超を屠った死神”という恐ろしい伝説の実態だというのだから、シルフィは今度こそ膝から崩れ落ちそうになった。


(……いや、あまりにも行き当たりばったりすぎるでしょ、この死神……っ!)


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 だが、確かめねばならない。この少年が、本当にあの「死神」と同一人物なのか。シルフィは深く息を吐き出し、迷いを振り払うように言い放った。


「杏四郎。私と手合わせしなさい。……『御前試合』なら、女だなんて関係ないわよね?」


 その言葉を聞いた瞬間、杏四郎の表情がぱあっと春の陽光のように明るくなった。


「おお! 試合、いわゆる『稽古』であれば何ら問題ございませぬ! むしろ望むところ。ぜひ、お手合わせを願いたい!!」


 刹那──。

 先ほどまで赤面してまごついていた少年の気配が、霧が晴れるように霧散した。

 代わりに立ち昇ったのは、肺腑を凍りつかせるような、研ぎ澄まされた武士の闘気。別人へと変貌を遂げたその一瞬の変転に、シルフィの背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。


(……やっぱり。この子、本物だわ)


 杏四郎は腰のマジックバッグから、使い古された一本の木剣を取り出した。幾度も油を染み込ませて磨き上げられたのであろう、その木肌には鈍い光が宿っている。

 軽く振って風を斬る感触を確かめると、彼は静かにシルフィと対峙した。シルフィは細剣術の正統、レイピアを斜めに構える。細剣使いが最も得意とし、同時に最も死を身近に感じる間合い。

 杏四郎は「ふむ」と感心したように目を細めた。


「なるほど……幾人か細剣(さいけん)の武芸者と死合いましたが、貴殿の構えは実に理が通っておりますな」


 彼はまるで、師が弟子に説くかのような淡々とした口調で続ける。


「半身に構えることで的に絞らせず、細身の得物で軌道を悟らせぬ。さらに突きに特化したその鋭さ……狙うは急所一点。……ふむ、『突き』にこそ、その全霊を込めておられる」


 その分析に、シルフィの背筋に嫌な汗が滲んだ。一歩も動いていないというのに、構えの奥義を、己の剣筋の「核」を完全に見切られている。


「……感心してないで、行くわよ?」

「はい。どうぞ、遠慮なさらず」


 杏四郎は古流剣術特有の、飾り気のない自然体で立ち、静かに一礼を捧げた。その瞬間、空気がキィィンと張り詰め、周囲の風のうねりさえもが停止したかのように感じられた。


(──一撃で決める。こいつが本当にあの死神なら、ここで全てを終わらせる!)


 シルフィは覚悟を固め、爆ぜるように地を蹴った。


「《疾風連撃(テンペスト・ラッシュ)》!」


 風を裂き、稲妻の速度で肉薄する。喉元、心臓、そして胴。目にも止まらぬ、神速の三連突き。並の剣士であれば、自分が貫かれたことすら自覚できぬまま絶命する、彼女の最速にして最強の奥義。


 しかし──。


 ザシュッ……。


 虚しく空を切る音だけが、朝の森に響いた。

 手応えは、皆無。杏四郎の身体に触れた感触など、一度たりともなかった。

 彼はただ、寄せては返す波の間を縫う小舟のように、ほんのわずかに身を翻しただけ。シルフィの剣撃が描く「流れ」そのものを、自然の理として受け流したのだ。

 そして、次の瞬間。


 ──キンッ!


 乾いた音が響いた。

 ほとんど触れただけのような、木剣による最小限の一閃。それがシルフィのレイピアの根元を正確に叩き、その剛力で得物を弾き飛ばした。レイピアは宙を鮮やかに舞い、地面に深く突き刺さる。


「っ……!?」


 腕を走る痺れるような衝撃。心臓がひゅっと縮み上がり、シルフィは呆然と杏四郎を見つめるしかなかった。

 彼は既に木剣を引き、まるで真剣を鞘に収めるかのような、非の打ち所のない所作で構えを解いていた。

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