第二話 追うもの、追われるもの
《鋼鉄のジョッキ亭》の空気は、沸騰寸前の熱気と、芯まで冷え切った恐怖が混ざり合い、異様なざわめきを放っていた。
「まただ! 昨夜、街道で四人もやられた!」
ドレイクが興奮と隠しきれない怯えをぶつけるように、カウンターを激しく叩いた。
「これで……九十九を超えて、百三。あいつ、百という数字を満たしても止まる気はねえのかよ」
ジルが青ざめた顔で、呪文のようにその数字を繰り返す。
老店主も皿を磨く手を止め、湿った布巾を固く握りしめた。
「しかも今回は、武器を一本も持ち去っていないらしい。ただ、ゴミでも払うかのように切り捨てただけだと……」
「武器すら奪わねえってことはよ……“戦利品にする価値もなし”と切り捨てられたってことじゃねえか」
その推測が、酒場の空気を凍りつかせた。
凶戦士が百人目という節目に求めていたのは、もっと格ある英雄だったのではないか。それなのに、なぜ無価値な小悪党を斬り捨てた直後、忽然と姿を消したのか?
議論が紛糾する中、カウンターの隅で独り静かに耳を傾けていたシルフィの脳裏には、ある疑念が鋭い棘のように刺さっていた。
(……いいえ。何かが、決定的におかしいわ)
思い返すのは、昨夜この酒場にふらりと現れた、あの小柄な黒髪の少年。
背景に溶け込むような、異様なほどに希薄な存在感。誰にも気取られることなく、扉が開く音さえさせずに消えた身のこなし。そして──自分たちが語る凶戦士の噂を、まるで行き違いの世間話でも聞くかのような「虚無の瞳」で聞き流し、去っていったこと。
「ねえ、ドレイク、ジル」
シルフィの透き通るような声が響き、二人は怪訝そうに振り返った。
「昨夜、街道に現れたのが……本当に、私たちが想像しているような“血に飢えた怪物”だったと、あなたたちは思う?」
「何を言ってんだシルフィ。あの斬り口を聞いただろう。あれは人間業じゃねえ。奴の異様な剣技そのものだ」
ドレイクが訝しげに眉をひそめる。ジルもまた、困惑を隠さずに首を振った。
「それに、もし“武”を極めようとする者だったら、百人目はもっと名の知れた騎士を狙ったはずだ。昨夜の四人は、ただの野良犬だぞ」
「……いいえ、逆よ」
シルフィはゆっくりと、確信を込めて告げた。
「私は──昨夜ここでシチューを食べていた“あの少年”こそが、本物の凶戦士だったのだと思っているわ」
その瞬間、酒場の喧騒が、ひきつけを起こしたかのようにぴたりと止まった。
「馬鹿を言うな! あんな覇気の欠片もねえ、ひょろっとしたガキが、あの死神だと!?」
ドレイクが吐き捨てるように笑い飛ばす。だが、シルフィの銀の瞳に揺らぎはなかった。
「私たちは皆、凶戦士という『噂』の大きさに目を奪われすぎていた……だから、彼のあの“異常なまでに削ぎ落とされた気配”を見逃したのよ。私は長く放浪してきたから分かる。あれは気配を殺しているのではない。生きながらにして『無』を体現する者の所作よ。そして彼は、私たちの話を聞き終えると静かに去った。まるで──『もう、ここに用はない』と言わんばかりに」
期待していた強者はここにはいない。百人目という節目が、取るに足らない雑魚で終わってしまった。だからこそ、彼は落胆し、さらなる「獲物」を求めてこの街を捨てた──。
シルフィの中で、全ての断片が一本の戦慄となって繋がった。彼女は静かに席を立ち、愛用のレイピアの柄に指先を這わせる。
「私は行くわ。あの男が本当に凶戦士だというのなら、放置すれば次の街でも同じ惨劇が繰り返される」
「待てよシルフィ! 相手は百人以上の猛者を屠った死神だぞ。たった一人で追うなんて自殺行為だ!」
ジルが慌ててその腕を掴もうとするが、シルフィは振り返らなかった。
「分かっているわ。けれど、もし彼が本当に……ただ純粋な“武”だけを求めて彷徨う修羅なのだとしたら。同じ剣に生きる者として、その旅路の果てを見届け、終わらせる義務がある」
そう言い残すと、シルフィは背後の喧騒を突き放すように歩き出した。
黒髪の少年が消えていった、あの月明かりの街道へと──。
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街の混乱を露知らず、杏四郎は日の出とともに街道へ踏み出していた。
昨夜の「武者修行」の結末には、一抹の物足りなさを感じてはいたものの、朝の澄んだ空気のおかげで気分はすでに晴れ渡っている。
(百人目があの程度の雑兵であったのは惜しまれるが……これもまた縁というもの。次の地でこそ、真の武芸者に巡り会えるやもしれぬ)
腰に下げた革の物入れに触れ、杏四郎は小さく頷いた。
この地で出会った数人目の「武芸者」の形見であるこの袋は、いくら物を詰め込んでも重さが変わらぬ不思議な代物だ。しかし、彼はそれを「魔法」などとは微塵も思わない。
(南蛮の細工というものは実に合理的よ。これならば長旅も苦にならぬ)
物入れには、これまで「修行の証」として預かってきた異形の武具(戦利品)とともに、故郷から持ち込んだ米や釜、味噌といった旅の生命線が整然と収められている。
道すがら清らかな小川を見つけた杏四郎は、しばしの休息をとることにした。手慣れた手つきで焚き火を熾し、愛用の釜に米と水を張る。やがて、ふっくらとした湯気とともに、この世界には存在しないはずの、甘く懐かしい穀物の香りが漂い始めた。
──と、その時。
街道の先から、一台の荷馬車を引く家族が通りかかった。
疲れた様子の父親、その傍らを歩く母親。そして、五歳ほどの少年。
少年は風に乗ってきた未知の香りに鼻をひくつかせると、弾かれたように瞳を輝かせた。
「パパ、あれ! すっごくいい匂い! なにあれ!?」
「……っ!? あ、ああ……待て、トト。近寄るな」
父親は咄嗟に家族を背に隠し、警戒の色を強めて杏四郎を凝視する。
黒い外套、腰の剣、そして何より、この世のものとは思えぬ甘美な「飯」の香り。
杏四郎は少年の純粋な視線に気づき、穏やかに顔を上げた。
「言っていることは判じ兼ねますが……興味がおありかな? これは『白飯』という、我が国の糧でござる」
当然、その言葉が通じるはずもない。
しかし、少年は湯気を立てる「白い真珠のような塊」から目が離せない。母親が「見たこともない食べ物ね……」と不安げに漏らすと、杏四郎はそれを「賞賛」と受け取り、相好を崩した。
「うむ。良ければ食べて行かれよ。一人では、つい炊きすぎてしまうゆえ」
そう言いながら、彼は熱さを堪えて丁寧に握った『おにぎり』を一つ、少年に差し出した。
父親は狼狽し、激しく首を振る。
「あっ、い、いや! そんな、滅相もない! こ、これは本当に食べ物なのですか!? それとも……っ」
「おお、心配召されるな。毒など入っておりませぬ。某の故郷の、母の味にございますれば」
杏四郎は至極穏やかに微笑むが、言葉の壁は厚い。
父親は、その「聖者のような柔和な声色」と、差し出された「純白の塊」から、それが敵意ではないことだけを辛うじて感じ取った。
「……トト、お礼を言って受け取りなさい。このお方は、きっと善い人よ」
母親の言葉に背中を押され、少年は恐る恐る、しかし嬉しそうに手を伸ばした。
「ありがとう! ……えっと……これ、食べられるの?」
少年の仕草から問いを察した杏四郎は、満足げに頷く。
「左様。これは『おにぎり』と申す」
少年は、聞いたこともない異国の響きを舌の上で転がした。
「おに……ぎり? へんな名前!」
杏四郎はその侮蔑とも取れる言葉の意味を理解せず、ただ「南蛮の童は元気で良い」とばかりに笑って頷いた。
「はっはっは。南蛮の言の葉は響きが面白いものですな」
少年がおにぎりを思い切り頬張った、その瞬間──。
少年の表情が、春の陽光を浴びた花のようにパッと弾けた。
「んんっ! んまい! あまい! あったかくて、すっごくおいしいよ、これ!!」
母親は驚きに目を見開き、父親も呆然と声を漏らした。
「ほ、本当に食べ物だったのか……。こんなに美味そうな……」
杏四郎は感想の細部までは分からずとも、少年の弾けるような笑顔で全てを理解した。
「気に入られたようで何より。米の力は、人の心を満たすものですからな」
「……お姉ちゃん、ありがと!」
純粋な感謝を瞳に宿し、少年は力いっぱい手を振った。
その言葉の真意──自分が「うら若き乙女」と断定されたことなど露知らず、杏四郎はただ「南蛮の童は実に人懐っこい」と目を細めるばかりであった。
(言葉は違えど、旨い飯は心を通わせるものか。……南蛮も、捨てたものではござらんな)
空になった釜を丁寧に洗い、不思議な革袋へと収める。
再び刀の柄にそっと手を添え、彼は軽やかな足取りで歩き出した。
その背中には、血に飢えた「死神」の面影など微塵もない──ただ、さらりと風に流れる黒髪と、外套に隠れた華奢な体躯が、去りゆく後ろ姿をいっそう「神秘的な女剣士」のように見せているだけだった。
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杏四郎は、旅の一家が去った後、彼らの残した轍を追うように歩を進めた。
(見知らぬ南蛮の地にて、土地勘などあるはずもなし。車輪の跡を追えば、いずれ宿場へと辿り着くのが道理よ)
明確な目的地を持たぬ放浪の身ゆえ、確実な道標に従うのが最善と判断したのだ。
数刻が経ち、街道が深い森に挟まれた薄闇へと差し掛かった頃、傾いた陽光が木々の影を長く引き伸ばしていた。その時、杏四郎のうなじを、毒を含んだ針のような「違和感」が刺した。
「……む?」
それは、武芸者が研鑽の果てに放つ清冽な闘気ではない。かといって、獣の生臭い殺意でも、人のどろりとした悪意でもない。
もっと根源的で、粘りつくような濁りを帯びた、異質な「気配」。
(これは……何だ。物の怪の類か?)
次の瞬間、杏四郎は外套を翻し、その気配の源流へと地を蹴った。
塚元古流で鍛え上げられた足さばきは、不慣れな革靴の上からでも寸分の狂いなく駆動し、森の深淵を切り裂いて進む。
木々を抜けたその先に、目を疑うような無惨な光景が広がっていた。
先ほど別れたばかりの、あの家族の荷馬車が立ち往生している。
その周囲に群がっていたのは、奇怪な緑色の「小鬼」たちであった。
「……妖か?」
身の丈は童ほど。皮膚は腐った果実のような濁った緑色。
「ギャアギャア」と耳を劈く甲高い声を上げ、粗末な棍棒で馬車を叩き壊している。それは理性なき暴力の化身であり、餓えた獣よりもなお、質の悪い悪意に満ちていた。
(河童……ではござらんな。はたまた地獄の餓鬼か)
馬車の窓から中を覗けば、父親が必死に妻子を庇い、泥に伏しているのが見えた。その腕や肩には、暴力の痕跡が生々しく刻まれている。
杏四郎の思考に、躊躇の二文字はない。
地を爆ぜるように蹴り、緑の群れへと飛び込む。
侵入者の気配に反応し、小鬼たちが一斉に血走った眼を向けて振り向いた。その瞳には統率も矜持もなく、ただ卑屈な凶暴さだけが渦巻いている。
(この程度……!)
杏四郎の右手が、吸い付くように刀の柄にかかった。
音を置き去りに、銀光が走る。
棍棒が振り下ろされるよりも早く、一歩の踏み込みで死の間合いを制し、横一文字に薙ぎ払う。
──スパッ。
──スパッ、スパッ。
手応えは、ほとんどない。
湿った藁束でも断ち切っているかのように、極限まで研がれた刀身は何の抵抗も感じさせない。
斬り裂かれた緑の影は、鮮血を流すことさえ許されず、黒い霧となって夜の闇へ霧散していった。
「……霧散、か。実体はあるようだが、斬り応えは皆無よ」
武芸者として魂を燃やす相手ではない。ただの「雑物」。
杏四郎の神速の剣技により、小鬼の群れは瞬く間に殲滅された。
街道に再び静寂が戻り、先ほどまでの醜悪な叫び声は、風にさらわれて跡形もなく消え失せていた。




