↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/11

第一話 街道の死神

「……ちっ。やってられねえな。真面目に剣を振るのが馬鹿らしくなるぜ、こんな世の中じゃあよ」


 王都の大通りから外れた路地裏。湿った石畳の突き当たりに、その酒場──《鋼鉄のジョッキ亭》はある。

 燻(いぶ)されたオーク材のカウンターには、歴代の荒くれ者たちが拳で刻みつけた無数の傷跡が残り、脂の混じった鉄錆の匂いが染み付いていた。


 そのカウンターにどっしりと肘を預けた男、ドレイクは、分厚い革鎧を軋ませながら銅製の大ジョッキを煽った。

 喉を灼く安酒の刺激にも眉ひとつ動かさず、ただ濁った瞳で空になった底を見つめる。


「まあそう言うなよ。仕事(シノギ)ならあるさ。……もっとも、俺たちが首を繋げたままやり遂げられるかは別だがな」


 向かいで冷めたポテトを突いているのは、細身の剣士ジルだ。

 普段なら酔客の怒号や歌い手の調べが騒々しいはずの店内だが、今夜は妙に冷え冷えとしている。

 客たちの話し声は低く、その隙間に混じるのは、酒では拭いきれない「怯え」の色だった。


「街道に『死神』が出る……って噂、マジだったのかよ」


 ドレイクが吐き捨てた言葉に、店内の空気が一瞬、氷のように固まった。


 原因は、たったひとつ。


 “オーガ・マスクの凶戦士(バーサーカー)” ──。


「……九十九人目、だったな」


 ジルが絞り出すように漏らした数字に、ドレイクは奥歯をギリリと噛みしめた。


「ああ。昨夜やられたのは『牙の傭兵団』の副長、重戦士のダグだ。街道の護送任務中……奴はまるで月影に溶ける蜘蛛みたいに、そこで待ち構えていたらしい」


 カウンターの奥、薄暗い照明の下で皿を磨いていた老店主が、重苦しい沈黙を破るように声を響かせた。


「ダグは生きて戻った。だがな、あいつはもう二度と“剣を握る”なんて口にできんだろうよ。全身の骨を、まるで乾いた小枝みたいに粉々に砕かれ、家宝の戦斧(バトルアックス)まで奪われた。……あんな抜け殻になっちまったダグを見たのは、わしも初めてだ」


 店主の言葉が、酒場に溜まった淀んだ空気をさらに冷え込ませる。屈強な戦士たちが一斉に視線を落とし、己の武器を握る手がわずかに震えた。


 オーガ・マスクの凶戦士。

 血の汚れがこびりついた鉄の仮面を被り、その素顔を拝んだ者はひとりもいない。

 夜の街道にのみ姿を現し、武装した強者と見れば、影の中から静かに死の決闘(デュエル)を突きつけてくる。

 非武装の旅人や弱者には目もくれないという、奇妙な矜持すら持っているというが……。


 だが、この街の連中が何よりも震え上がっているのは、その異様な「剣技」だった。


「……何なんだよ、あいつの剣はッ!?」


 ドレイクが叩きつけたジョッキが鈍い金属音を上げ、酒場の空気を震わせた。

「聞いた話じゃ、見たこともねえ流派だって話だ! まともな剣術じゃねえ……まるで呪術か何かみたいに、見えもしねえ間合いから一瞬で斬られるって……!」


 ジルは力なく首を振り、重い溜息を吐き出した。


「呪い、か。あいつは倒した相手の武器を必ず奪い去り、まるで何かの儀式の供物(くもつ)みたいに積み上げていく。噂では、死神の鎌みたいに反り返った、異形の薄刃を使っているとかな……。既に犠牲者は九十九人。名の知れた騎士も、熟練の冒険者も、魔物狩りの英雄ですら、一対一(サシ)で土をつけられた奴は一人もいない」


「九十九、人……」


 ドレイクが喉を鳴らす音が、静まり返った店内に不自然なほど大きく響いた。


「まるで……百人目の生贄が捧げられるのを、手ぐすね引いて待ってるみてえじゃねえか……」


 その場にいる全員が、同じ光景を幻視していた。

 底知れぬ強さ、拭えぬ残虐性、そして貪欲に戦利品を蒐集する異様な執念。


 いつしか人々は、その正体不明の影を、畏怖を込めてこう呼ぶようになった。


 ──《死神の凶戦士(デス・バーサーカー)》。


 護衛の依頼は掃いて捨てるほどある。だが、それを受ける者の精神(こころ)は、摩耗し、削れ続けていた。

 今や夜の街道を歩くということは、生還の保証のない博打に等しい。


「……あいつの、あの仮面の裏を拝んだ奴は、一人もいないのか?」


 重苦しい沈黙を切り裂くように、店の隅に座っていた一人の人物が、静かに杯を置いた。


 銀髪に淡い蒼の瞳を宿した、シルバー・エルフのフェンサー──シルフィだ。

 この界隈でも名の知れた凄腕である彼女が口を開くと、場に自然と緊張が走る。


「見た者は……皆、何も語らないわ。語る言葉を持たないのか、あるいは語る前に──」


 彼女はそこで言葉を切り、そっと睫毛を伏せた。


「……殺された、か」


 ジルが震える声で、その先の残酷な結末を補ってしまった。シルフィは否定も肯定もせず、ただ手元の銀の剣の柄に指を這わせる。


「もし、百人目の獲物を仕留めた時……あの凶戦士(バーサーカー)に何が起きてしまうのか。それを想像するのが一番恐ろしいわ」


 その問いに、答える術を持つ者はここにはいなかった。

 ドレイクはもう、喉を焼く酒の味さえ感じなくなっていた。


 九十九人。

 次の一振りが、自分の喉元を奔(はし)るかもしれない。


 窓の外──薄雲を割って、禍々しいほどに白い月が昇った。

 それは、死神の狩猟が再び幕を開ける、冷酷な合図だった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 酒場に満ちる重苦しい熱気の中、ドレイクとジルが再び凶戦士の話題に戻ろうとした、その時だった。


 ──カラン。


 乾いた音が響き、冬の夜の冷気がわずかに流れ込む。

 そこに立っていたのは、周囲の荒くれ者たちとはあまりに異質な、小柄な影だった。

 夜の帳をそのまま紡いだような黒髪を後ろで結い、この辺りでは見かけない東方の面差しをした、少年とも少女ともつかぬ幼い顔立ち。使い古されているが、仕立ての良さがうかがえる黒い外套(コート)を深く纏っている。


「……ん?」


 ドレイクが思わず声を漏らした。

 驚いたのは、その外見ではない。扉が開くその瞬間まで、誰もその「気配」を察知できなかったことだ。まるで夜霧が不意に人の形を成したかのように、彼はそこに佇んでいた。


「おい……いつの間に扉が開いた?」


 ジルが目を擦る。客たちは一瞬だけ彼を凝視したが、その人物にあまりにも覇気がなく、陽炎のように存在感が希薄なため、すぐに興味を失い視線を戻した。

 少年は音もなく扉を閉めると、カウンターの隅にある空いた席に滑り込むように座った。老店主に手短に注文を済ませると、運ばれてきた簡素な煮込み料理(シチュー)を黙々と食べ始める。その所作には一切の無駄がなく、流れるようだが、やはり印象に残らない。まるで、最初からそこにあった「影」の一部であるかのように。


 ドレイクはジョッキを傾けたまま、横目で彼を盗み見た。


「なんだ、あいつ……。幽霊か何かか? 冒険者にも見えねえな」


「ただの旅人だろう。子供か……珍しい顔立ちだが、親とはぐれでもしたのか?」


 ジルは何とはなしに気になり、カウンター越しに声をかけた。


「おい、君。見慣れない顔だが、この街は初めてか?」


 少年はシチューから顔を上げ、ジルに向かって小さく会釈をした。声はない。ただ、その瞳には、夜の湖のような深い静けさが宿っていた。

 ジルは少し気圧(けお)されたが、すぐに表情を引き締め、親切心のつもりで言葉を繋いだ。


「まあいい。……だが、街道を行くなら気をつけな。知っての通り、例の『オーガ・マスクの凶戦士』がうろついている。武装した者は皆、奴の獲物だ。……君のような非力な旅人は、夜歩きなんてしない方がいい」


 少年は食事の手を止め、改めてジルに向かって深く、丁寧な会釈を返した。その仕草はあまりに謙虚で、どこかぼんやりとして見える。彼はそれ以上何も言わず、再びシチューを口に運んだ。

 ドレイクが鼻で笑い、舌打ちをする。


「おいジル、構うなよ。ただの気の弱そうなガキだろ。あんなひ弱そうな奴、凶戦士だって相手にしねえよ。獲物にもならねえ」


 ジルも肩をすくめた。


「まあ、そうだな……。俺たちには関係ない話だ。……それで、話を戻すが。あの凶戦士の剣、やられた奴は『空間そのものを斬られた』なんて言ってたらしいが……」


 彼らが再び熱を帯びた議論に没入した頃、少年は静かに皿を空にしていた。

 代金の硬貨をテーブルに置くと、誰にも気づかれないうちに、吸い込まれるように立ち上がる。


 ──カラン。


 再び扉が静かに開き、そして閉まった。

 その人物は、夜の闇に溶け込むように、音もなく消えていった。


 少年が店を去ったことさえ誰一人として気づかぬまま、酒場の空気は再び、ざらついた不安と安酒の匂いの中へと沈んでいった。

「凶戦士」という名の呪縛が、再び彼らの舌を動かし始める。


「……それでだよ、ジル。百人目の生贄が捧げられる前によ……俺たちで何か手を打つべきだと思わねえか?」


 ドレイクが声を潜めると、周囲の傭兵たちも吸い寄せられるように耳を傾けた。

『九十九』という不吉な数字は、この街の戦士たちの矜持を、じわじわと、しかし確実に蝕んでいる。


「手を打つだと? はっ、笑わせるな。王国の騎士団ですら、あいつの名前を聞いただけで尻込みしてるってのによ」


「だとしてもだ! 黙って首を洗って待ってるよりはマシだろうが。腕利きを集めて討伐隊を組み、街道に罠を張って──」


「……罠が通じる相手なら、とっくに誰かが首を獲っているわ」


 シルフィが冷徹なトーンで割って入った。揺れる銀髪が、カウンターの灯りに照らされて鋭い刃のように光る。


「本来なら私が引導を渡したいところだけれど、奴は女を標的にしない。……現れるのは決まって夜の街道。獲物は“強者”と見なした男のみ。そして、必ず一対一(サシ)で仕留める。こちらが集団で動けば……奴は霧のように気配を消して、決して姿を現さないでしょうね」


「だから、クソ忌々しいってんだよ……っ!」


 ドレイクは苛立ちをぶつけるようにジョッキを握り締め、指の関節を白く鳴らした。

 誇り高い戦士であるほど、その「選別」と「完封」という事実にプライドをズタズタにされている。


 今夜もまた、酒場は《死神の凶戦士》という名の底なし沼へと沈んでいく。

 誰も気づいていない。

 自分たちが「弱者(ターゲット外)」として見逃されたのか、あるいは「まだその時ではない」と生かされているだけなのかを。


 ―――――――


 一方──。

 湿った夜気の中、酒場を後にした黒髪の少年は、不慣れな異国の石畳を確かめるように歩いていた。

 外套の裾が夜風に揺れる音さえ、街の静寂に吸い込まれていく。彼の足取りには重みがなく、まるで実体のない影が地面を滑っているかのようだ。


 やがて街外れの街道へ差し掛かったところで、少年はふと足を止め、天を仰いだ。

 雲間から溢れた月光が、その瞳に淡い銀色を宿す。


「……九十九、か」


 彼の独り言は風にさらわれ、誰の耳にも届かない。

 少年──杏四郎(きょうしろう)は、異世界の慣れぬ星空を見上げ、深く、重いため息をついた。


(……やはり、さっぱり要領を得ぬ。此度(こたび)の修行、いささか難儀が過ぎるのではないか)


 酒場でのやり取りを反芻し、彼は眉をひそめる。

 耳慣れぬ語調、見たこともない意匠の鎧、そして鼻を突くほどに強い酒の匂い。彼が知る日ノ本の作法とも、武家の矜持とも、この地はあまりにかけ離れすぎていた。


「『おがますく』……? 『ですばあさか』……? 戦場の秘策か何かか。あるいは、この地に伝わる荒ぶる神の呼び名でござろうか……」


 暗がりの中、杏四郎は真剣な面持ちで首を傾げた。

 この地へ流れ着いて以来、不可解な単語を幾度となく耳にしてきたが、先ほどの会話は特に得体が知れなかった。


「……そもそも、なぜ皆あのように怯えておったのだ? もしや、拙者の身を案じ声をかけていただいたのやもしれん……」


 彼は無造作に、腰に差した「それ」に手をやった。夜の闇よりもなお深い黒を纏った、細く鋭い、異形の鞘。その中には、この世界の住人が「死神の鎌」と恐れ、九十九の業(ごう)が眠っている。


 杏四郎は、日ノ本の武家・塚元家の四男として生を受けた。

 家督は長兄が継ぐ。それが理(ことわり)である以上、幼き頃より「いずれ家を出て、己が武のみを頼りに生きる」ことこそが彼に課された宿命であった。つい先日も、修行の名目で門を出る際、一族へ丁重に別れの辞(ことば)を述べたばかりだったはずなのだが──。


「……よもや、南蛮の果てまで辿り着いてしまうとは。はたまた妖怪に化かされたか」


 この地への転移という怪異に対し、杏四郎が導き出した唯一の答えがそれだった。

 目覚めれば見知らぬ森、耳に響くは通じぬ言語、目に映るは異形の武具。しかし、驚愕も狼狽も、彼の胸にはさざ波ほども湧きはしなかった。

 武士の四男坊に、嘆きに浸る猶予など与えられてはいないのだ。


(力持つ者がこの地に集うというのなら──ここへ迷い込んだこともまた、天より与えられし“修行”の一環よ)


 杏四郎は、吸い込む夜気とともに背筋を正した。

 己を練り上げ、未知の強者と刃を交える。それこそが塚元の男の務めであり、杏四郎という個の渇望でもあった。


 黒い外套の内側から、杏四郎は一つの古い仮面を取り出した。

 家を出る際、母より厄除けとして授けられた、木と紙の合わせ細工。額には鋭い角が突き出し、口元を呪わしく歪ませた鬼の面──日ノ本で『般若(はんにゃ)』と呼ばれるそれだ。


「内容は判じ得ぬが……先ほどの酒場の様子では、この地には腕に覚えのある手練れが多いようであったな」


 杏四郎は、迷いなくその面を顔へと当てがった。

 視界を覆う重みと、肌に伝わる冷ややかな感触。それは彼にとって、戦場へ臨むための“心の鎧”に他ならない。

 だが、この祈りにも似た伝統の面が、異世界の住民に「オーガの皮を剥いだ呪物」と恐れられ、恐怖の代名詞と化していることなど、杏四郎は露ほども疑っていなかった。


「……まずは、百人。そこが、この地の修行の区切りでござろうか」


 夜の静寂に沈む街道へ向け、彼は一歩を踏み出す。

 腰に差した愛刀の柄に、吸い付くように指先を添えた。


 その背中に、もはや先ほどの「覇気のない少年」の面影はない。

 ただ、月光を浴びて鈍く光る鬼の角だけが、夜の闇を傲然と切り裂いていた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 夜の静寂が、街道を厚く塗り潰していく。杏四郎は月光の下、ただ独り静かに佇み、まだ見ぬ強者の訪れを待っていた。

 その手に握られているのは、塚元家に代々伝わる古流の真髄を宿した一振りの刀。

 迷いなきその刃は、この異国に迷い込んで以来、既に九十九の「手練れ」を退けてきた。


 そして──。


 今宵、彼は記念すべき百人目の修行相手を求め、人々が震え上がる“死神の狩り”を、またしても無自覚に始めるのであった。


 般若の面の奥、杏四郎は外界の雑音を断ち切り、ただ静かに心を澄ませる。張り詰めた沈黙。その静寂を切り裂くように、四つの下卑た気配が街道脇の雑木林からぬらりと這い出した。

 杏四郎はそれを、肌をなでる空気の揺らぎのように即座に察知する。


(四人。足運びは散漫、殺気も浅い。……練度の低い“雑魚”か)


 それは他所から流れ着いた山賊か、あるいは食い詰めた傭兵崩れであろう。煤けた革鎧を纏い、錆びた鉈(なた)や不格好なモーニングスターを握りしめている。彼らの濁った視線は、杏四郎が羽織る上質な黒の外套と、腰に差した業物に釘付けとなっていた。


「おい見ろよ、ありゃあ上等な出立ちだぜ。……異邦人か? 運がねえな、独りきりとはよ。さっさと片付けて身ぐるみ剥いじまおうぜ!」


 山賊の一人が下卑た笑みを浮かべ、仲間に囁く。

 彼らは、目の前に立つ小柄な人影こそが、今この街で最も恐れられている“凶戦士”その人であることなど、夢にも思っていない。ただの「カモ」だと侮り、死の淵へ足を踏み出している。


 杏四郎は静かに、深く長い呼吸を一つ。

 武者修行の相手としては、あまりに不出来。失望すら湧かぬ。

 彼は刀を抜くことさえせず、ただ片手をゆるりと上げ、掌を相手に向けた。そして、わずかに首を横に振る──。


「(身の程をわきまえ、去ね)」


 言葉は通じずとも伝わるはずの、慈悲を込めた拒絶の仕草。

 しかし、月の光を浴びる般若の面が、暗闇の中で呪わしく歪んだ。

 その静謐すぎる佇まいは、獲物を嘲弄し、魂を品定めする「死神の威圧」として、山賊たちの脳髄に突き刺さった。


「んだコラァ! 舐めやがって!」

「死ねやぁッ!」


 四人の荒くれ者が、獣のような咆哮とともに一斉に飛びかかった。

 四方から振り下ろされる、無軌道で野卑な鋼の群れ。彼らの脳裏にあるのは、獲物を仕留めた後に手に入る金貨と、今夜の酒のことだけだ。


 杏四郎は般若の面の奥で、重いため息とともに小さく呟いた。


「……致し方なし」


 刹那、面の奥で瞳が凍てつくような光を宿す。


 停滞していた時間が爆ぜた。

 抜く手も見せぬ細身の刀が、夜の帳を鋭く切り裂く。それは剣閃というよりは風の爪跡、あるいは夜空を奔る音なき稲妻。四人の放った鉈も鈍器も、杏四郎の外套の端に触れることすら許されない。


「え……?」

「あ、が……っ」


 先頭の男は、己の胸に刻まれた赤い一文字に気づいた瞬間、声にならない悲鳴を漏らした。

 続く二人は、獲物を振り抜くより早く斬り伏せられた。彼らが最期に感じたのは、魂まで凍るような冷気と、世界が反転する浮遊感だけ。

 四人目の男は、仲間たちが糸の切れた人形のように崩れ落ちる様を、見開いた眼球に焼き付けた。

 眼前で起きた事象も、少年の動きも、何一つ理解できない。ただ、圧倒的な「死」の速度だけがそこにあった。


「ば、ばけ──」


 叫びが形を成すより早く、杏四郎の刀は既に鞘へと収まっていた。

 ──シュッ。

 静謐な、しかし断固たる鯉口(こいぐち)の締まる音。


 男はその残響を聞いた直後、首筋から噴き出す熱い血の感触とともに、深い闇の底へと沈んでいった。


 武器を奪う価値すら認められず、四つの骸が冷たい石畳に転がる。彼らは自分たちが「伝説の完成」に立ち会ったことさえ知らぬまま、浅ましい欲の報いを受けて果てた。

 杏四郎は刀の柄から手を離し、冷静に思考を巡らせる。


(……練度なし。構えなし。ただの路上の賊。これを“武者修行”と呼ぶには、いささか無理がある)


 そこで、ふと、彼は思い至った。


(……ああ。しまった)


 不本意ながら、斬ってしまった。これで合計、百人目だ。


「これで……『百人斬り』を成就したことに、なってしまうのか」


 般若の面の下で、彼は心底うんざりした。

 彼が求めていたのは、この地の強者との命を賭した手合わせであって、便宜上の区切りの数字などではない。


(やむを得まい。この“南蛮”の地は、もはや拙者の武を練るには不足であったか。あるいは、これしきの相手に抜刀を禁じ得なかった、己の修行不足か……)


 杏四郎は戦利品に一瞥もくれず、静かに踵を返した。街を覆う畏怖の噂など、彼には塵ほどの価値もない。求めるは、ただ一本の剣の道のみ。


「……次へ行こう。さらに果てを目指せば、まことの強者に出会えるやもしれぬ」


 こうして凶戦士は、記念すべき百人目を屠ったという節目を、喜びも達成感もなく通り過ぎ、夜明け前の街を後にした。

 残されたのは、四体の骸と──歴史に刻まれた“百人斬りの死神”という、あまりに巨大な凶名だけだった。


 翌朝。街道は、昨日までとは比べ物にならない怒号と悲鳴に包まれていた。


 夜明けとともに発見された、四つの無惨な死体。

 身元は名もなき山賊の残党と判じられたが──その「断たれ方」は、もはや人の業(わざ)とは思えぬほどに完璧であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。