12:三日目 -栞-
波の音が遠くで聞こえる気がする。国頭村の朝はエンプティーの臭い匂いすらない、あまりにも新鮮な空気に包まれていた。五六冬眞が目を覚ますとそこは東江の小屋の畳の上だった。身体が重く脳を鋭利な刃物で削り取られている頭痛がする。しかし脳に語りかけるようなノイズのうるささは、消えていた。
「前の部屋とは違う……」
「あ、……起きたかい坊ちゃん」
椅子に座ったまま東江の婆さんが声をかけてきた。彼女は昨夜から一睡もしていないのか隈があり、その手には無数の記号が書かれた扇子を持っていた。
「脳が静かだ。昨日まであんなに騒がしかった音が止まってる」
「あんたの脳の血管に、私のDCLで作った『栞』を挟んでおいたわ」
「しおり?」
「そう。私のDCLは、付与した相手のDPIが変わってしまうと解けてしまう。だからこうやって何日もかけて作った、私の異能解体が編み込まれている扇子をあなたに渡して、いつでも坊っちゃんにかけた異能解体が解けてもいいようにしておくのよ」
「最大で一時間、何度も使える。便利だな」
「ただ、破綻する瞬間を三日目の二十四時まで、今のあなたの状態として固定しただけよ」
老婆は静かに扇子を閉じ、五六に向き直った。
「いい、よく聞きなさい。今の坊っちゃんはページをめくることを禁じられた本と同じ。二十四時までは時間経過と共に、左目の暴走で体の調子が悪化することはない。だけどこの扇子を使い果たし、ゼルの異能をコピーできなかった場合、あんたの物語は一気に最後のページまで燃え尽きることになる」
「……ああ。でも最初から、三日目の夜を越えるつもりはない。そういえば……美奈は?」
「あの子なら、外で跳ねているわ。あんたにエネルギーを放ったせいで、自分のエネルギーがほぼ空っぽになったって嘆きながらね」
五六が小屋の外へ出ると、眩い太陽が眼球を刺した。そして森の奥の砂浜では美奈が不機嫌そうな顔で、何度も砂を蹴り上げていた。
「友達とかと一緒に遊ばないのか?」
東江の婆さんは答える。
「あの子は自分の鍛錬に時間を費やす子なの。でも多分小さい頃の嫌な思い出とか、見た目がずっと変わらないコンプレックスとか……そういうのも相まって避けてるのよ」
「……最後だから話してくるよ」
木に刺さった無数の杭を下り、森を出た。視界にはスクワットをしている美奈がいた。
「よ、朝から早いな」
「おはよ、お兄さん……でも最悪。貯めてた100日分のエネルギーをほぼ使ったんだよ? 今、私すっごく足が遅いんだからね」
「……悪かったな。恩にきる」
「恩に着るなら、勝ってよね。……冥王は……本当におかしいから。異能解体さえ通用しない世界の穴みたいな奴なんだから」
「世界の穴?」
「うーんと、バグ? みたいな感じ。あ!」
美奈が海の方を指さす。水平線の向こうから空気を切り裂く低い振動音が近づいてきた。純黒の機体。忘れもしないあのジェット機だ。
「迎えが来たわね」
老婆が後ろから語りかける。
「五六冬眞。DPIは今、450を指している。……あと50、その余白に何を書き込むかはあんた次第よ」
「……ああ。行ってくる」
ジェット機が砂浜に着陸しハッチが開く。中から現れたのは包帯だらけの身体を黒いスーツで包んだ石渡だった。彼は五六の顔を一瞥し、鼻で笑った。
「……マシな面になったな。沖縄の潮風で腐敗物でも洗い流したか?」
「……石渡。今は冗談言ってる場合じゃない」
「ああそうだな。状況は最悪だ。ゼルが動いた。……新倉さんがテレポートして奴の拠点を探りに行ったのだが、奴は中央地点で待っている」
「なんでゼルは俺が来るということを知ってるんだ」
「さあな。あいつの異能が完全無欠なんだろう」
五六はジェット機に足を踏み入れる。
「お兄さん、いや五六! 次は絶対勝つから!」
「ははっ。やってみろ! 東江の婆さんもありがとうな。こんな大事な扇子もらっちゃって」
離陸する機体の窓から手を振る美奈と、微動だにせず海を見つめる東江の老婆の姿が見えた。
最終日の午前九時。五六冬眞の脳内にかけられた時限爆弾がカウントダウンし始めた。DPI 450。目的地、拠点中央広場。標的、冥王――ゼル。
「……さあ、始めよう。……俺の人生の序章を!」




