キシローとメディア:2
彼を嗤った彼らは笑いながら何かを考えている?誰かが手に入れなかったものを自分が手に入れる未来だろうか?
そんな誰かの物など、ほんとうに自分のものになるだろうか?
これまでも我々は別の誰かをヒーローに仕立て上げ、彼が全てを変えてくれると夢見、そうではないとみると否や手のひらを返して来た。今や彼ももしかしたら既に『既得権益』を受ける側なのかも知れない、おそらく、かつての自分は忘れているのだろう。
分の手に馴染み、使いこなせるのだろうか?
キシロ―をメディアがどう扱ったかだが、まさしく彼はデモ団体のように、あるいは作家のように、もしくは我々の代弁者のように扱われた。
IT企業家などから、障がいがあろうとなかろうと同じ人間として扱うためにというシンポジウムが開かれている。
早速サイトを探したが、検索上位は中学生の人権作文だった。
こんな当たり前のことを真面目に取り組まなければならないほど、我々の人権意識は地に落ち、『中学生ではあるまいし』と嘲笑するような社会になったのだろうか。
ではなぜその中学生のような理想は通らないのだろうか。
取材に応じたキシロ―は、
「僕このイベントの主催者じゃないです、なんか呼ばれて」
と言っているが、実際は誰もが彼の言葉を聞きにここに来ている。
(◯日新聞より)
権力者側には彼らがいる、反権力者側には彼がいると。
これは新聞(もちろん我が社のも含む)にテレビといったメディアもあるにはあるが、何より彼の著やネットでの発言を無視できないほどには何かを言おうとする適当な者がいなかったのも事実だ。
いや、適当な、は性格ではない。
その当時誰もが彼に反権力の旗をとらせあぐらをかいていたわけではなく、事実それなりの有識者が、彼の尻馬に乗り、あるものは焚きつけていた。
そして、あるものは彼を批判し、真逆の事を言い、それの賛否はともかく、耳目を集めた。
実際権力者側のネット世論を我々メディアは無視できなかったのだから、それに逆らうキシロ―の論など無視できるはずなかったのだが。
障がいがあろうとなかろうと同じ人間として扱うって当たり前すぎですけどね。




