第15話 紫焔の一矢
ユラは、小瓶を両手で受け取った。
月明かりの下、紫焔花の蜜はまるで生きているように揺れていた。
小瓶の中で、淡紫の炎がゆっくりと呼吸しているようにも見える。
「……あたたかい」
ユラが小さく呟く。
「違う」
アキラは首を振った。
「それは熱じゃない。魔力と魂の揺れだよ。栓を抜いたら後戻りできない」
「大丈夫。……やり切ります」
ユラは小瓶の栓を抜いた。
甘く、けれど胸の奥がざわつくような、奇妙な香りが夜気へ混じる。
迫るキメラたちの咆哮。
地面を抉る爪。
震える集落。
それでもユラは目を逸らさなかった。
「どうすればいいんですか」
「鏃に塗るんだ」
アキラが答える。
「火を纏わせて撃ち込むんだ。それで神樹の中の本体核だけを焼き抜ける」
「外したら?」
「……考えない」
「ふふっ」
ユラは小さく笑った。
笑いながら、指は震えていた。
それでも彼女は、矢の鏃に紫焔花の蜜を垂らす。
「……イグニス」
その瞬間。
ボッ!!
紫の炎が、鏃から爆ぜた。
ユラの目が見開かれる。
火は矢だけでは終わらなかった。
弓へ。
指へ。
腕へ。
まるで彼女の魔力を喰いながら、炎は生き物のように這い上がっていく。
「ユラ!」
シュナが叫ぶ。
だが、ユラは歯を食いしばったまま弓を握りしめる。
「大丈夫です……!」
彼女の声は震えていた。
けれど、瞳は折れていなかった。
「私がこの村を守る……!」
「父さんに代わって……今度は、私が!!」
炎はついに彼女の全身を紫に包み込む。
けれど不思議と、その中心に立つユラの輪郭だけは、揺らぎながらも消えない。
アキラは息を止めた。
(耐えてる……!)
シュナが獣型を押し返し、ベルカが飛翔体を引きつける。
わずか数秒。
だが、永遠のように長い。
ユラはゆっくりと弓を引き絞った。
鏃に燃える紫炎が、神樹の根元の一点――黒く脈打つ核へ狙いを定める。
「……いけます」
ユラが静かに言った。
炎に包まれた瞳が、黒く脈打つ核だけを映していた。
アキラは小さく息を吸った。
「撃て、ユラ!」
アキラの声が、戦場の喧騒を切り裂いた。
ユラは頷き、息を止めた。
引き絞った弓弦が、耳元で硬く軋む。
鏃を包む紫の炎は、今や彼女の腕だけでなく肩口まで這い上がり、衣の端を焼きながら揺らめいていた。
熱い。
痛い。
怖い。
それでも、目だけは逸らさなかった。
視線の先には、集落の守りの象徴である神樹。
その根元に食い込むように脈打つ、黒紫の核。
(あれが……)
矢を握る指が震える。
父が倒れた時の光景が脳裏をよぎった。
焼けた木の匂い。
花茸の触手。
血に濡れた地面。
それでも最後まで自分を庇おうとした、大きな背中。
(父さん……)
その背中を超えるために、今ここに立っている。
「私は――」
獣型のキメラが咆哮し、地面を砕いてシュナへ突っ込む。
飛翔体は夜空で翼を打ち鳴らし、ベルカごと叩き落とそうと旋回する。
花茸型の触手は無数の蛇のように伸び、ユラへと絡みつこうとしていた。
「させませんッ!!」
シュナの拳が獣型の横顔を撃ち抜く。
ドゴォッ!!
甲殻が割れ、巨体がたたらを踏む。
「ベルカ! 上だ!」
「キュイイッ!!」
アキラの叫びに、ベルカは見張り台の残骸を蹴って跳び、飛翔体の目元へ頬袋から飛び出したクルミを叩き込んだ。
飛翔体が一瞬だけ視線を逸らす。
ユラは、炎に包まれた矢じりを神樹の根元へ据えた。
「――私が、この村を守る!!」
弦が放たれる。
ヒュンッ――!!
矢は紫焔の尾を引き、夜の広場を一直線に裂いた。
紫色の業火を纏う矢が戦場に一閃。
神樹の前へ伸びていた花茸型の触手が、矢の軌道に触れた瞬間、紫焔に喰われて消し飛ぶ。
「なっ……!」
アキラが息を呑む。
炎が、邪悪なものだけを選んで焼いている。
矢は迷いなく飛び、神樹の根元に脈打つ黒い核へ――
ズガァァァンッ!!
直撃した瞬間、紫の爆炎が神樹の根元から噴き上がった。
夜空を焦がすような光柱。
耳をつんざく轟音。
地面が揺れ、祠の屋根瓦が跳ねる。
「ユラッ!!」
アキラが叫ぶ。
矢を放った反動で、炎は弓を伝い、ユラの全身を一気に包み込んでいた。
紫焔花の蜜が、彼女の魔力に共鳴し、矢だけでは飽き足らず、射手そのものを業火の媒介に変えようとしている。
「ぐ……っ!」
ユラは膝をつきかけた。
だが倒れない。
歯を食いしばり、焼けつくような苦痛の中で神樹を見据え続ける。
「まだ……終わってない……!」
神樹の根元で、核が悲鳴を上げるように脈打った。
そこから三体のキメラへと繋がっていた黒い脈が、一斉に逆流し始める。
獣型が吠えた。
飛翔体が空中で身を捩る。
花茸型が触手を狂ったように振り回す。
だが、それも長くは続かなかった。
パキ、パキパキパキ……ッ!!
核の中心に、白い亀裂が走る。
「砕ける……!」
アキラが前へ出る。
紫焔は黒い脈を喰い尽くしながら、神樹の根元に食い込んでいた本体核だけを執拗に焼き続けている。
神樹の樹皮も巻き込まれて裂け、白い煙が上がる。
それでも、炎の中心でいちばん強く焼かれているのは、明らかにあの黒い核だった。
「いける……! いけるぞ……!」
アキラの声と同時に、本体核が弾けた。
バギィィィィンッ!!
爆ぜた黒い破片が夜へ散る。
その瞬間、三体のキメラの動きがぴたりと止まった。
獣型は、その巨腕を振り上げた姿勢のまま。
飛翔体は、空中で翼を広げたまま。
花茸型は、井戸の縁に触手を絡めたまま。
次の瞬間、三体の異形は、内側から崩れるように塵となり始めた。
「終わった……?」
ベルカが震える声を漏らす。
「まだ!」
アキラは走った。
倒れかけているユラのもとへ。
紫焔はまだ消えきっていない。
炎の残り火が彼女の腕や髪にまとわりつき、魂の深部まで舐めようとしている。
「シュナ、トランクから聖水をッ!」
「はいッ!!」
手渡された聖水をユラに優しく掛ける。
紫焔の残り火は聖水を蒸気へと変えながらようやく消える。
ユラの身体が、ぐらりと傾く。
アキラがすぐに抱きとめた。
「ユラ!」
「……ア、キラ……さん……」
彼女の声は掠れていた。
腕と肩、頬の一部が赤く焼けている。
だが、意識はある。
「よかった……!」
アキラの声が震えた。
「村は……」
ユラはうっすらと目を開ける。
「守れ、ましたか……?」
アキラは、崩れ落ちたキメラの残骸と、静まり返った広場を見回した。
誰も死んでいない。
新たな襲撃もない。
神樹は黒く焼け焦げていたが、幹の半ばから上はまだ生きている。
「うん」
アキラは強く頷いた。
「守れたよ。君が、守ったんだ」
ユラは、ほんの少しだけ笑った。
それから安心したように、アキラの腕の中で目を閉じた。
シュナが駆け寄って脈を取る。
「気を失っただけです。火傷はありますが、命に別状はありません」
「よかった……」
ベルカがアキラの肩によじ登り、ユラの顔をのぞきこんだ。
「キュウ……(この子、すごいね……)」
広場には、しばらく誰も声を出せなかった。
やがて、集落の一人が震える声で言った。
「……終わった」
その一言がきっかけだった。
あちこちから、堰を切ったように泣き声が上がる。
子どもを抱きしめる母親。
膝から崩れ落ちる若者。
倒れていた男たちも、互いの無事を確かめながら呆然と空を見上げていた。
「ユラ……! ユラは無事なのか!?」
「生きてる、まだ息がある!」
「サヤ様を呼べ!」
アキラはユラを抱いたまま、神樹の根元を見た。
黒く焼け焦げた樹皮の奥で、かすかに脈動が残っている。
「……まだ生きてる」
アキラが呟く。
「神樹が、ですか?」
シュナが問う。
「うん。バルトロマイの核あたりは焼け焦げてるけど、神樹の根までは死んでない。今なら間に合いそうだよ」
そう言うなり、アキラはユラを近くの布の上へそっと寝かせ、神樹へと駆け寄った。
薬瓶、小刀、樹液採取用の管、治癒用の粉末。
彼の手は迷いなく動く。
「ベルカ、消毒用の青い瓶をとって!」
「キュッ!」
「シュナ、焦げた樹皮を削る。深くは切らないで、表面だけ!」
「了解です!」
三人が一気に動き出した。
神樹の患部から黒く変質した部分だけを除去し、残った正常な組織へ薬液を流し込む。
アキラは手早く処置を続けながら、最後に杖をそっと振った。
淡く、柔らかな光が神樹の根元を包む。
黒く焼けた部分の奥で、わずかな生命の脈動が戻っていく。
焦げ跡の縁から、小さな若芽が一つ、ゆっくりと顔をのぞかせた。
集落の人々が息を呑む。
「神樹さまが……」
「まだ生きておられる……!」
アキラはふうっと息をつき、ようやく肩の力を抜いた。
「……まだ完全じゃないですが、これなら持ち直せると思います」
アキラは額の汗を拭いながら安堵の表情を浮かべた。
「しばらくは結界も弱るだろうけど、時間をかければ、きっちり回復するはず」
その時、杖をついた小柄な老女が、人々に支えられながら前へ出てきた。
「この隠れ里、トネリコの長を務める、サヤと申します」
彼女は神樹の若芽を見て、静かに目を閉じた。
そして、アキラたちへ深く頭を下げる。
「……旅の方、深く礼を申し上げます」
「我らの里を、神樹を、私の孫娘を救ってくださった」
アキラは慌てて首を振る。
「い、いえ。まだ応急処置ですし、完全に治したわけじゃ――」
「それでもです」
サヤははっきりと言った。
「今日ここであなた方が来なければ、里は終わっていた」
その横で、ユラの母らしい女性が涙ぐみながら娘の額を撫でている。
ユラの火傷は痛々しい。
それでも、その胸は確かに上下していた。
サヤは続けた。
「この隠れ里トネリコは、あなた方を客ではなく、恩人として迎えます」
長老の奥で、村人たちも傷だらけの笑顔をアキラたちに向けた。
「出せるものはすべて出しましょう。食料も、水も、薬草も、渓谷へ向かうための情報も」
シュナが一歩引いて、アキラを見た。
ベルカは肩の上でこくこくと何度も頷いている。
アキラは、ようやく深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。ご厚意、ありがたく頂戴します」
こうして、多くの犠牲を出したバルトロマイが仕掛けた戦いは終わった。
アキラが安堵のため息を吐くと、あッ、と声を上げた。
「千里葉の効果が切れた。シュナ、肩貸して。全然見えない」
「本当、アキラはいつも無茶なことをするので心配です」
アキラの腕を取るシュナがため息をついた。
「キミがいるからこそ、僕も無茶ができるとも言えるけどね」
アキラの苦笑いする顔に、少し照れながらシュナは顔を逸らした。
しかし、その顔は少し緩んでいた。




